21話 風邪
先輩の言葉には本当に魔力があったらしい。
朝5時過ぎ、寝苦しさを感じて目が覚めた。体が怠い。喉が痛い。
すぐに悪戯っぽく笑う先輩の顔が頭に浮かんだ。本当に勘弁してくれよ……。
重たい体を動かしてリビングへと向かう。とりあえず、体温を測ろう。体温計はリビングの引き出しの中。確か、同じ引き出しにマスクも入ってたはず。
リビングに入ると、父親が1人朝食を食べているところだった。今日は土曜だが、父親は土曜も休みではない。
「陸斗か。休みなのに早いな」
父親はスマホを確認しつつ、こちらを見ることもなく言う。
「風邪ひいたみたい」
僕の口から発せられた声はかなり枯れていた。父親もそれには気づいたようで、顔をこちらへと向けた。
「ただの風邪か?」
体感的にインフルエンザではない。そこまでつらくはない。
「たぶん」
返しつつ体温を測る。体温計に表示された数字は37.7℃。インフルエンザにしては低いし、やはりおそらくただの風邪。
「そうか。とりあえず、病院には行きなさい。金は出すから」
父親は財布を取り出して、1万円札を1枚差し出した。
「これだけあれば足りるだろう」
「あぁ、うん。ありがとう」
僕は1万円札を受け取った。
「じゃあ、私はもう出る」
食べた食器を片付けることもなく、父親は仕事へと出かけていった。いつものこと。父親は他の家族が起きる前に家を出て、朝はテーブルに空の皿が残っている。
僕はその皿を流しへと運んで水につけた。いつもなら洗うところまでやるが、今日はその気力がない。
さて、この近くの病院は土曜日もやっていたっけか。僕はサイトを確認するために部屋へと戻った。
幸い、家から歩いて15分ほどの病院は土曜日も開院していた。予約もネットで問題なく済ませ、その時間になるまで、僕はベッドで横になることにした。
怠いくせに眠気はない。症状は咽頭痛と発熱、後は倦怠感くらいで、咳や鼻水はない。やはりインフルエンザということはなさそうだ。
ベッドに横たわっているとなんとなく手持ち無沙汰で、かと言って参考書や文庫本を開く気力はなく、僕はスマホを手にしてLINEを開いた。相手は先輩だ。恨み言の1つも言ってやろうと思った。
『蒼井陸斗: 魔女』
それだけを送った。意味不明だ。でも、僕はそれだけで溜飲を下げてスマホを閉じた。
そういえば、昨日先輩からもらったのど飴があったはず。わざわざのど飴を渡してきたのも、フラグのつもりだったんだろうな。まぁ、今はありがたくいただこう。
レモン味ののど飴は、のど飴というだけのことはあり咽頭痛を少しは軽減してくれた。まぁ、少しだけだが。
眠くはないが、ベッドへと戻り目を閉じる。病院の予約の時間は10時。まだまだ先だ。
それからしばらくの間、なんとか眠ろうと試みていると、枕元に置いてあったスマホが震えた。
『真っ白最高: こんな朝早くに何事!?』
『真っ白最高: ……もしかして本当に妹ちゃんが風邪ひいたとか?』
『真っ白最高: ごごご、ごめんなさい!!』
先輩の動揺する顔が頭に浮かんで、僕は小さく笑った。
『蒼井陸斗: 安心してください。風邪をひいたのは妹ではなく僕なので』
『真っ白最高: 蒼くん無事!?』
『蒼井陸斗: LINEしてる時点で無事ですよ。風邪なのは間違いないですけど、大したことはありませんから』
『真っ白最高: ちなみに、わたしも今朝から37℃ちょっとの微熱が……』
先輩まで風邪をひいたと? 本当に? これ、試験2週間前の出来事だからまだいいが、試験の週だったら本当に笑えない事態だった。
『蒼井陸斗: 文芸部全滅じゃないですか……』
『真っ白最高: 紅ちゃんはきっと無事だから。大くんがウイルスをばら撒いたんだよ!』
全部大白先輩のせいにするのか……。さて、先輩も風邪だというなら、こんな雑談に付き合わせるのも悪い。
『蒼井陸斗: とにかくお大事になさってください』
会話を終わるつもりでそう送った。しかし。
『真っ白最高: 蒼くん! 蒼くんが大丈夫なら暇つぶしに付き合ってよー』
会話は終わらなかった。
『蒼井陸斗: 暇つぶしですか?』
『真っ白最高: わたし、熱があって声がかなり変なだけで、普通に元気なのに、家族が寝てろって部屋に閉じ込めるんだよ! ひどいと思わない?』
『蒼井陸斗: いえ、ご家族の判断は賢明なものだと思いますよ』
そもそも移すことを考えれば自ら部屋に閉じこもるべきだろう。いや、先輩に周りのことを気にしろなんて言うつもりはないけど。……風邪だけど元気とか言い出すのが、完全に子どもなんだが……。
『真っ白最高: 蒼くんは暇じゃないのー?』
『蒼井陸斗: 寝る以外にやることはありませんね』
『真っ白最高: 眠い?』
『蒼井陸斗: いえ、全然』
『真っ白最高: じゃあ、お話しよー。何の話がいい? ヒトライノウイルス?』
『蒼井陸斗: 風邪っぴき2人で原因になったウイルスの追求とかするつもりありませんから』
風邪をひいているというのに、文章から伝わるいつもの先輩感。本当に軽度らしい。
『真っ白最高: ライノウイルスってのは、RNAウイルスに分類されるんだけどね』
『蒼井陸斗: 本気でヒトライノウイルスの話を始めるんですか……?』
『真っ白最高: 何の略語でしょークイズー! RNA』
なんか始まった……。先輩、自由だなー……。
『蒼井陸斗: リボ核酸』
『真っ白最高: ATP』
『蒼井陸斗: アデノシン三リン酸』
一体 何をやっているんだろう……。いや、何をも何も、暇つぶし以外ない。
『真っ白最高: PTA』
あれ、なんだっけ……。PTAってあれだよな、学校のやつ。
『蒼井陸斗 Parent Teacher』
Aってなんだっけ? ……たぶん組織とか団体…………Association!
『真っ白最高: Associationでしたー。ざんねーん』
『蒼井陸斗: Association』
一瞬の差で答えを言われてしまった。くそっ。
……なんでこんなことで熱くなっているんだ?
それから、先輩との暇つぶしは2時間以上も続いた。その時間はあっという間に過ぎてくれたが、後から思えば、普通に寝た方がよかったのはわかりきっていた。