10話 普通
「えっと、いきなり質問なんかにきてごめんね。迷惑だったよね……」
先輩とのやりとりのせいで佐伯さんは完全に萎縮していた。質問に来たのは勉強へのやる気の現れなのだろうし、それを非難するつもりは僕はもちろんのこと先輩にもなかっただろう。
「私、バカだからさ。この程度の問題もわかんなくて……」
「先輩はそういうことを言いたかったんじゃないと思いますけど。質問のレベルがどうのって話じゃなくて、なんというか、まずは自分で考えるの大事だよねって話かと」
そう言うと勉強に戻ったはずの先輩がこちらを向いて口を開いた。
「問題見る、わかんない、蒼くんに訊けばいいやじゃ、思考放棄だよって話だった。そんな、自分はわからないって決めつけて考える気もない状態で質問されたら、わかってもらうのにめっちゃ時間かかるし、その場でわかったって言っても1週間後には忘れて同じ質問してくるんだもん。わからないことを人に訊くのはいいけど、わかろうともしてないことを人に訊くのは違うと思うってこと」
先輩に似合わずまともなことを言っている気がした。
「先輩、珍しくまともなことを言ってますね」
思ったことをそのまま口に出していた。
「失礼な! わたしはいつだって真っ当なこと言ってるし! 空気が読めないって言われるくらいにはいっつも真面目なんだからね!」
それは真面目なのだろうか……? まぁ、別に反論はしまい。そんなことはどうでもいいし。
「先輩は真面目な変人なんですよね。知ってますよ」
「ちなみに、蒼くんは質問とかないの? 3日考えてもわからなかった問題とかほしい」
「今のところないので、先輩は自分の勉強に専念してもらって大丈夫ですよ」
「定期テスト対策ってワンパターンで飽きちゃった」
「そうですか。僕は別に飽きてないんで、先輩の暇つぶしに巻き込まないでください」
気づけばいつものように先輩と戯言の応酬になってしまい、佐伯さんと御堂さんを放っておいてしまっていた。僕は2人に向き直った。
「おふたりは、先程の問題が用件だったならもう解決しましたか? 僕は勉強に戻りますけど」
言っていることはつまり帰ってくれということ。失礼な物言いかもしれないが、ここに居られても気まずいだけだ。
「……私は、私なりに精一杯やってる」
それは佐伯さんの口から漏れ出た呟き。
「蒼井くんとか、そっちの先輩さんから見たら全然かもしれないけど、私だって一生懸命勉強してる。頭いい人の基準でこれくらいはやってって言われても、そんなのいきなりできるわけないじゃん!」
佐伯さんの言葉に僕は一瞬怯んだ。でも、先輩はそうではなく。
「ごめんね。わたしは自己中だから、わたし基準でしか話さないよ。わたしの言葉には、全部最後に『わたしはそう思うよ』ってついてると思って聞いてくれればいいよ。一般的ななんて言ったけど、一般論言ってるつもりなんて全然ないから。わたしの世界ではわたしが正しいけど、サエちゃんの世界でわたしが正しいかなんて知らないもん」
先輩は佐伯さんと意見を戦わせる気はないらしい。サラさんとはあれだけ言い争いをした先輩が。先輩は、きっと佐伯さんには自分の意見を理解してほしいとすら思っていないのだろう。先輩の中で、佐伯さんは意思疎通の難しい相手として認識されたのかもしれない。
そう認識した理由もわからなくはない。けど、先輩の態度はあまりに偉そうに見えた。
「なに、それ。……いや、いいです。私もなんかいきなりキレてごめんなさい」
不遜な態度の先輩に、それでも謝ることのできる佐伯さんは尊敬すべき人だろう。
「響子、もう行こ」
佐伯さんは御堂さんを連れてパソコン室から去っていった。
佐伯さんたちから見れば、僕や先輩は、勉強ができることを鼻にかけたいけ好かない人間だろうか。
でも、それは逆の話だって成り立つ。
先輩から見れば、佐伯さんたちは、勉強ができないという言葉を言い訳に考えることを放棄しているように映るだろう。
自分と『普通』を共有しない相手。そんな相手とわかり合うのは難しい。
僕にとっては、授業を聞けばその内容がわかるのが当たり前。それが僕にとっての『普通』で、それができない相手は僕にとって『普通でない』のだ。
佐伯さんと僕とでは、特にこと勉学に関して『普通』が全然違う。そのギャップを埋めるには、きっと、互いに相手にとっての『普通』を理解して歩み寄る必要があるのだろう。
でも、例えば先輩はそんなことはしないだろう。そして、僕だって先輩寄りの人間だ。相手とのギャップを埋めるために持論を曲げるような人間ではない。
類は友を呼ぶなんて言うが、僕はきっと、同類以外の相手と友人になろうと思えていない。
試験では、この辺りの考え方をうまく書き換えなくてはならない。ありのままの僕が協調性のない非道徳的な人間であるとしても、試験の答案ではそれは隠さなくてはならない。
佐伯さんたちと関わることが道徳の試験対策になるというのは、実際、担任の言う通りなのかもしれない。関わることで、僕がどれだけ求められている人物像と異なっているのかを実感できる。
僕は道徳の指導要領に目を通しつつ、試験対策のため、道徳的な人間だったら今どのように対応したのかを思考し始めた。