08 家出少女
「眠り姫ならぬ、眠り王子か」
自分で言ってみたものの、全く似合わないし上手くもない。と、良は呑気なことを考えながら、友人の元へ戻ろうと駅前を歩いていた。それにしても、先程から道行く人の視線が痛い。帰宅ラッシュの時間に差し掛かり、目に見えて人の数が増していた。
手触りの悪い顎をさすって自分の格好を見下ろす。ジャージ姿のどこが悪い。そう開き直ってもよかったが、そろそろこのジャージも限界かもしれない。擦り切れて穴の開いた膝の部分が、切実に現役引退を訴えていた。
良は古き良き日本人を代表できるほど物持ちがいい。と、いえば聞こえはいいが、ただ単にあまり格好に頓着しないとも言えた。卯槌に借りるという選択肢もなかった。なぜなら彼は、常に時代錯誤なズルズルの着物姿だからだ。あちらの方がかえって悪目立ちしただろうと結論付け、一応人目を気にしてビルの路地裏へと足を向けた。
良の頭には失業した、だとか、家なき子になってしまった、といった悲観的な考えはすっかり無くなっていた。むしろ身軽になったとすら思っている。折角だから、旅でもしようと思い至った。昔はよくあちこちを回ったものだが、すっかりご無沙汰だ。それを思えば、今すぐにでも旅立ちたい気分だ。とはいえ、懐の寂しさは如何ともしがたい。
(しばらくこの町で働くか。住む場所はアイツの処で厄介になればいい)
桃園は遠いようで、実は隣町より近い。門をくぐれば勝手知ったる友人の家――もとい別世界だ。だが、もしこの思い付きを、勝手にアテにされた卯槌が知ったら、静かにコメカミに血管を浮かび上がらせただろう。いい迷惑だ、と。
新婚家庭に悪いという気持ちが無くもなかったが、眠っていた十年の間に甘酸っぱいハネムーン期間も過ぎただろうし――と、思案して、ふと思った。
(そういえば、あいつの奥さんを見なかったな)
良は結婚式でしか花嫁の姿を見ていない。一応紹介も受けたが、式の前の、バタバタしたほんの僅かな会合のみだ。それでも美人だったと記憶している。「上手くやったな」と、素直な感想と共にからかってやると「そうだろう」と花婿はニヤリと笑った。堅物な彼にしては珍しい返しだった。今思えばアレは独り身の自分に対する嫌味だったのだろうか。
(よし、戻ったら奥さんを前に、あいつの恥ずかしい過去を暴露してやるか)
つらつらと友人の武勇伝を挙げながら歩いていると、ぐぅと腹の虫が鳴った。腹を撫でた良は、戻る前に何か食べて行こうと思った。あちらの食べ物も悪くはないが、お上品が過ぎて些か物足りない。何かジャンクなものが食べたくなった。浮かんだイメージはラーメンだ。チャーシューと野菜をたっぷり乗せた、背油コッテリのラーメンタワーを思い浮かべると、盛大に腹の虫が鳴った。
良は困惑していた。座り込んだ女子高生に手を差し出したまま固まっている。彼女は先程の騒ぎで、髪も制服もすっかり乱れ、掛けた眼鏡までズレていた。
「すまないが、もう一度言ってくれるか?」
聞き違いの可能性もある。固まった笑顔のまま言うと、彼女は頬を赤らめて下を向いたが、ずれた眼鏡を直して顔を上げた。
「お願いです。わたしと結婚してください」
「無理だ」
真顔に戻った良は、即、断った。先程まで赤くなっていた少女は、顔からスッと表情を削ぎ落とした。
「それは……、わたしが可愛くないからですか? わたしは、あなたがおじさんでもホームレスでも気にしません」
言葉だけ聞けば、真摯に訴えているように聞こえる。だが、まるで人形のようだと思った。その顔からは――眼鏡の奥の冷えた目からは、全く感情が読みとれない。本気で言っているのか疑わしいところだ。それに、良が断った理由は容姿ではない。
(そりゃあおれの好みは、出るところが出た、キリッとした目の、色っぽい美人だが……)
残念ながら彼女は理想に当てはまらない。しかしそうではない。それにしても、おじさんだのホームレスだのを立て続けに連呼されると正直落ち込む。とりあえずジャージは新調しようと思考を飛ばしかけて、
(いやいや、今は彼女をどうするか、だ)
直ぐに我に返った。彼女は黙り込んだ良を、やはり表情のない顔で見上げている。
そもそも、なぜこんな事になってしまったのか。いくらチラリと美人の奥さんを貰った友人を羨んだとはいえ、イキナリ女子高生からプロポーズされる事態になるとは夢にも思わなかった。スカートから覗く、ハリのある生足が眩しい。と、今度は邪な方へ傾く意識を慌てて引き戻し、このような事態になった原因――先ほどまでの記憶を反芻した。
ほんの五分前まで、良の頭はラーメンでいっぱいだった。しかし、通りがかったビルの狭間から大きな声が聞こえてきたので、ひょいっと覗きこんでみた。
「だからよぉ、少しのカンパでいいんだよ!」
「そうそう、可哀そうなクラスメートを助けると思ってさ」
「頼むよ、なぁ?」
そこには、小柄な少年が、同じ制服の三人の少年達に囲まれて青い顔をしていた。
「で、でも君たち、この間もそう言って、か、返してくれなかったじゃ、ないか」
「今度は返すって。困ってんだ、頼むよ」
頼む、と愁傷なことを言っているが、多分に脅しをきかせている。様子を見た限りでは、仲の良い友人同士のじゃれ合いでは無さそうだし、定期的に起きているとも察せた。カツアゲやイジメ、というやつだろう。
(いつの時代も、こーゆーのは無くならないものだなぁ)
仮にここで、良が少年を助けたとしても、助かるのはこの場でのみだ。イジメの連鎖は無くならない。自分の出る幕は無い、そう思って去ろうとしたが、
「こ、断る! きょ、今日は、持ち合わせが無いんだ!」
少年の怯えた、しかしハッキリ言い切った言葉に足を止めた。彼は取り上げられそうになった鞄を両手で抱きしめて震えているが、果敢に三人を睨み付けている。ありったけの勇気を振り絞っての発言だと思われた。
「あぁ!? んだとぉ!?」
茶髪の少年が、小柄な少年を殴った。しかも一切、手加減しなかったものだから、そのまま慣性に従って後ろの壁に叩きつけられた。短い悲鳴が上がる。
「バカだよなー。大人しく金出してりゃ良かったのに」
「どーせ、パパがうなるほど金持ってんのによ」
後ろの二人がケラケラと笑い始めた。
「気分悪ぃぜ、イシャリョー請求してやるからな!」
「や、やめっ……ガッ!!」
茶髪の少年が再び殴った。じきに後ろの二人も加わって、三人による暴力がスタートした。もはやリンチだ。
「なら、俺も慰謝料を請求しようか」
弱い者イジメなんて気分の悪いモノを見せられたのはこっちだ。と、ビルの陰から良が姿を見せた。
三人は怪訝な顔をした。彼らとて多少の分別はあった。自分たちの行為が褒められたモノではない自覚はあるが、言うことを聞かない相手が悪いのだ、と自分達の行為を正当化しての行動だった。それをあからさまに責められると腹が立つ。
しかも相手は薄汚れたジャージ姿のみすぼらしい男だ。頭はボサボサで、髭の手入れもされていない。三人は即座に同じ結論に至り、アイコンタクトを交し合った。
「おい、おっさん! 関係ねーヤツはすっこんでろ!」
「失せろ、このホームレス!!」
「ハロワにでも行ってろや! クズが!!」
彼らは一斉に吠えた。駅前に程近いここは、ホームレスが居ついては行政に追いやられて、を繰り返している場所だ。男もその一人だと考えた三人の目には、良が働き盛りであるのに遊び歩いている社会のゴミに見えた。自分たちの行為を完璧に棚上げした発言だ。
「ちょっと待て……誰がおっさんで! ホームレスだ!!」
ビルの谷間に三つの残響がこだました。
しゃしゃり出てしまった手前、良は大人として叱ってやるつもりでいた。が、思ったよりキツイ教育的指導となってしまった。言われなくとも、ハローワークにはそのうち行くつもりだったから余計なお世話だ。
深い溜息を吐いて拳を握り直した。涙ながらに「ありがとうございますっ!」と目を輝かせる殴られていた少年の元へ向かい、
「君にもだ。ケンカは両成敗だからな!」
最後にもう一つ、大きなゲンコツ音を響き渡らせた。
と、ここまでが先程の記憶だ。その後、茶髪の少年が果敢にも起き上がって来たので「手加減したとはいえ根性があるじゃないか」と敬意を表して、しっかり相手――と言っても一発殴っただけなのだが――をしてやった。
その彼が吹っ飛んだ方角にこの少女が居た。悲鳴を上げて、ぶつかりそうになる少年を避けた。が、慌てて後ろに身体を倒した為、勢いよく尻餅をついた。良は慌てて駆け寄った。パッと見た限り、ケガは無さそうだったので安堵したが「すまない、大丈夫か?」と手を差し出した良に対する彼女の第一声が、
「結婚してください」
だったのだから、首を傾げるしかない。
この少女は、背中で感じていた視線の主だろう。一部始終を見ていたと思われるが、プロポーズされる要素など全く無かったハズだ。ただ少年たちにゲンコツを食らわせていただけなのだから。
改めて少女を見た。やはり覚えのない顔だ。分厚い眼鏡をかけ、少々目が小さくはあるが、自分で可愛くないと言う程でもない。乱れた髪と格好を整えたらそれなりに見えるだろう。
「君も(それなりに)可愛いよ。だが結婚は出来ないな。そういうのは簡単に決めるものじゃない」
座り込んだ少女の手を引いて立たせてやった。そばに落ちていた鞄を拾い上げた。
「ほら、君のだろ?」
少女は手を伸ばすのを逡巡していたが、やがて礼を言って受け取った。
「あの、わたし……悪いひとに無理やり結婚を迫られてまして、えと……だから、どうしても貴方と結婚したいんです。さっきの彼のように、わたしも、助けて……ください」
彼女は先程まで真っ直ぐ良の目を見ていた。しかし今は、右に左にせわしなく泳いでいる。恥じらっているとも取れる仕草ではあるが、嘘は頂けないな、と思った。
彼女が抱える鞄――ボストンバッグに目をやった。学校帰りの学生が持つにしては大きすぎる、小旅行に行ける程のサイズだ。駅にほど近いこの場所で。しかも初対面の男に結婚を申し込む程に追い詰められている――良は、ガシリと少女の肩を掴んだ。
「駄目だ。とにかく、今日は家に帰るんだ」
考えられることはただ一つ。彼女はヤケをおこした家出少女だ。先程のイジメ少年といいこの家出少女といい。若者を取り巻く昨今の社会状況を嘆きたくなった。
「親御さんと何かあったのか? それとも君が何かしてしまったとか?」
それなりに事情があるのだろうと尋ねてみると、彼女の肩が跳ねた。推測が当たったのかと考えながら、
「帰り辛いなら送っていこうか?」
と、提案した。この後、別の男に声を掛ける可能性もある。家まで送り届けた方がいいと思っての発言であったのだが、少女は力なく首を振った。
「……いえ、一人で帰れますから」
俯いて唇を噛みしめている。よほど家に帰りたくないのか。
「詳しい事情は知らないが……」
このまま別れるのは不味いと思われた。
「あのな、誰だって万能じゃないんだ。すれ違いや思い違いもあれば、受け入れがたい困難にぶつかる時だってある。それはどんな存在であってもだ。親御さんだってきっとそうだ。逃げるのは簡単だが、逃げるだけでは何も解決しない。それに、逃げ癖が付けば、逃げるばかりの人生になってしまうんだ。きちんと向き合ってみることも大事だぞ」
説教臭いと思いながらも、彼女の目を見て真剣に言い聞かせた。察しが付いた、ありがちな家出の理由――親御さんとのケンカ――を解決するには、両者がきちんと相対して、じっくり話し合うのが一番だ。親も人間なのだから完璧ではない。お互いの考えを知る為にも、しっかり向き合った方がいい。
黙って聞いていた少女は、小さく頷いた。
分かってくれたようだと、ホッと息を吐いて彼女の頭をなでた。途端、顔を上げた少女はクシャリと顔を歪ませた。初めて見せた感情は、哀の――泣くのを我慢している顔だ。
「じゃあ、俺はもう行くからな。ちゃんと家に帰るんだぞ!」
なぜか酷い罪悪感にかられた。家出少女の説得という、とてもいい事をしたハズなのに。
良はうるさく鳴る心臓を諌めながら、早足でその場を後にした。
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