01 神前式
それはこの世のものとは思えない、夢のような光景だった。
頭上に輝く満月が、辺りを照らして煌々と輝いている。星の姿を隠してしまった、大きな月を遮るのは叢雲ではない。桃色に染まった無数の花びらだ。時折ざぁと吹く風が、空を埋め尽くさんと、あでやかに舞い踊らせる。
少女は圧倒されていた。あまりの美しさに息を飲み、隣の母の袖をギュッと握った。母は娘の小さな手に、自分の手を重ねて微笑んだ。
目配せし合った楽人たちが、ゆったり音楽を奏で始めると、めでたい、めでたいと、口々に談笑し合っていた客たちが、そろそろかと顔を上げた。
「あなたの出番よ。いってらっしゃい」
少女は頷き、静かに控えていた娘の元へ向かった。この場で唯一、全身を白で彩った彼女は異彩を放っていた。月明りに照らされた白無垢が光り輝いて見える。
花嫁が顔を上げると、綿帽子が隠していた白い顔があらわになった。紅く彩られた唇が柔和に持ち上がり、少女は頬を赤く染めた。心の底から綺麗だと思った。月が放つ柔らかな黄色や、空を舞う桃色よりも、眩しく光る白が何よりも――。
「小さな巫女様、お願い致しますわね」
「は、はい!」
少女の役目は、花婿が待つ神前までの先導だ。と言っても、ただ花嫁の前に立ち、彼女と共に歩いて行くだけの簡単な役目だ。しかし、その小さくも大きな役目を与えられた少女は、緊張気味に返事をした。
「では、付いてきてください」
「ええ……」
花嫁がスっと手を差し出した。意図が分からない少女は首を傾げた。
「緊張してしまって……、手を、引いてくれないかしら?」
大人で、しかも自分の結婚式なのに変なの、と少女はとても子供らしい考えを持ったが、段々に、自分が式を成功させなくては、という使命感に駆られた。緊張で冷たくなっていた花嫁の手をギュッと握った。
「この後のあたしの出番、楽しみにしててください! とっても楽しいですから!」
花嫁は少し目を丸めて微笑んだ。
厳かな式が執り行われた後、酒の席となった。賑やかな時間が流れ、主役の二人は席を外した。集まった客はすっかり出来上がって、めいめいが気楽にくつろいでいる。
「今日の酒は格別に美味いのう」
「こんなに楽しい宴は久しぶりですわ。さぁ、もう一献いかがです?」
「おお、すまんな」
あちこちから陽気な声が上がっている。
「キレイな花嫁さんだったねぇ。見てよオレの顔、すっかり赤くなっちゃった」
「お前が照れてどうするんだよ。うわっ、尻尾まで赤くなってるし」
「桃の花もキレイだねぇ。甘くていい匂いがするねぇ」
「聞けよ」
誰しもが、美しい景観と、美味い酒と、真新しい夫妻に賛辞を送り、心地よい酔いに身を任せていた。
「近々、また宴が開かれるのでしょうなぁ」
「蟠桃会か。何百年……いや、何千年ぶりになるのか? めでたい限りだ」
「ほんに。それに、相も変わらずこちらの桃園は美しいままで。いや羨ましい」
「謙遜するな。お主の山こそいつも美しいではないか」
「いやいや、貴方様の海こそ……フフ」
「ハハハハ!」
酔っぱらい達の笑い声を背に受けながら、フラフラとした足取りで宴の場を後にする男がいた。
「めでたい、めでたいな……ととっ、少し飲みすぎたか」
真っ赤な顔と千鳥足が、どれだけ酒を浴びたかを物語っている。
「あれ、ここ、どこだ?」
間抜けな声を上げた男はキョロキョロと辺りを見回した。少し酔いを冷ましに来た筈なのに、気づけば屋敷の外に出てしまっている。目の前に立ちふさがった邪魔な襖をいくつも開けて進んだ結果なのだが、これが彼の友人――今日の主役の一人である花婿が知ったら大いに呆れただろう。素面でも方向音痴の奴が、一人で出歩くな、と。
「ああ、綺麗だなぁ」
男は顔を上げて、夢のような光景に感嘆の声を上げた。もはや当初の目的などどうでもいいと、夜空に浮かぶ月を眺めながら、フラフラとした足取りで歩き出した。既に屋敷は遠く、周りは桃の木ばかりとなっていた。不思議なことに、花びらがハラハラと舞っているにも関わらず、枝には熟れた実が重そうにぶら下がっている。
「ここは、真実、桃源郷だな」
整然と並べられた何百という桃に挟まれた通りを歩いてゆくと、キラキラと光る細い小道を見つけた。通りを横切るように変則的に伸びている。不思議に思い、試しに踏みつけた。が、踏んでも蹴っても道はおろか光の一粒すら消える様子は無い。一体何で出来ているのか。道の先も気になり始めた。
男は躊躇することなく光の道を進んだ。しかし、やはりフラフラとした足取りだ。
はじめはしげしげと足元を眺めながら進んでいたが、木々を避けようと頭をあげた際、立派な桃の実が目にとまった。それをもぎとり、スルリと皮を剥いで齧り付いた。とろける果肉が実に美味く、感嘆の声を上げた。
今度は上ばかり見ながら、立派な大玉を収穫しながら進んでいた男は、既に道が途絶えていた事にも気づきもしなかったが、
「おやぁ? お嬢さん、どうした?」
木の根元にうずくまる女の子を見つけた。
少女はハッと顔を上げて、男に期待するような目を向けたが、すぐに眉間にしわを寄せた。その顔に貼り付けてあるのは、酔っ払いへの嫌悪だ。おぼつかない足取りと、真っ赤な顔。しかも桃を食べ散らかしながら来たのだ。口元には拭いきれていない汁が付いているし、木登りをして、いくつも桃を採った男の一張羅はすっかりボロボロになっていた。
こっちに来るんじゃない! と、少女が懸命な視線で訴えていたにも関わらず、それに気づかない男は、彼女の隣にどかりと腰を下ろした。桃を差し出す。
「君も食べるか?」
「いらない」
「そうか」
男は気にした風もなく自分で食べ始めた。一口齧る度に甘い香りが広がった。大量にあった桃はみるみる減っていった。最後の一つに手を伸ばした。
「あ」
少女が小さな声を上げた。
「君も食べるか?」
今度は素直に頷いた少女を見て、男は密やかに笑い、小さな手の上に乗せた。少女は嬉しそうな顔をしたものの、向けられた笑みに気づいて背を向けた。しかしよほどお腹が空いていたのか、直ぐに齧り付いた。慌てた食べっぷりだ。男は笑いを噛み殺した。
「あの、ありがとう。おいしかった。……コレ、食べられたのね」
少女は頭上にぶら下がる、青いままの果実を指して言った。甘い匂いを放ってはいるが、未だ熟していないと思ったのかもしれない。今ではすっかり見慣れてしまったが、確かに青い桃はここでしか見たことがない。
「味は格別だろう? 美味かったな」
快活に笑う男に少女はコクリと頷いた。少し警戒心を持たれていたようだが、根は素直な子なのかもな、と、そのように考えながら、ハンカチで丁寧に口元を拭っている少女の顔に、見覚えがある事に気が付いた。
――さぁ皆、いくよ! せーの!
「そういえば」
思い出した。目の前の少女は、あの子だ。
「君、音楽隊の指揮をとっていた子だな」
式の中盤で現れた小さな女の子。その子は皆の前でペコリと頭を下げた。
――あたしはお祝いの舞いなんてできませんが、とっても素敵な音楽家さんをお連れしました。皆さん、楽しんでください。
少女がそう言うと、舞台裏から雅楽器を携えた者たちが現れた。
彼らが奏でる優雅な音色は聞くものを和ませた。すぐに式に呼ばれていた楽人たちも加わり、次第に音色は派手に、賑やかになった。どこからともなく現れた舞手たちが音に合わせてクルクルと踊りだし、終いには客たちもこれに加わった。かくゆう男もちゃっかりと加わった。
少女も、男も、みな大いに笑った。実に楽しい時間だった。それを思い出し、確信を持って問いかけた。
「なにそれ」
少女は首を傾げた。思い当たるものなどない、といった素振りだ。
「彼等が奏でていたのは雅楽だから、雅楽隊になるのか? その指揮をとっていたじゃないか」
「雅楽って?」
益々首を傾げる少女に男も首を傾げた。てっきり彼女が発起人だと思っていたが、まだ小さな少女だ。指示された通りにしただけで、ワケも分からず参加したのだろう。
「君と一緒に参加していた者達は、笛や小鼓、太鼓なんかを持って演奏していただろう? 大雑把に言うと、ああいう昔からの楽器での演奏を雅楽と言うんだ」
「へぇ、おじさん物知りね」
「おじさんっ!?」
少女は素直に感心したが、男は『おじさん』という言葉にショックを受けたようだ。
「おじさんってのは止めてくれないか?」
「どうして? おじさんはおじさんでしょ?」
心底分からない、という顔の――見た目から六、七歳程と推測される少女に、見た目二十五、六歳程の男はガクリと頭を垂れた。
「分かった。君が分からないのはよく分かったから、おれの事は良と呼んでくれ」
「それがおじさんの名前?」
「良と呼んでくれ……」
やはり少女は分からない、という顔をしていたが、分からないなりに頷いた。
「君の名前は?」
「教えない」
プイと向こうを向いた少女に、まだ警戒されているのだろうか、と思いつつも、どうしてだ? と聞いた。
「お母さんに、ここでは名前を教えちゃダメって言われたの。良は人間に見えるけど、本当は人間じゃないんでしょ?」
小さな声でボソボソと言う少女は申し訳なさそうに見えた。目を見開いた良は、肩を震わせて笑い出した。
「そうだな、確かにおれは普通の人間じゃないぞ。そうだな、鬼、かな」
あっけらかんと笑う良に驚いた顔を見せた。
「怒らないの?」
「怒らないさ。君はちゃんとお母さんの言うことを守ったいい子だ。いい子を怒る必要は無いだろう?」
ガシガシと頭を撫でられた少女は、俯いて、撫でられた頭に手を置いた。
「あのね、あたし人間じゃないひとたちを見たのは今日が初めてなの。鬼に会ったのも初めて。お化けみたいなひとはちょっと怖かったけど……お嫁さんも、良も……本当は、全然怖くないんだね」
「そう言ってくれるのは嬉しいが……君は人間なんだよな? 人間がなぜここに?」
「あたし、巫女なんだって」
ほら、と立ち上がってクルリと回った少女は、白い小袖と緋袴姿の、いわゆる巫女装束だ。袖と袴が空気を含んでフワリと舞い、艶やかな黒髪が流れた。色の白い彼女は長い黒髪が良く映えた。巫女装束もだ。
「なかなか似合っているな。君は将来美人になるぞ」
なぜ巫女とはいえ人間が呼ばれたのか疑問を抱いたものの、少女に尋ねたところで分からないだろうと判断して別の感想を述べた。
「当たり前でしょ、お母さんの娘なんだから。それに今でも美人よ!」
「そうだな、今でも美人だ」
話を合わせてやると、少女は得意そうに胸を張った。
「それにさっきの演奏会、上手くいったでしょ? あたし、緊張してた花嫁さんを助けてあげたの!」
演奏会は実に楽しかったが、おごそかな式が一転、とても賑やかで騒がしいものになった。花婿は呆れた顔をしていたが、隣にいた花嫁が笑っていたので、最後は彼も笑みを浮かべていた。
「そうか……、君は本当にいい子だな」
堅物の友人の、幸せそうな顔を思い出した良は心から少女を褒めてやった。少女はますます得意げな顔になり、頬を紅潮させている。
「良も困った事があったら言いなさいね! 助けてあげるから!」
「それは助かる。実は困っているんだ」
「え、何に?」
イキナリ来るとは思わなかったが、少女は真剣な顔を向けた。
「屋敷までの帰り道がわからないんだ。君、分かる?」
「そんなのあたしが聞きたいわよ!! ひどい!! やっと帰れると思ったのにーー!!」
怒り出した少女に、薄々気づいていたものの、やっぱり迷子だったのか、と確信を持った良はポリポリと頭をかいた。迷子が二人。さて、どうしたものか。
「まぁ、落ち着こう。迷ったときは無闇に動き回らず、ジッとしているのが一番だ。そのうち助けがくる」
「ずっと待ってたけど、役立たずの良しか来なかった!」
「ハハハ、そう言われると辛いな」
「笑い事じゃない! こうなったら帰り道は自分で探す!!」
勢いよく立ち上がった少女は、ずんずんと歩き始めた。そのまま放っておくわけにもいかず、溜息を吐いた良も少女の後を追った。
「なんで付いてくるのよ」
「おれも帰りたいからな」
「別の道から帰ればいいじゃない」
「こっちが正解だと思うんだ」
君の後をついて行ってるワケじゃないぞと、いけしゃあしゃあと言い切る良に、少女はもういい! と彼を振り切る事を諦めた。
少女が歩き出してすぐ、良はあることに気が付いた。彼女の歩いた跡が、キラキラと輝く小道に成っているのだ。そうか、これがあの道だったのか、と合点がいったが、理屈が分からないので尋ねてみた。
しかし少女は自覚が無いどころか見えてもいないようで「なんのこと?」と逆に問うてきた。見えない相手には説明のしようがない。曖昧に濁すと、また元の無言の状態に戻った。
無言ではあったものの、良は少女のお陰でまったく苦にならなかった。不思議な道は、来たときと違って常に一定ではなく、赤い光が黄色になったり緑になったりした。今は紫がかった青に変化し始めている。変化の仕方も様々で、ジワジワと変わることもあれば、急激に塗り替えられることもあった。
「何で鬼なのに帰り道が分からないの!?」
格好の暇つぶしを得た良と違い、少女は全く進展しない事態にくたびれてきたようで、八つ当たりのような言い方をした。
「鼻の利く犬じゃないんだから無理言うなよ。それにおれは鬼だが、角もないし牙もないし、ましてや虎のパンツも履いていないぞ」
「え、角が無いの?」
見せて見せて、と少女が言うので、虎のパンツがスルーされた事に若干寂しさを覚えながらしゃがんでやった。虎のパンツというと、良はすぐに某CMソングが浮かぶが、少女は知らないのかもしれない。ジェネレーションギャップという奴かもな、と切なく感じた。
「ほんとうだ……。これじゃ普通の人間と変わらないじゃない」
そっけなく言った少女は、グシャグシャと良の頭を掻き回した。
「オイオイ……あだっ」
と思ったら、小さな手で頬を挟まれ、上を向かされた。
「目の色も普通ね」
良の目はごく一般的な、殆ど黒に近い濃褐色だ。鬼だからといって、必ずしも派手な瞳をしているワケではない。
少女はすぐに良の観察に飽きてしまったようで、
「さっさと帰るわよ!」
と、再び前を向き、ずんずんと歩き始めた。