桜の森の満開の下 その4
「推測ですけど……恐れているんです……あの神は……ううん……モンゴリアンデスワームは! あなたに名前がつくことを! 本で読んだことがあります。私たちの認識している世界は、言葉の網に掬われた世界だって。私たちは言葉で世界をとらえているんです! それで……みんな名前を持っています! その人を表す、唯一の言葉。名前がなければ区別もない……カラスムギも、ヘビイチゴも、オオバコも! みんな雑草と呼ばれてしまうように……あのワームと同じものとして、世界に捉えられているってことなのかも……Aさん、もしあなたがあのワームから生まれたものだとしても! あなたとあれは一緒じゃないんです! 雑草なんて名前の草はないんです! 誰が言ったのか忘れちゃったけど……私も知りたい、あなたの名前……きっと、敷島君や朝日さんも……!」
「あたしの名前……ずっとほしかった……ねえ、ツユコ……言ってたよね。奇麗な蝶々とヤマトの嫌いなうねうね、同じだって……あたしも……そう……でも……あたし、あたしね……奇麗になりたい……なんでも板で、ツユコが見せてくれたあの奇麗な生き物! あたしは……『揚羽』て名前にする! 決めた! あたし、揚羽!」
「素敵な名前、揚羽さん!」
「アサヒ!」
モヤの彼方の悪夢から、揚羽は目覚めたようだった。心の力がガラス細工のような体にあふれている。自分にしっくりくる名前……揚羽。他の誰でもない大切な自分を見つけたのだ。傷だらけになって、遙華に向かう朝日に呼びかけて、駆け寄った。
「あたし、自分の名前を決めたの! 揚羽って!」
「Aちゃんにピッタリ! あ! もうAちゃんじゃないのか」
朝日は思わず歩みを止めて、花が開くように笑う揚羽を見つめた。今までで一番いい笑顔だと朝日は思った。遥華は顔をしかめてその様子を見る。怯えているようでさえあった。
「バケモノが自分で名前を決めた……? あっ! 何よ! これも私のせい! 指図ばっかりいっちょまえで何の役にも立たない! うるさい! 黙れ! 役立たず! どいつもこいつも!」
「やば!」
怒りにまかせてサイコキネシスを放つが、朝日に届くことはなかった。花びらの奔流がぶつかり合い、弾け飛んだ。揚羽が同じ力を出して、相殺したのだ。揚羽は朝日の隣に並び立って、遥華を見据える。
「あれだけあたしを引っ張りまわしたんだから! 覚えちゃうよ!」
「ハルハルの力を……生命のかたまり……何にでもなれるエネルギー……!」
「A……じゃなくて揚羽ちゃん! 何でもすぐ覚えて、似顔絵も上手だったけど! 超能力までマネできるの! スゴイスゴイ!」
「ハルハル……もうやめよう……こんなことは……」
「へぇ~え~ちょっと有利になったら、ずいぶん強気じゃない……何、その哀れみの目は? 止める? 私が? 同じ力……上等じゃないの……どっちが強いか実験しましょうかぁ?」
遥華は千枚通しを手に戻し、揚羽に向けて放とうとした。しかし、それは神託によって中断された。
「来る……! 大和君と馬鹿神が戻ってくる!」
「つ、露子! 朝日! やべえぞ! やべえ!」
異形の神はものすごい勢いでこちらに向かってきていた。悶絶具合も激しくなっている。身が軽くなった大和も、たまらず逃げてきたのだ。デスワームは巨大な桜の老木に激突して、動きを止めた。
「朝日! お前傷大丈夫か!」
「大丈夫! 揚羽ちゃんが助けてくれたから!」
「揚羽?」
「ヤマト! あたしの名前だよ! 決めたの。揚羽って! そう、あたしの決めた……あたしの名前……」
宝物を愛おしむように、揚羽は胸に手を当てて、大和に微笑んだ。
「ああ、そうか。お前、そんな名前だったのか。いい名前だな」
遥華はため息をついて、揚羽たちを冷然とにらみつけた。四人はそれぞれ臨戦態勢を取って、遥華の攻撃に備えた。
「何をほのぼのしてるの? うるさい! うるさい! ぎゃあぎゃあ言って……うるさっ……なっ! 私をっ!? この!」
遥華の顔に初めて、明確な恐怖が見えた。全身に鳥肌が立ち、うろたえる。




