過去が追いつた
露子の心に、「常世」でも現世でも感じた、苦しい胸の疼きがよみがえった。すらりとして溌剌としていて、誰もが目を引くような美しさを羨ましいと思った。どれも自分が何一つ持っていないものだと思った。
「あんなに美人なのに? 露子ちゃん、本当にそう思っているの? 本当の気持ち、教えて?」
「Aさんは……いい子だよ……本当に……」
「いい子? 今聞いたのは露子ちゃんの気持ちだよ。敷島君の好みは知らないけど、露子ちゃんと、その子、どっちを選ぶと思う?」
「それは……関係な……」
「なくないよぉ。だって、露子ちゃんは敷島君のことが好きだから。今まで一度もあの子に嫉妬しなかった? そんなことないよね。嫉妬、したよね?」
心の中の柔らかい部分を土足で踏みにじられる苦痛。遥華の優しげな笑顔が見たくなくて、乾いたアスファルトを見つめることしかできなかった。Aは一つも大和に伝えられない自分とは違う。笑ったり抱きついたり、声でも表情でも気持ちを素直に表現できる。この感情は、一体何なんのか。ずっと考えたくなかった。この気持ちに名前を与えたくなかった。
「あの子が消えたら、また、二人っきりだよ。日常に帰ればいいじゃないの。どう見ても普通じゃないよね。『常世』の女の子なんてさ……本当に、人間なのかな?」
「……やっぱり……そうなのかな」
「人間じゃないなら、なんだろうね? あの虫とちがうものだって、言える? 奇麗な女の子に擬態してるだけじゃないって、本気で思えるの? 『常世』には触れてはいけないんだよね。このまま敷島君と得体のしれない女を放っておいていいと思う? ウサギが死んだのだって、その影響かもしれないよね。もし人間が虫に食い殺されたら、責任取れるのかな。露子ちゃんも、敷島君も。私、思うの。あっちの世界のものは、やっぱりこの世にいちゃいけないんじゃないかって。だから、『常世』に帰してそっとしておいた方がいいの。それが露子ちゃんのだぁい好きな敷島君のためにもなるんじゃないかなぁ」
畳み掛けるように、遥華は言葉を露子の心に突き刺した。露子は地べたを見ていても、遥華がいかにも心配そうな、心が張り裂けそうと言わんばかりの顔をしているのがわかる。あるべき世界に帰す……もっともなことに思えてきた。現世でいつまでも暮らすことができるのか疑問にも思った。朝日や大和は平気な顔をしていたが、動物とは違うのだ。ずっと居候というわけにもいかないのではないか。
「でも、私……敷島君に黙っているなんて……そんなこと……」
「ひ・と・ご・ろ・しなのは隠してるのに?」
優しくて溶けてしまいそうなほど甘い声音だった。もう心をかき回すのは止めてほしかった。なぜ今日は、こんなにも苦しく辛い気持ちにならなくてはいけないのか、と自分を呪う。
「なんで……なんで……!」
「知り合いのツテかな? 聞いたよ、あなた、いじめられっ子だったんだって? イメージぴったりすぎて笑っちゃった。でもやるじゃない。主犯を殺しちゃうなんて。人間を殺せるのに、バケモノを巣に帰すのはダメって、おかしいよね?」
「ち、違うの……あれは……」
「まさか事故とか言わないよね。警察はそう思ったみたいだけど。ねえ、陰気眼鏡女の霜鳥露子さん、あなたをイジメていた碓氷ひさめさん、死んでるよね。自転車に乗っている時、車に跳ねられて。ブレーキが錆びてたそうだけど……」
「あれは……私……」
まるで本体を損なおうとする影だ。その影は、あの桜の森での恐怖のように、決して自分を許してくれない。ずっとへばりついてきて、忘れさせてはくれない。足元が崩れ落ちそうで、胃も影に握り潰されたようで、ひどい吐き気が止まらなかった。




