迫り来る影
大和やAの言うような魔物の気配など微塵もない。ただただ、花をほとばしらせる枝、花びらで染め抜かれた地面を撮っていった。そして、森の真ん中の、一際大きな桜の木の下にたどりついた。その姿をカメラに収めようとシャッターを切った瞬間、急におぞましい何かが、肩にへばりついたように感じた。死にかけの虫のように、何かが肩の上を這いまわっていた。全身に悪寒が走り、鳥肌が立つ。
「し、敷島君の言ってた……む……虫……? さ、殺虫剤……」
ポケットに突っ込んでおいた殺虫剤を取り出そうとしたが、その虫の気配はどんどん増えて、そして大きくなっていった。そして、彼女の横に、人の形をした気配がぴったりと寄り添うのだった。その影は、露子にこんなことを言った。
「よくも、よくも、よくも……よくもよくもよくも」
悲鳴も出なかった。体中の筋組織を全部支配されたみたいで、体が動かない。何か影のようなものが、べったりとくっついて、ささやいている。人間でないとわかる、冷たい気配。だというのに、その耳に吹きかけられる恨み事、その吐息は生温かくて、妙に現実味があった。ガチガチと歯を鳴らし、今にも耳が食いちぎられそうだ。なぜ急にこんなものが、そんな考えがぐるぐると頭のなかを這いずり回っていた。
「許さない、お前、よくも……よくも……許さない……一生苦しめて……」
足元から崩れ落ちそうになる恐怖の中で、大和のことを考えた。強気で楽天家だけど、芋虫がとっても苦手。彼は何かあったら、証拠写真を撮って逃げてこいと言っていた。
「証拠……写真……」
小さな体にありったけの勇気を奮い起こして、ぴったりとくっつく「何か」にレンズを向けて、シャッターを切った。そのカシャリという音が、何かの合図であったかのように、支配が緩んだように感じられ、一目散にその場を逃げ出した。
「敷島、君……」
心臓がはじけ飛んでしまいそうなほど走った。そんな中、口の中で大和の名前を呼びつづけた。彼のことを思い出さなかったら、どうなっていたかわからない。黒い気配は、ずっと後をつけてきているみたいだった。とにかくこの森を抜けて、大和たちと合流しなくては。
「た、たす、け……!」
大和たちが見えた。二人はのん気にも花かんざしを摘み取って、器用に冠を作っていた。大和がこしらえた冠で、二人だけの戴冠式というわけである。白い髪に白い冠。宗教画か何かで見る女神様のように美しかったが、露子の目には入らなかった。
「つ、露子! そ、そいつらッ!」
「う、ううう! うねうねっ! やっぱり! にげなきゃ! くるくる! にげるないと!」
Aは怯えのあまり、言葉がめちゃくちゃになってしまった。大和も露子が引き連れてきた、その恐ろしいものにすっかり参って、へとへとの露子を抱きかかえて、走りだした。
「あ、あ、私、敷島、君……」
「話は! あとだ! 今は! 連中から! 逃げなきゃな! しっかりつかまってろ!」
半狂乱で走っていくAを追うような形になった。大和の腕の中で、露子は小柄な彼のびっくりするくらいの力強さに感じ入っていた。いわゆるお姫様抱っこで、彼の首に手を回す。うなじの汗ばんだ感触やさらさらした髪が頬をくすぐって、こんな時なのに、心のどこかで幸せを感じてしまっていた。
Aの導くままに、「川の果て」までやってきた。川幅はもう飛び越えられないくらいにはなっていて、壁に穿たれた穴へと注ぎ込まれていた。穴はひどく背の低い水門のようで、塞ぐものはなさそうだったが、急流もあり、そこへ飛び込むことはためらわれた。




