与えられるもの
露子はぺたんとへたり込み、壁に背をもたれさせて、今にも泣き出しそうだった。瞳は潤み、涙がこぼれ落ちそうだ。必死に嗚咽をこらえているのが、手に取るようにわかった。大和は見かねて声をかけようとしたが、その前に、少女Aが動いた。
「ツユコ、泣かないで……」
どこからか真っ白なハンカチ状の布を取り出して、露子の前に屈んで、彼女の頬にそっと触れさせた。昼に露子にしてもらったみたいに。
「あ、ありがとう……ございます」
露子はびっくりしたように、顔の真ん前にある少女の顔を見つめた。月光の下に、白銀のような彼女の姿が浮かび上がっている。白く柔らかな肌に月明かりが影を作り、いつまでもその陰影に見入ってしまいそうになる。その影の中に、涙の光がきらりと仄見えた。露子の不安もハンカチに拭われたみたいに、少し軽くなった。
「あの……敷島君、いつまでも少女Aじゃちょっと。名前をつけてあげない?」
「名前をつけてやる? 俺たちが?」
「ダメ……かな?」
「ダメとは言わねえけどよ。A、お前、名前がほしいか?」
「……うーんっと……ほしい! ツユコ、ヤマト、うらやましいの!」
Aは大和の手をぎゅうっと握りしめて、おねだりするみたいに彼を見つめた。
「ふぅーむ……だったら自分で考えろ」
露子は驚いた顔で大和を見た。名前というのは一体に、親なり何なりからもらうものだとばかり思っていたからだ。大和は一人で納得して、さらに続けた。
「そう、それがいい。俺は誰かに名前なんてつけねえよ。だいたい、こいつがどんな奴かもよく知らねえのに……ふん、うらやましいぜ。自分で自分の名前を決められるなんて」
「名前を、きめる? あたしが……?」
少女Aはよくわかっていないようだった。大和はそんな彼女に合わせて屈みこんで、目を見つめて言った。
「お前、しゃべれんだからよ、何かいい名前を考えてみちゃどうだってんだよ。名前って、まあ一生モンなのに、自分で決められねえんだ。賜るだけなんだ! 俺も、露子も、みんなそうなんだよ。まったく、敷島大和なんてご大層な名を勝手に与えて、勝手に消えやがって……!」
恨み事を吐くような、悲しんでいるような、なんともいえない声音だった。露子は不思議に思って聞いてみた。
「消えるって……?」
大和は露子のふっくらして優しそうな顔をしばらく見つめて、それから、ぽつぽつと少年時代の記憶について語り始めた。
「ここに来た時、森で、うちに父さんがいないって言ったろ?」
それは大和が小学校低学年の時だった。祖母の実家に遊びに行って、家族みんなで泊まった時のことだ。湖の近くに小さな神社があって、父と二人で行った。長い階段を登ると、鬱蒼とした鎮守の森の中に、ぽつんと社が建てられていた。そして、その場所で、大和の父は行方不明になった。
「うっすらした記憶の中で……俺は、怖くて心細くて、泣きながらヤブを探してた。んなとこにいるわけねえのにな」
鎮守の森の中、忽然と消えた男の話は、巷で少しばかり有名になり、現代の神隠しなどとも言われた。これといった理由もない失踪によって、敷島家は混乱して、妹の朝日などは寂しい思いもしたということだった。母はひどく落ち込んで、仕事にのめり込むようになった。年子の朝日と家事を分担して、さみしいのを堪えながら、大和は考えたことがあった。
「俺が目を離さなけりゃ……って。普通逆だろ? なんで俺がそんな風に責任感じなきゃいけねえってんだ。まだガキだったからよ」
成長するにつれて、そんな自責の念はなくなっていった。考えてもしょうがないと思ったから。それで戻ってくるというわけでもないし、今更ノコノコ出てきてもらっても困るという思いもあった。ただ、一つの疑問が残る。
「借金があるわけでも、愛人がいるわけでもない。なのになんで、あの神社で、父さんは消えたんだ? ずっと、今でもわからねえ。神隠しでもキャトルミューティレーションでもいい! この世にそんなものがあるなら、暴いてみたい!」
「敷島君……」
露子は何も言えなくて、体育座りしながら、一人で立っている大和を上目づかいに見つめた。Aの方は、大和の気持ちを敏感に感じ取っているみたいで、神妙な顔つきになっている。
「とまあ……そんな感じでいろいろオカルト本見てみたら、これが面白くてな! 実のところ、父さんの行方云々ってのは、割りとどうでもいいな。はっは!」
大和は笑い飛ばして見せたけれど、それが強がりなのか、露子にはわからなかった。大和のことだから、あるいは本気でどうでもよいと思っているのかもしれない。




