伽羅とキャラメルと沈丁花
「床が怖いよ……」
露子は小さな体を震わせて、恐る恐る進んでいた。大和やAは怖いものなど何もないというように、床を踏んでいろいろとあたりを見回した。露子はずっとこらえていたけれど、この世界から生還できるか、不安で仕方がないというのに。
「なあ、ここに住んでたのか?」
「ううん……あたしは……どこにでもいたの。ここにも来たことあるよ。でももっときれいだった」
「ふうん……ま、こういう屋敷はメンテ大変だからな。露子、大丈夫か?」
大和は床板の孤島に置き去りにされた露子に手を差し伸べた。露子はふかふかの手でそれを握りしめた。あの洞窟でのことが思い浮かぶ。露子はそんなことが嬉しくて、胸が温かくなるのだった。
「あ、ありがと……」
「よし! もっと奥行ってみるぞ。何かちゃんとした遺品があるかもしれねえしな!」
御帳台や障子、畳はすっかり風化している。時間はひどく暴力的で、人間の営みを根こそぎ奪い取っていた。ここに人間が暮らしていたなどとは、とても思えないほどに。吹きさらしの天井からは、すでに夕闇が差し込んでいた。薄明かりは太陽の最後の悲鳴だった。東対への渡殿には、ギリギリ腐り落ちていない渡り廊下があった。さらに横を見ると北対へ続いているようだ。
「北の方ってやつか、行ってみようぜ。どーせもう今日の調査は終わりだからな」
こんな何もわからないところで、夜の森をうろつき回るのは危険であろう。ここが安全という保証は何もないが、ただの野宿よりは多少なりともマシに思えた。
「調度品が残ってる……」
露子は古びて、風化しかけた厨子や香炉、ちっぽけな棚などを見つけた。ここは床もなんとか底抜けにならなそうだったので、今日のねぐらと決めた。ただやっぱり茅葺きの屋根はほとんど剥がれ落ちて、瑠璃色を幾重にも塗りかねたような夜空をのぞかせている。その天辺にはレモン色の満月が、淡い光を世界に投げかけていた。
「なんだか、いい匂い、するね?」
ボロボロの御簾の向こうから、甘やかで濃密な香気が漂っている。Aが御簾を上げてみると、目の前にたくさんの沈丁花が花をつけていた。薄紫と白に染め抜かれた可愛らしい花がたくさん身を寄せ合って、内緒話に興じているような趣がある。
「ちょっと匂い濃いなぁ……」
大和も外をのぞいて、その香りを嗅いでみた。露子もおずおずと近寄ってきて、三人も身を寄せ合って、月明かりに白く淡く光る花々を見つめた。
「私は好き、沈丁花。香木みたいにいい香りがするんだって。伽羅とか……」
「伽羅? 嗅いだことあんのか? 絶対キャラメルの方が美味いって」
「なにそれ? おいしいの?」
「美味しい」という言葉にAが食いついた。どうも食い意地がはっているらしい。大和は苺大福の時みたいに、一緒に現世に行こうとだけ言った。キャラメルの製法をよく知らなかったからだ。
「あまいにおい! 花はたべられるの?」
「あ、えっと、沈丁花は毒草、です。食べられない……。花言葉は『栄光』『不死』……『永遠』……」
誰も花言葉なんて聞いていないのに、なんとなくつけ加えてしまった。大和は納得顔でうなずいている。
「縁起いいじゃねえか」
「そうかな……ずっと、永遠に、ここにいることになったら……」
日中は忙しさに覆い隠されていた不安が口をついて出た。この夜の闇が、心にも差し込んでいるみたいだった。急に心細くて、さみしい気持ちになった。永遠に帰れなかったら、そんな思いが心の中を引っかき回していた。
「んなこと考えたってしょうがねえだろ! 考えるならここがなんなのか、それについてだ!」
どこまでも前向きな大和。妹の朝日について、「脳天気」と言っていたが、彼も相当な楽天家だ。露子はそんな風に明るくはなれなくて、黙ってうつむいてしまった。
「やっぱり、私、怖いよ。うねうね、あの黒い影がいつくるかもわからないし、早く帰りたい……」




