異形の蟲たち
「敷島君が戻ってきたら、そこに行ってみなきゃ」
露子はポケットにハンカチが入っていたことを思い出して、Aの口元にあてがった。あんまりにも意地汚く食べるからだ。真っ青なハンカチ越しにも、少女の肌の柔らかさ、なめらかさが伝わってきて、変にドキドキしてしまう。清浄も汚濁も、すべてを包み込むような瞳の黒の深さに魅入られてしまいそうになる。
大和が抱きつかれて、照れていたのもわかる。華奢でガラス細工のように美しい、少女。丸っこくて小さくて、地味でおとなしい自分とはちっとも似ていない。胸の奥に、かすかな疼痛を感じて、思考を打ち切った。
一方、大和はまっすぐに柑橘の森を突っ切って、廃園の果てに出た。そこには灰色の壁が冷酷な門番のように切り立って、ずっと続いていた。どうやら、ここは円形の壁に囲まれているらしい。とりあえず、デジカメでその壁の写真を一枚撮った。それは森を抜けてしばらく歩いたところにあり、周囲には草も生えず、土で汚れた岩たちが点在して、この世の果てを思わせた。「不毛」、そんな二文字が頭に浮かぶ。
「コンクリ……? なんだってこんな……? 何のために……?」
壁は彼の身長の二倍以上はあり、つかめるようなところもなく、木々から離れているので、どうやっても越えられそうにはなかった。一体全体、誰が何のためにこんな馬鹿でかくて長ったらしい壁を作ったのだろうか。左右を見渡すと、永遠に、どこまで続いているかのようだ。
「外敵を防ぐためか……?」
中国の万里の長城とか、昔の都市国家の城壁というのは、防衛のために作られたものだったはずだ。一方で世界史の資料集で見た、ベルリンの壁というのを思い出していた。外界との交流を阻害するためのものかもしれない。何せいるのは、何も知らない、名前さえない娘なのだ。
「潮の匂い……気色悪いぜ」
大和はひどく船酔いするたちで、潮風の匂いが嫌いだった。そのくせ彼の家は海の近くにあって、海岸に来ては、彼が言うところの「つまらない海」をよく眺めている。それにしても、ここが絶海の孤島なら、随分厳重なことである。とにかくもっと情報が欲しくて、一番近くに生えている木に登って、少しでも外を窺うことにした。
大和は小柄で身軽な方なので、木登りなどはお手の物だった。今回もするすると猿みたいに、ごつごつした木肌を登っていった。もうすぐ外が見えそうという段になって、彼の手に嫌な感触が走った。芋虫のような何かが手を這っているのだ。それはねちゃりとした嫌な手触りで、体表にびっしりと、裏返したヒトデのような、管足状の器官がある。そこから粘着性の液体を分泌しているらしい。そいつが我が物顔で手の甲を這いまわっていたのだ。
「うふぉっあっ!!」
奇声を上げて手をぶんぶん振り回して、半狂乱に陥りながらようよう木を降りた。どんな図鑑にも乗っていそうにない、奇妙な虫は見えなくなった。
「だから! 木登りは! 嫌なんだ!」
憤懣やるかたないといった口ぶりで、苛立ち紛れに木を思い切り蹴り飛ばした。これがよくなかった。あの芋虫みたいな黒い塊が落ちてきて、モゾモゾと苦しげに大和に近寄ってきたのだ。何匹もいる。森中から集まってきているかのようだ。黒い虫たちは、異常な憎悪を彼に向けている。じりじりとにじり寄ってくる。
「な、なんなんだよてめえら! 寄ってくんじゃねえよ! あっちいけよっ!」