豊穣の庭
今度は大和が噛まないように言い聞かせ、彼女を立たせた。Aは生まれたての子鹿みたいによろめいて、なんとも不思議そうに足踏みを繰り返すのだった。背の高さは大和と同じくらいだ。純白の衣はひらりひらりと舞い踊り、腰まで伸びた銀髪が風に舞う。ほんのりと赤みのさしたくるぶしの可愛らしさといったらない。
とにかく移動することにした。まだこの廃園のことを何も知らないのだ。曲りなりにもここに存在していたAを先頭に立たせ、先ほどの橘林を歩いていく。まずは腹ごしらえが必要だった。異界だろうが現世だろうが、生きていればお腹がすくものだ。
「さっき木の実とか言ったよな? 今なっているやつはあるか? 人間は食ってなきゃだめなんだ。手は食えねえけどな」
隣の露子をからかうように言った。露子の方は噛まれた手を気にして何度かさすっていたが、すねたような視線を大和に送るばかりだ。Aは裸足で草と土を踏みしめて、先ほどとは打って変わって軽やかに歩を進めていた。
「こっち! こっち!」
何がそんなに嬉しいのか、楽しげに笑いながら、橘の林の向こうを指さした。彼女に言われるままに歩いていくと、今度は本物の果樹園が広がっていた。杏は厳しい岩肌のような枝を広げて、黄色く熟した実を垂らしていた。藤棚のように紫色を並べて、アメシストの滝が流れるかのような葡萄。梨、桃、林檎などの木々が天に向けて枝葉を伸ばし、輝かんばかり実りが空の青に浸っていた。
桃はAの頬のように柔らかく色づいて、甘い香りと味が外見から容易に想像できる。先ほどの泉から流れる川沿いには、スイカやメロンのツルが茂り、大きくてまん丸の実を堂々と転がしていた。草といえば、苺の草原がスイカの隣にあって、丸々と大きく真っ赤な実がいくつもいくつもたわわに揺れている。
レモンにオレンジ、柚子、蜜柑、ライム、グレープフルーツ……ありとあらゆる柑橘でできた森はことさらに大和を魅了するのだった。黄色い宝石のような実をいくつもつける金柑の茂みも愛らしい。黄色く緑にさわやかな香気たつ森の中を、大和は嬉しそうにスキップしていた。露子は内心呆れつつも、大和ののんきさにどこか救われるような気がしていた。それで、そんな彼の姿をこっそりと写真に撮った。データを見返したら、バレるというのに。
この豊穣な果樹園も撮らねばなるまいと、ファインダーをのぞいた。その時、Aを発見した時あたりから、薄々気づいていた違和感の正体をはっきりと掴んだ。
「さっきから、ずっと、違和感があるんだけど……ここ、季節がおかしいよ」
「……確かに、さっきのカキツバタとノイバラといい……」
「橘の開花時期は初夏、梨の結実期は秋。桃も杏もスイカや苺、みんな食べごろで……やっぱりおかしい……四季が入り交じっている……?」
露子は過剰なまでに豊穣な果実の海をざあっと見渡して、考えこんでしまった。この世とも知れぬ世界、どんなことがあっても不思議ではないが、奇妙な思いを抱かずにはいられなかった。Aは不思議そうに露子に近寄ったが、さっきの噛みつきがきいたのか、怯えて後退してしまう。
「そんなにビビらなくてもいいだろ。人間は食い物じゃねえのはわかったよな?」
「わかった。にんじん! 違う……にしん! じゃなくって! 人間は食べないよ! おいしくないもん!」
はかなげで幻想的な見た目に反して、Aはどこか子供っぽくてあどけない感じがした。うるわしく整った目元や眉は、奇妙なほどにくるくると表情を変えていく。
「それギャグで言ってんのか? お前さっき人間って言えてたろ!」
「なんでニシンなんて知っているの? 人間と全然違う……」
露子の顔が少しほころんだ。この白い少女、言語中枢がちょっとおかしいと見える。