硝子細工の少女
「何だ!? ありゃなんだ!? 露子! 行くぞ!」
二人は奇妙な影を追って、橘の林を駆けていった。シトラスの香気に満ちた空を裂きながら、ひたすらに影を目指した。人影のように見えるけれども、なぜか影としかいいようがないのだった。日差しや木の間に紛れて、はっきりと姿が見えていないのだろうと二人は思った。
「きっと! ここの! 住人だぜ! 突撃! インタビューだよ! 絶対! 捕まえて! 話! 聞くからな!」
息を切らせて、言葉を途切れさせ、大和は露子に叫ぶのだった。露子は運動が苦手なので、大和の後をついていくのがやっと。息も絶え絶えで、彼の言葉を聞く余裕などなかった。橘園を抜けて、小さな泉にたどり着くと同時だった。それに追いついたのは。それは影ではなく、確かに人間の姿をしていた。
「奇麗……」
露子が写真のことなど忘れて、ただそうつぶやくしかないほどに、彼女は美しかった。さっきまで息巻いていた大和も、しばし黙ってその白い少女を見た。
大きく断裁した絹のような衣をローブのようにまとった乙女は、泉のほとりに腰掛け足を水に浸している。そして体をひねって振り返り、その幼児のように無垢な瞳で大和たちをじっと見つめていた。黒曜石の瞳は、あの羨道よりも深い暗黒で、吸い込まれそうだ。それとの対比で、雪を欺く銀髪が際立って目を引く。
その髪はほとりの草にしだれかかり、幽玄に、白金のごとくに輝いている。さらに所在なさ気に口元に添えられた手は、繊細なガラス細工の美しさだ。真っ白な桜の淡い桃色を、幾重にも重ねたようなくちびると相まって、ひとつの芸術を完成させている。
すべすべの頬にさす朱は、雪に耐えるウメモドキの紅の実のように鮮やかで愛おしさを心に起こすようだ。風によそぐカキツバタも、寄り添うように花をほころばせるノイバラも、すべて彼女の美しさに兜を脱いでいる。
「あんたは……一体……?」
「にんげん!」
玲瓏で高く澄み、それでいて溌剌とした声だった。ただ何が言いたいのかわからず、大和も露子も一瞬動きを止めた。
「何? 人間? そりゃ見りゃわかるぞ?」
「にんげんで、あってる?」
「あってるも何もねえよ! 俺は梓馬高校新聞部一年、敷島大和だよ! こっちは同じく霜鳥露子! で! お前! 名を名乗れ!」
乱暴に指を白い少女に突き立てて、怒鳴った。少女は驚いたり怖がったりする気配を微塵も見せず、しげしげと口角泡を飛ばす大和を見つめるのだった。
「ヤマト、ツユコ……」
「おい! 片言だが通じる! 露子! ガンガン撮れよ! 奇麗にな! こんな奴見たことあるか? こいつが異世界の証拠だよ!」
「敷島君、一応写真撮っていいか聞かないと……」
「しゃしん……?」
幼児のように大和たちの言葉を繰り返した。
「わかってねえみたいぞ! もういいから撮れよ!」
しぶしぶ露子はレンズを少女に差し向けて、シャッターを押した。彼女は黒い瞳を丸くしてカメラに見入った。どうやらこの奇妙な箱にはお初にお目にかかるらしい。彼女の存在があまりにも非現実的だったので、思わず露子は写真のデータを確認した。まごうことなく、液晶に少女は映っていた。
「どうやらここにはカメラはないらしい! なあお前、ちょっとは日本語わかるんだろ?」
大和は馴れ馴れしく少女の肩に手をおいて、顔をのぞき込んだ。絵画から抜け出てきたように、はかなげで美しい。ぶかぶかの白い衣からのぞく、華奢で折れそうなうなじは、どんなシルクよりもなめらかだった。
「まずは名前を聞かせてくれ。俺は、敷島、大和。こっちは、露子! わかるか?」
子供に教え諭すように、ゆっくりと言葉を区切りながら、話しかけていった。少女は小首を傾げ、大和と露子を交互に見て、淡い桜色のくちびるを開いた。
「にんげんは、ヤマト! ツユコ! あたしは……ない!」
「ないって、名前がないの?」
露子も大和と同じく、この奇怪な少女への興味から一歩前に進んでいた。水辺のぬかるみに軽く足を沈ませた。