第六帖 姫様、クラブを見学してみる!
旧校舎を出た日和と真夜は、まず、校庭の一角にあるテニスコートに行ってみた。
三面並んであるコートの周りに、テニス部員と思われる生徒達が並んで立っていて、模範試合の見学をしていた。
部員達の間から覗き見ると、真ん中のコートに秋土がいて、男子生徒を相手にラリーをしていた。
鋭い打音とともに、ボールがコート上を飛び交っていた。
「すごいの」
初めて間近でテニスを見た日和は、その飛び交うボールの速度と威力に驚くばかりであった。
「そうでございますね。でも、秋土殿が圧倒していますね」
「真夜は分かるのか?」
「ええ、秋土殿は手加減されています。本気を出せば、すぐに決着が着くはずです」
「そうなのか?」
確かに、秋土の表情は余裕があるようだった。
そして、相手の表情が苦しそうになったことを見計らったように、秋土がバックハンドで思い切りボールを打つと、ボールは相手のコートに突き刺さるように飛んで行き、相手は、動くこともできずにボールを見送った。
「相手の方に練習をさせるためと、おそらく、相手の方のプライドを傷つけないために、ラリーを続けていたのでしょう」
真夜の言葉どおり、秋土は、相手を褒め称えながら、直したら良い点をさり気なくアドバイスをしていた。
「秋土殿は優しい方でございますね」
試合が終わった秋土は、タオルとスポーツドリンクを取りに、ベンチに向かう途中で、日和達に気づいて、近づいて来た。
「日和ちゃん! 見に来てくれたの?」
日和は、こくりと頷いた。
「真夜さんもどうも」
「秋土殿。素晴らしい腕前ですな」
「いやいや、まだまだだよ。もっと上手くなりたいんだけどね」
秋土は、真夜から視線を日和に戻した。
「日和ちゃんもテニスをやってみない?」
「テニスはやったことないのじゃ」
「そんな新入生は、いっぱいいるよ。僕がじっくりと教えてあげるから」
「それは良いですね! おひい様、ぜひ、テニス部にお入りなさいませ」
「どうして、真夜がそんなに乗り気になっておるのじゃ?」
「いえいえ、秋土殿に教えていただければ、きっと、すぐに上手になれますぞ」
「でも、……そもそも運動は苦手なのじゃ」
秋土がせっかく誘ってくれたにも関わらず、自分の運動神経では、ラケットにボールを当てることすら無理だと分かっている日和は、申し訳無く思った。
「無理にとは言わないよ。気が向いたらで良いから。念のためにテニス部のセールポイントを宣伝しておくと、今、部員は、神術学科と普通科を併せて二十五人いて、夏は海に、冬は山に合宿に行くんだよ」
「海や山でもテニスができるのか?」
「テニスコートはどこでもあるからね。夏はテニスと海水浴、冬はスキーも楽しむことにしているんだ」
「テニス部で海水浴とスキーをするのか?」
「部員の懇親を込めたレクレーションとしてするんだよ。楽しいよ」
「……海水浴とスキーもしたことないのじゃ」
「えっ? スキーはまだしも、海水浴も?」
「泳げないし、水着を着るのが嫌いなのじゃ」
自分の幼児体型が嫌いな日和は、水着すら持ってなかった。洋服もボディに密着するタイプではなく、ゆったりとしたシルエットのものが好きだった。
「そ、そうなの? でも、絶対、やらず嫌いだよ。やってみたら絶対面白いから!」
「……う、うん。まあ、考えてみるのじゃ」
テニスコートから新校舎に入った日和と真夜は、その一階の端にある美術室に行ってみた。
真夜が部屋をノックすると、エプロンを掛けた女生徒がドアを開けてくれ、見学をしたいことを告げると、そのまま、中に通された。
絵の具の匂いが鼻をくすぐった。
部屋の中では、真ん中に立てられた石膏像を、その周りに座った十人ほどの部員達がイーゼルに掛けられたスケッチブックにデッサンしていた。
制服を見ると、神術学科の生徒は春水だけで、他は普通科の生徒達だった。
「日和さん、真夜さん。いらっしゃい」
他の部員と同じようにエプロンを掛けた春水が、デッサンの手を止め、立ち上がり、いつもの優しい笑顔を湛えながら、日和達に近づいて来た。
「見学に来てくれたのですね。嬉しいです」
部員のほとんどは女性であり、春水に話し掛けられた日和と真夜に対して、羨望もしくは嫉妬の感情が交ざった視線が向けられていた。
「日和さんは、絵を描くことはお好きですか?」
「ノートの端っこに漫画を描くことくらいなら」
「ふふふふ、それも立派な絵ではありますね。でも、一度、本格的に経験してみませんか? 面白いですよ」
「う、うん……」
「春水殿。とりあえず、皆さんが描かれているところを、参考までに見学させてください」
日和が押しに弱いことを知っている真夜が助け船を出した。
「どうぞ。それでは、私もデッサンに戻りますので、ご自由に眺めていてください」
「ありがとうございます」
日和と真夜は、部員の描いているデッサンをゆっくりと眺めながら見て回り、最後に、春水の後ろに立った。
春水のスケッチブックに鉛筆で書かれている石膏像のデッサンを見た日和は驚いた。
「春水さん、すごいの! 今にも動き出しそうじゃ!」
思わず、日和の口から感嘆の言葉が漏れた。
「ありがとうございます」
春水が振り向いて、日和に微笑んだ。
「私は、絵を描くことが大好きなのです。写真にも負けないくらい写実的に描くこともできますし、そのモデルとなったものの本質を見極めて、デフォルメされた構図と色彩で描くこともできます。その手法や表現方法から何通りものイメージを膨らませることができるのが絵画なのです」
「奥が深いのですな。ねえ、おひい様」
「えっと、……春水さんの言ったことが、よく分からなかったのじゃ」
春水の言葉が、哲学的かつ抽象的すぎて、謙遜では無く、日和は本気で分からなかった。
「ふふふふふ、すみません」
「悪いのは、春水さんではなく、わらわの頭なのじゃ」
「日和さんは、本当に面白い方ですね」
春水の優しい笑顔は、その美しさを際立たせ、日和の目を惹きつけてやまなかった。
その後、日和と真夜は、新校舎一階の廊下を歩いて、美術室と反対側の端っこにある軽音楽部の部室に行ってみた。
「真夜? 地震かの?」
「いえ、……地震ではなく、振動でしょう」
「振動?」
透明なガラスがはめ込まれている引き戸が閉まっているにも関わらず、地鳴りのような、耳よりも体に響いてくる低い音が部室からダダ漏れしていた。
「すごい音じゃの」
日和は、ピョンピョンと跳ねながら、ちょうど、真夜の顔の高さにあるガラス窓から中を覗いた。
「おひい様、おんぶいたしましょうか?」
「む、無用じゃ!」
頬を膨らませながら、日和が背伸びして何とか中を見ると、夏火がギターを弾きながらシャウトしており、バックのギター、ベース、ドラムの三人の男子生徒達もノリノリで演奏をしていた。
扉越しでも、夏火の声は力強く、それでいて、艶やかに響いていた。歌詞までは聴き取れなかったが、夏火の声は、音符に乗せて、日和の胸にも響いた。
「意外と歌が上手いですね。でも、この音量でずっと聴いていたら耳がおかしくなりそうです」
「そ、そうじゃの」
そう言ったものの、生演奏をバックにした歌声を聴いたことも初めてだった日和は、もう少し、夏火の歌声を聴いていたいと思った。
「おひい様、そろそろ参りましょうか?」
「もう、ちょっと聴いていたいのじゃが」
「そうですか? では、中に入りますか?」
「い、いや、それは良いのじゃ」
部室に入ると、絶対、夏火に絡まれると思った日和は、しばらく、扉の外から夏火の歌と演奏を聴いていた。
「しかし、それでは、蘇我の息子に、おひい様が見学に来たことを分からせることができませんぞ」
第一印象の悪さから、相変わらず、真夜から「蘇我の息子」などと呼ばれる夏火であった。
「そうであったな。でも、どうしよう? 夏火さんに会わずに、わらわが確かに見に来たということが分かるようにするには?」
「置き手紙でも残しておきますか?」
真夜が、背負っているバックから、メモ用紙とペンを取り出すと、日和に差し出した。
「おお! さすが真夜じゃな!」
小さな頃から習字を叩き込まれた日和が、達筆でメモをすると、真夜がそのメモを扉に貼り付けた。
『素敵な歌じゃった! 日和』
日和と真夜は、一階の中央部付近にある理科実験室に行ってみた。
この部屋は、授業中には、理科の実験実技の授業に使用していたが、放課後は科学部の部室になっていた。
引き戸を開けると、白衣を着て、それぞれノートパソコンを操作していた六人の男子生徒が一斉に振り向いた。
「こんにちは。転校してきた者なんですけど、ちょっと見学させていただいてよろしいですか?」
「どうぞ、どうぞ」
真夜の容姿を見て、男子生徒は嬉しそうに二人を部屋の中に案内した。
部屋の一番奥には、一心不乱にパソコンを操作していた冬木がいた。
冬木は、相当、集中していたようで、部員から声を掛けられて、初めて、日和達が部屋に入って来たことに気がついたようだ。
「ああ、卑弥埜か」
「物部殿。お初にお目に掛かります。拙者は、卑弥埜家に仕える身であります、梨芽真夜と申します」
真夜が丁寧に一礼したが、冬木は座ったまま、軽く頭を下げただけであった。
「物部冬木だ。よろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
冬木は、真夜には関心を示さず、すぐに日和に視線を戻した。
「卑弥埜! 自分の後ろに来てみると良い」
そう言うと、冬木は、ノートパソコンをすこし斜めにして、後ろに立った日和に見やすいようにした。
パソコンの画面には幾何学模様が描かれていた。
「これは何なのじゃ?」
「これは、地球の大気流動をシミュレートしているのだ」
「…………すまぬ。全然、分からぬ」
「簡単に言うと、この地球上で吹いている大規模な風の動きを、気圧や偏西風、地球の自転などの関連するデータを計算して、この画面上で再現をしているのだ」
「何故、そんなことをするのじゃ?」
「例えば、ある地域で発生した汚染物質がどのように拡散していくのかとか、これから未来に向けた天候の予想などをする時に役立つのだ」
「……そうなのじゃな」
「本当に分かったのか?」
「……すまぬ」
「分からないことは分からないと言えば良いんだ」
冬木も呆れているように苦笑しながら言った。
「まあ、理科が苦手な卑弥埜に、入部は無理には勧めないが、興味を持ってもらえるとありがたい」
「興味を?」
「そうだ。興味を持てば、そのうち好きになるかもしれないからな」
日和の中では、たぶん、興味を持つことはないだろうと結論は出ていたが、それをそのまま、冬木に伝えることはできなかった。
そんな日和から目配せされた真夜は、冬木に言った。
「冬木殿、どうもありがとうございました」
「うむ。うちは女子部員がいないから、卑弥埜に入ってもらえれば、他の部員も喜ぶのだがな」
真夜のような凜とした女性は苦手なのか、冬木は、真夜を見もせずに、日和を見つめた。
「あ、あの、と、とりあえず、家で考えてみるのじゃ」
日和と真夜は、理科実験室から廊下に出た。
「おひい様、どこか、入りたいと思ったクラブはございましたか?」
「特に無かったのじゃ」
「そうですか。他にも見て回られますか?」
「今日のところは良いかの」
「分かりました。では、家に帰りましょうか?」
「そうじゃの」
真夜の跡について帰ろうとした日和が、何気なく理科実験室の隣の部屋を見ると、日和の目は、その部屋に掲げられていた看板に釘付けになってしまった。