第五十六帖 姫様、デートをする!(二回目 with夏火)
秋土とテニスを初体験した次の日、月曜日の夜。
真夜が夕食が終わった居間で家計簿を付けていると、ピアノの音が聞こえてきた。
周りには人家もなく、どんちゃん騒ぎをしても近所迷惑になることはなかったが、ピアノの音など最近はほとんど聴いていなかったことから、何事かと思い、この家で唯一ピアノがある日和の部屋に向かった。
日和も子供の頃はピアノを習っており、夕食後は、日和が弾くピアノの音をBGMに家事をすることが真夜の日常だった。
しかし、日和が十二歳になった頃から、日和は手芸にはまって、ピアノを弾くことはなくなってしまい、最近は、伊与が見ているテレビの音がBGMになっていた。
真夜は、懐かしい響きに誘われるように廊下を歩き、日和の部屋の障子の前に正座した。
「おひい様」
ピアノの音が止んだ。
「何じゃ?」
「入ってもよろしいですか?」
「良いのじゃ」
真夜が障子を開け、部屋の中に入ると、部屋の隅にあるアップライトピアノの前に日和が座っていた。
「どういう風の吹き回しですか?」
「えっ……? ああ、久しぶりじゃったもんな」
「はい」
「実はな、今日、夏火さんから曲を練習しておくように言われたのじゃ」
「夏火殿が?」
「うん。今度の日曜日までにマスターしておくようにって楽譜を渡されたのじゃ」
真夜が日和の近くに行き、鍵盤の前に立て掛けていた楽譜を見ると、それは手書きであった。
「その楽譜は夏火殿が?」
「うん」
「日曜日に何をするのでございますか?」
「内緒だそうじゃ」
真夜は何となく夏火の考えが分かったが、当の日和は何の疑いも持たずに、曲の練習をしているようだ。
「マスターできそうですか?」
「昔取った杵柄とは良く言ったものじゃ。我ながら、けっこう指が動いてくれるのじゃ」
「そうですか。それは日曜日が楽しみですな」
「夏火さんは、いったい何をするつもりなんじゃろうな?」
「きっと、楽しいことだと思います」
そして日曜日。
金曜日に「できるだけ黒っぽい服に派手なアクセサリーを付けて来るように!」と夏火から念を押された日和は、黒のセーターとペンシルスカート、黒のストッキングに黒のパンプスという黒一色の服装に、重ねて巻いたゴールドのチェーンネックレス、ブレスレットという普段は付けない派手なアクセサリーを身にまとっていた。
縮地術の扉がある公園で待っていた夏火は、白のTシャツの上に、黒の革ジャンとパンツ、黒のショートブーツという服に、シルバーのチェーンネックレスを付け、ズボンにもチェーンを幾重にも垂らしていた。
「おはようなのじゃ、夏火さん」
「おはよう、日和! ちゃんと約束を守ってくれたんだな?」
「うん。あまりジャラジャラしたアクセサリーは持ってなかったのじゃが、真夜が用意してくれたのじゃ」
「真夜が? 真夜は、そんな趣味があったのか?」
真夜もそんなにアクセサリーを付けるように思えなかったのか、夏火が不思議そうな顔をした。
「真夜もこんなアクセサリーは持ってなかったから、昨日の土曜日に葵さんと一緒に買いに行ってくれたのじゃ」
「葵さんと一緒に? 真夜が?」
「最近、よく一緒にお出掛けしておるのじゃ」
「そうなのか。あの二人が並んで立ってるだけで最強じゃね?」
「そう思うのじゃ」
「おっと、いけねえ! 葵さんや真夜のことは、今日はどうでも良いことだった。今日の俺の連れは日和なんだからな」
夏火と日和は、学校最寄りの駅まで歩いて行き、電車で数駅のターミナル駅までやって来た。
一大繁華街でもあるその駅の周辺は、大勢の人が歩いていた。
「日和」
夏火が日和に手を差し出した。
「この人出だ。迷子にならないようにな」
「うん」
夏火が日和の手を取って歩き出した。
いつも早足の夏火がゆっくり歩いてくれているのが分かった。
大型量販店や電気店、銀行などの店舗が建ち並ぶ表通りから一つ通りを入った裏通り的な場所に出ると、雑居ビルの一つに近づいて行き、通りからそのまま地下に降りられる階段の前に立った。
その階段の横には「ライブハウスファイアー」という看板が立っていた。
「今日は、ここでライブをするんだ」
夏火が得意げな顔で言った。
「スカウトの人も見に来るという、以前に言っておったライブじゃな?」
「そうそう! でも、スカウトが来るかどうかは微妙なんだよな」
「そうなのか? でも、スカウトが来るか、来ないかは、もう関係ないんじゃろ?」
「ああ! ここでライブができるだけでイっちまいそうだぜ」
「どこへ?」
「……天国かな」
「そんなに幸せになれるんじゃな?」
「おうよ! 今日はその幸せを日和にも少し分けてやろうと思ってさ」
「夏火さんのライブは見ているだけでも幸せになれるのじゃ」
「見てるだけよりも、もっと幸せになれるはずだぜ」
「えっ? どういうことじゃ?」
「まあ、中に入ろうぜ」
狭い階段を日和の手を引いて、夏火はゆっくりと降りて行った。
階段の壁にはポップなペイントがされていて、それだけでも普段の生活から切り離された異空間に入り込んで行っている感覚になった。
階段を降りた所に金属製のドアがあり「ファイアー」と書かれていた。
防音仕様になっていると思われる、そのドアを夏火が開けて、二人は中に入った。
店全体に照明は点いていたが、外の明るい日差しの中から入ると、すごく暗い気がした。
軽音楽部のバンドメンバー三人が二人を迎えてくれた。
三人とも普通科の男子生徒だが、もう、日和とも顔見知りであった。
「こ、こんにちは」
日和も、夏火がこの三人と喧嘩をした時に仲をとりもったことはあるが、それ以外には、それほど頻繁に話をしたことがなく、少し緊張気味に挨拶をした。
「ちーす!」
対照的に、日和に軽い調子で挨拶をした三人は、日和の顔を見てニヤニヤとしていた。夏火と手を繋いでいる日和のことを、夏火の彼女と思っているようであった。
もっとも、夏火からは実際に告白されていて、日和が承諾すれば、晴れて日和は夏火の「彼女」となる一歩手前まで来ているし、そもそも今日はデートなのだから、ムキになって否定するまでもなかった。
「俺のギターは?」
「あそこにあるぜ」
メンバーが指差したステージに、夏火のギターが立て掛けられていた。
「キーボードは?」
「ここのやつでそんなに良いやつじゃないけど、既にセッティング済みだ」
「そうか。日和、ちょっと来い」
「何じゃ?」
「良いから」
夏火は、日和の手を取って、客席からほんの十センチほど高くなっているステージに連れて行った。
「このステージでライブをするんだ」
夏火はステージの上から客席の方に向いた。
日和も振り返って、客席を見てみた。
それほど広くはなく、小さな丸いテーブルが八卓と、それぞれのテーブルの周りに丸椅子が四つほど置かれていて、その間隔はそれほど広くなく、人が埋まると、少し窮屈に感じられるかもしれなかった。
まだ観客は入ってなかったが、初めて見るステージからの景色に、日和も気分が高揚してくるのが分かった。
「こんなお客さんの前で演奏するのって緊張しないのか?」
「そりゃあ、最初は緊張するさ。でも一発目の音が出たら、後は忘れてしまうな」
夏火の言葉に、夏火と日和の少し後ろに立っていたメンバー達もうなづいた。
「今日は、日和もするんだぜ」
「えっ?」
夏火が唐突に言った言葉の意味が日和は分からなかった。
「何をするんじゃ?」
「バンドさ」
「えっと、……何を言っておるのじゃ?」
「お前に練習しておいてくれって言ってた曲があっただろう。あれをライブでやるんだ」
「……」
「その曲の時だけ、日和に飛び入りで演奏をしてもらおうかと思っているんだ」
「えーっ! わらわが?」
「そうだよ。金曜日には、もうスラスラと弾けるようになったって言ってただろ?」
「そ、それは、家でならじゃ! 人前で演奏できる訳がないのじゃ!」
「練習している時と同じように弾けば良いよ」
「無理じゃ! 絶対、無理じゃ!」
日和は、胸の前で両手でバッテンを作って、後ずさりした。
「どうしてもか?」
「どうしてもじゃ!」
「そっか。日和が嫌なら仕方がないな。諦めるよ」
夏火があっさりと引き下がったので、日和は拍子抜けてしまった。
「そ、そういうことなら、どうして事前に言ってくれなかったのじゃ?」
「事前に言うと、お前、練習もしないだろ?」
「わらわに練習をさせるように黙っておいたのか?」
「ああ、日和の気持ち一つでライブに参加できる可能性を残しておきたかったんだ。でも、練習をしてなかったら、今日、その気になっても参加できないだろ?」
「……」
「でも、今日、日和がその気にならなかったらやらないよ」
「そんなにあっさりと諦めるのか?」
「何だよ、やっぱりやりたいのかよ?」
夏火が笑いながら尋ねた。
「い、いや、そう言う訳ではないが、いつもの夏火さんなら、もっと食い下がるような気がしたのじゃ」
「どんだけしつこい男に思われてるんだよ、俺?」
やっぱり笑顔の夏火が、日和と後ろに控えているメンバーを交互に見渡した。
「バンドてのはさ、嫌々やったって良い演奏ができる訳がないし、演奏してても面白くない。日和がやる気になってやらないと、やる意味がないんだよ」
そう言われて、日和は、再度、観客の前で演奏する自分を想像してみたが、それだけで心臓がバクバクしてしまった。
「……やっぱり無理じゃ」
「気にするなって。俺が勝手に企んだことだ。日和が乗ってくれたら儲けものという程度なんだからさ」
「すまぬ」
「じゃあさ、俺達のライブをリハから楽しんでいってくれ。これからリハをするから」
リハも終わり、午後六時の開演を待つばかりとなった。
メンバーはそれぞれ客席に座り、ちょっと早い夕食を取った。
と言っても、近くのショップで買ったハンバーガーだった。
「日和、食うか?」
同じテーブルに着いた夏火がハンバーガーを日和に差し出した。
「ありがとうなのじゃ」
「こんなもんで悪いな」
「ううん。ここのハンバーガーは野菜がたっぷり入ってるから好きなのじゃ」
「レストランとかに座って食べると、気がつかないうちに、がっつり食べてしまうんだよな。食べ過ぎると声が出なくなるから、ライブ前はハンバーガー一個って決めてるんだ」
「そうなのじゃな」
夏火と並んで、ハンバーガーをぱくついている日和は、夏火がパンくずやレタスをポロポロと落としているのに気がついた。
「夏火さん、汚いのじゃ!」
「えっ? ああ、お上品に食べるのに慣れてなくてさ」
「もう~、口の周りにソースも付いているのじゃ」
「うん? どこだ?」
夏火が素手で口を周りを擦った。
「あ~、ほらっ! もっと汚くなったのじゃ」
日和は、バックからポケットティッシュを出すと、夏火の口の周りを拭いた。
「手にも付いたのではないか?」
「あ、ああ」
夏火が自分で確認するように目の前に出した手にもソースも付いていたが、日和が綺麗に拭き取った。
「あ、ありがとうな、日和」
「本当に四人の中では一番子供なんじゃから」
「お前に言われたくねえよ! と言いたいところだが、今日のところは大人しく聞いておくよ」
午後五時三十分になると開場となり、観客がゾロゾロと入って来た。
夏火とメンバーは楽屋に引っ込んだが、日和は、自分が楽屋に入ることで夏火やメンバーの邪魔になってはいけないと思い、楽屋には入らず、チケットのもぎりをしているライブハウスのスタッフの隣に何となく立っていた。
軽音楽部のバンドだけあり、観客のほとんどは耶麻臺学園の生徒達と思われた。
「あれえ、部長?」
「何じゃ、和歌ちゃんも来たのか?」
和歌が同級生らしき女の子達と一緒に入って来た。
「今日の蘇我先輩とのデートって、これだったんですね」
和歌の言葉で、日和が夏火から告白されている神術学科二年壱組の「卑弥埜日和」だと分かった生徒達は、一斉に日和に注目した。
四綺羅星全員の寵愛を一身に集めている女の子として、普通科の女子にも日和の名を知らぬ者はいなかった。
その視線から逃れるように、日和は「また後でな」と和歌に手を振って、夏火から指定された最前列の席に座った。
そして、楽屋に入る前に、夏火に言われた言葉を思い出した。
「日和が練習をした曲をやりたいって気持ちになったら、手を上げてくれ。俺はいつも日和を見てるから」
夏火は日和が演奏をすることを諦めていなかった。日和のピアノ演奏をバックに歌いたいとも言った。
しかし、ざわめく大勢の客を前にして弾ける自信はなかった。
それまでかかっていたBGMがフェードアウトすると、会場が暗くなった。
客席のざわめきが収まり静寂が訪れた。最前列の日和は、楽屋からメンバーが登場するのが見えた。
ギターを抱えてセンターに立った夏火が日和に親指を立てたのを見て、日和は、頑張れという気持ちを伝えたくて、力強くうなづいた。
ステージの照明が一斉に灯されるとともに演奏が始まった。
軽音楽部の部室やイベント会場で演奏を聴いたことはあるが、それより格段に良いライブハウスの音響で、夏火の声がいつも以上に日和の心を震わせた。
バックの演奏も素晴らしく、日和も自然と足でリズムを取り、知っている曲では歌詞を口ずさんだ。
日和の後ろでも、アップテンポの曲では大ノリで手拍子が鳴らされ、逆にスローテンポの曲ではシーンと静かになって曲に聴き入っているのが分かった。
そんなステージと客席が一体となって盛り上がっていく雰囲気に日和の気分も次第に高揚してきて、バンドと客の区別もなく、全員がライブの出演者となっている錯覚に陥ってきた。それは日和だけではなく、このライブハウスにいる全員がそうなっていたのだろう。
気がついた時には、日和は手を上げていた。
ちょうど、夏火がMCをしていた時で、夏火と目が合った。
(えっ、どうして?)
自分でもどうして手を上げていたのか分からなかったが、夏火の嬉しそうな顔を見ると、今更、引っ込めることはできなかった。
「それじゃ、次の曲だけど、急遽、予定を変更して、オリジナルのバラードをやります。この曲限定だけどゲストを紹介するぜ」
夏火がもう一度、日和の顔を見た。
「卑弥埜日和!」
夏火の紹介とタイミングを合わせて、まるで打合せがされていたように、日和にスポットライトが当たった。
日和は逃げ出したくなったが、自分で手を上げたのであり、今、逃げると、夏火に迷惑を掛けることになる。
日和は覚悟を決めて、立ち上がり、夏火の隣に立った。
「もう一回紹介するぜ! 俺が今一番大切にしたい女性! 卑弥埜日和だ!」
客席からため息のような歓声が上がり拍手がされた。
深々と頭を下げた日和が頭を上げると、スポットライトで照らされて眩しかったが、観客の顔は意外とはっきりと見えた。
夏火のエスコートでキーボードの前に座ると、夏火がキーボードの音色と音量を素早く調整してくれた。
「日和、大丈夫か?」
あれだけ日和を出演させようとしていたのに、夏火が心配そうに日和を見た。
「うん。大丈夫じゃ」
やり始めるまでは不安で仕方無いが、いざ、やるとなったら覚悟を決めて実行をする図太さも併せ持っている日和であった。
ステージのセンターに戻った夏火が日和を見ながら、カウント代わりに何度か首を縦に小さく振り、そのテンポに合わせて、日和がピアノの音色にしているキーボードを弾き始めた。
思っていたよりも冷静で、家で練習をしている雰囲気で弾くことができた。
会場の照明が落とされて、客席が見えなくなったのが良かったのかもしれなかった。
日和のピアノに合わせて、夏火が歌い出した。
同じ演奏者であっても酔わせてしまう夏火の声に、日和も演奏への集中力を更に高めることができた。
自分ではない、誰か別の人が演奏しているCDでも聴いているように、音楽そのものを楽しんでいた。
曲が終わった。
しばらく余韻を楽しむように間が空いてから、盛大な拍手が起こった。
緊張してなかったと言えば嘘になるが、夏火の歌声と自分のピアノ伴奏がぴったりと合って、自分でも酔いしれるほどの快感であった。
キーボードの前に座って呆然としていた日和に夏火が近づいて来て手を差し伸べた。
その手を握って立つと、夏火のエスコートでステージのセンターに連れて来られた。
「俺の大切な姫様だ!」
観客にはステージ上の演出と思われたかもしれないが、夏火としては観客に「自分の姫様」ということをアピールしたかったのだろう。
夏火とともに観客に頭を下げた日和は、そう言われたことに喜びさえ感じていた。




