第三十八帖 姫様、映画館で眠る!
「本当に?」
季風の表情が一気に明るくなった。
「う、うん」
「よろしいのですか、おひい様?」
「良いのじゃ! 季風さんとだけ行かないという訳にいかないのじゃ」
「やった~!」
まるで女性のように胸の前で手を組んで飛び跳ねる季風であった。
「ヒヨちゃん、どこに行きたいですか?」
「季風さんに任せるのじゃ」
「これから考えて、ヒヨちゃんの携帯に知らせます。だから、ヒヨちゃんの電話番号とアドレスを教えてください」
「それはできません。おひい様の携帯番号やアドレスは誰にも教えておりません」
これは本当のことで、手芸部の連絡も、四臣家の四人との連絡も、すべて真夜が取り次いでいた。
「じゃあ、季風にだけ特別に教えてくださいよ」
「例外は認められません」
「え~、どうしてですかあ?」
「警備上の要請でございます」
にべもない真夜に、季風も折れるしかなかった。
その日の夜。
お風呂に入るとプールの疲れが出て来て、パジャマ姿の日和は自分の部屋で刺繍をしながら、うつらうつらとしていた。
「おひい様」
障子の向こう側から真夜に呼ばれて、目が覚めた。
「入りなさい」
日和の返事を待って、行儀良く座って障子を開けた真夜が日和の近くににじり寄って来た。
「菅原殿から連絡がございました。今度の日曜日、映画を見に行きたいそうでございます」
「映画? 何の映画じゃろう?」
「シネコンと言って、一つの映画館の中でたくさんの映画が上映されているようなので、行ってから決めるそうでござます」
「そうなのか?」
日和も小さな頃に母親に連れられてアニメ映画を見に行った記憶があるくらいで、映画を見に行くことは久しぶりだった。
「結局、これで夏休み中の日曜日はほとんど遊びに行ったことになりましたな」
瓢箪から駒的な流れもあったが、遊園地、野外コンサート、美術館と動物園、夏祭り、プール、そして最後に映画鑑賞と、夏休みの遊びメニューをフルコンボしており、去年までと大違いであった。
「映画は久しぶりだから楽しみじゃが、一つだけ心配があるのじゃ」
「何ですか?」
「季風さんから返事を迫られたら、何と言えば良いのじゃろう?」
「おひい様の思いのままに答えたら良いのですよ」
「思いのままに?」
「おひい様は菅原殿をどう思われているのですか?」
「好きでもなく嫌いでもないというところじゃろうか」
「それはこれからもずっとと言うことでしょうか? つまり、菅原殿とは友人としてのみ、つき合わせていただくと?」
「ど、どうなんじゃろう?」
「これから好きになるかもしれないし、ひょっとしたら嫌いになるかもしれないということでしょうか?」
「うん。自分でも、まだ、よく分からないというのが正直なところじゃ」
「ならば、その通りにお答えすれば良いと思います。ちゃんと真剣に菅原殿のことを考えていて、まだ結論が出ていないと」
「そ、そうか。分かったのじゃ」
そして、次の日曜日。
この日の日和は、映画館は冷房がきついかもしれないと真夜に言われて、オレンジ色のブラウスの上にブラウンのサマーカーデガンを羽織り、ミディ丈の白いスカート、黒地に白のドットソックス、足元はダークブラウンのローファーを履いて家を出た。
学校最寄り駅に午前十時に待ち合わせであったが、日和は、一週間前にも行ったにもかかわらず、お約束どおり道に迷ってしまった。
真夜に電話で道を教えてもらいながら、小走りに駅に行くと、季風が改札の前で待っていた。
「す、すまぬのじゃ、季風さん」
「ううん。良いですよ。全然、気にしてませんから」
季風は機嫌良く笑った。
「じゃあ、行きましょうか?」
そう言うと、季風は、さりげなく日和と手を繋いだ。
「えっ!」
「デートだから当然ですよね」
四臣家の四人は、日和と手を繋ぐときには日和の同意を得ていたが、季風には、そう言う意識はないようであった。
季風の中では、季風と日和は既に恋人同士になっているのであろう。
電車で二駅先のターミナル駅で降りると、すぐにシネコンに着いた。
入口を入ったロビーは広く、大勢の客がいたが、それほど混雑をしているようには感じられなかった。
カウンターに五つの上映映画ごとの受付があり、洋画のSF巨編とアクション物、邦画のヒューマンドラマ、そしてアニメが二本、上映されているようであった。
「ヒヨちゃん、どれを見たいですか?」
「そうじゃのう、……どれも面白そうじゃから、季風さんが見たい映画で、わらわは良いぞ」
「それじゃあ、あれにしましょうか?」
季風が指差したのは、SF巨編と銘打たれたロボット物の特撮ハリウッド映画であった。
「季風さんは特撮映画が好きなのか?」
「好きですよ。未来は本当にあんなになるのだろうかって、想像が膨らむじゃないですか」
「それはそうじゃな」
カウンターで指定席チケットを買い、ロビーに並んで置かれているソファに日和を座らせると、立ったままの季風が日和に尋ねた。
「ヒヨちゃん、ポップコーンとジュースを買いませんか?」
日和もポップコーンの甘い香りがさっきから気になっており、季風の提案は渡りに船であった。
「うん、欲しいのじゃ」
「じゃあ、季風が買ってきます。ジュースは何が良いですか?」
「えっと、……オレンジジュースが良いの」
「分かりました。じゃあ、ここで待っていてください」
一人でポップコーン売り場に行った季風は、すぐに、ポップコーンとジュースをトレイの上に二つずつ乗せて、日和の所に戻って来た。
「ありがとうなのじゃ」
「いいえ。季風が持って行きますね」
それほど待つことなく上映時間が来ると、日和と季風は、シアターに入り、指定された席に並んで座った。
「では、これがヒヨちゃんの分ですね」
ゆったりとしたシートには肘掛けの部分にホルダーがあり、日和は、季風が差し出したポップコーンが入った紙カップと蓋にストローが差し込まれたジュースを自分のホルダーに入れた。
「ヒヨちゃん」
呼ばれて季風の方を見ると、季風の顔が近くに見えた。
「季風は映画に入り込んで見てしまうかもしれません。無言になっても気にしないでください」
「良いのじゃ。でも、そんなに集中してしまうなんて、本当に好きなんじゃな」
「ええ、……あっ、始まりますね」
シアターが暗くなると、いくつか予告編の映像が流れた後、本編が始まった。
日和にとっては初めての字幕映画であったが、特に気にはならなかった。
季風を見てみれば、ポップコーンをポリポリと食べながら、スクリーンに映し出される映像に夢中になっていた。
日和も迫り来るような映像に圧倒されながら見入っていたが、季風がポップコーンを食べる音が気になってきて、自分もポップコーンを食べることにした。
メイプルシロップがたっぷり掛かって甘く美味しかった。
家では、お菓子を食べながら何かをするということはなかったが、映画館という雰囲気の中で自然とそう言うことができた。
ポップコーンを食べたら、当然、喉が渇く。
ポップコーンの紙カップを置いて、代わりにオレンジジュースに手を伸ばして一口飲んだ。
甘いポップコーンを食べた後だと少し酸っぱく感じたが、冷たくて気持ちが良かった。
ジュースカップをホルダーに戻すと、日和はスクリーンに集中した。
ストーリーも面白くて、日和は映画に夢中になっていたが、ふと欠伸が出た。
好きなことや面白いことをしている時には眠気を忘れて集中することができた日和は、その眠気が尋常ではないことを感じた。
その感覚どおりに、眠気がどんどんと強くなってきた。
瞼が重くてなってきて、目を開けていることが辛くなってきた。
日和は、ふと、ポップコーンとジュースを見つめた。両方ともシネコンの売店で買ったものだが、シアターの席に着くまでは、ずっと季風が持っていた。
もしかしてと思ったが、日和は意識を保つことができず、耐えられずに目を閉じて、深い眠りに落ちていった。
誰かが耳元で囁く声がした。
瞼を開くと、それは映画の台詞であった。
どれだけの時間かすぐには分からなかったが、意識が飛んでいた時間があることは確かであった。
かと言って、気分はそれほど悪くなく、頭もぼんやりとしているようではなかった。
スクリーンでは、まだ映画が続いていた。そして、そのストーリーの繋がりが何となく付いたことから、寝落ちしていたのは、それほど長い時間ではないはずだ。
隣を見ると、季風は相変わらず、スクリーンを夢中で見つめていた。
寝落ちにしては激しく、かつ一瞬すぎる。
いったい、何だったのだろうと考えたが、答えは出なかった。
日和は、再び、映画に集中しようとしたが、不思議な寝落ちのことが気になって、映画の内容も頭に入らなくなってしまい、ボーッとスクリーンを見つめながら映画が終わるのをじっと待った。もっとも、特撮映画だけに映像的には飽きることはなく、日和も退屈することはなかった。
目が覚めてから一時間ほどで映画は終わった。
「ヒヨちゃん、ごめんね」
エンディングロールが流れる中、季風が日和に言った。
「何じゃろ?」
「ヒヨちゃんを放りっぱなしにしてしまって」
「いや、全然、かまわないのじゃ。わらわも映画が面白くて集中しておったから」
「本当ですか? それは良かったです」
どうやら、季風は日和が寝落ちしていたことに気づいていないようだ。あれだけスクリーンに集中していれば無理もないだろう。
「じゃあ、出ましょうか?」
季風は、自分の席のホルダーに入っている空の紙コップを持つと席を立った。日和も同じようにして席を立った。
「ヒヨちゃん、ポップコーンとジュースが余っているのですか?」
「う、うん。食べきれなかったのじゃ」
「って言うか、ほとんど食べてないんじゃないですか?」
「う、うん。お腹が一杯になってしもうて」
「じゃあ、季風がもらっても良いですか?」
「えっ?」
「駄目ですか?」
「い、良いのじゃ」
先ほど眠くなったのは、このポップコーンとジュースに何か睡眠薬のようなものが混入されていたのではないかと疑ったが、ロビーのソファに座り、日和のポップコーンとジュースをあっという間に平らげた季風には何も変わったことは起きなかった。
「季風さん、眠くはならないか?」
「そうですね。お腹が張ったので少し眠いでしょうか」
もし、季風が睡眠薬を混入したのであれば、日和の問い掛けは、自分が疑われていると思い至らせるはずだが、季風は顔色一つ変えなかった。
さっきの眠気は何だったのだろうと不思議でならなかったが、夏休みの疲れが一瞬だけ出たのかもしれないと考えて、それで納得することにした。
「さて、ヒヨちゃん。次はどこに行きますか?」
「つ、次?」
「だって、まだお昼前ですよ。お昼御飯をどこかで食べますか?」
「えっと……」
冬木以外の三人とは午前から夕刻までずっと一緒にいた。四臣家の四人と季風とを公平に扱うのであれば、日和は、季風の誘いを断るのに「これから用事がある」などと嘘を吐くことはできなかった。
「季風さんが食べたいのであれば、わらわも食べるのじゃ」
「分かりました! じゃあ、行きましょう!」
シネコンから出た季風は、日和の手をまた当然のごとく握った。
「何が食べたいですか?」
「季風さんにお任せするのじゃ」
「では、季風がよく行く店でも良いですか?」
「うん、良いのじゃ」
季風は日和の手を引いて、大勢の人が行き交う表通りから小さな路地に入り込んだ。自動車がやっとすれ違いできるほどの幅しかない道の両側には、主に夜に営業していると思われる飲食店が軒を連ねていて、日和も初めて見た街の風景の中を歩いた。
「こっちですよ」
季風は、ある雑居ビルの地下に降りる階段の前に立った。
「この地下にあるんです。狭い階段なので気を付けてください」
季風は、日和と手を繋いだ手を後ろに伸ばしながら、狭く勾配が急な階段をゆっくりと降りた。
階段を降りきった所に窓のないドアがあった。
取っ手を持ってドアを手前に引いた季風と一緒に中に入ると、アロマスモークが漂う薄暗い店内にいくつかのテーブルと椅子が置かれていた。
見る限り客の姿はなかった。
「季風君、いらっしゃい」
どこからか、蝶ネクタイを締めたウェイター姿の男性が日和達の近くに立った。
「マスター、こんにちは。ランチを二つお願いします」
「分かりました。お好きな席にどうぞ」
季風は、手を繋いだままの日和をエスコートして、一番奥の四人掛けテーブルに行った。
「ヒヨちゃん、どうぞ」
季風は、日和の手を離すと、入口に背を向ける側の椅子を引いた。
「ど、どうもなのじゃ」
日和が椅子に座ると、季風はその対面の席に着いた。
「ここの料理はすごく美味しいんですよ」
「どう言う料理が出るのじゃろう?」
「創作料理ですね。夜のディナーも人気みたいですけど、ランチもお勧めです」
「そうなのか? それは楽しみじゃ」
テーブルの上に置かれたブランディグラスの中に灯された蝋燭の優しい光がムーディな雰囲気を醸し出していた。
間もなく、可愛い制服のウェイトレスがやって来て、お冷やを二つ置くと、そのまま下がって行った。
「ヒヨちゃん、御飯が出てくるまで、少し話をしても良いですか?」
「良いのじゃ」
季風はテーブルに両肘を着いて、少し前屈みになって、日和を真っ直ぐに見つめた。
「季風がアメリカから引っ越して来たことは、以前にお話しましたよね?」
「そうじゃったな」
「あれは嘘です」
「えっ? ど、どういうことじゃろう?」
「これから、本当の季風の身の上話をしますね」
「……」
「父親の転勤で日本に来たと言うことも嘘です」
「えっ?」
「季風が日本に来たのは、身寄りがなかった季風を引き取ってくれた恩人のためです」
「ど、どういうことじゃろう?」
季風の不気味な表情に危険な香りがした日和は反射的に立ち上がろうとしたが、体が動かなかった。
「こ、これは?」
「ヒヨちゃんには動きを封じる魔法を掛けさせてもらいました」
日和は、テーブルの上で両手を組んだままの姿勢で固まってしまっていた。
動かせることができるのは顔だけで、首から下はまったく動かすことができなかった。
「いつの間に?」
「さっき、映画を見ている時ですよ」
「あのポップコーンとジュースはやっぱり?」
「ええ、買った後に、即効性があり、一定の時間が経つとその効力がなくなる睡眠薬を振り掛けておきました」
だから、日和がすぐに目覚め、その後で季風がポップコーンを食べた時には何も変化が起きなかったのだろう。
「季風が掛けているのは、動きだけではなく神術の発動も封じてしまう西洋魔法です」
「西洋魔法じゃと?」
「ええ、そうです。この魔法は、封じられる人のうなじに手を添えて詠唱する必要があるのです。ヒヨちゃんにそんなことができるとすれば、ヒヨちゃんを眠らせている間にするしかないですよね。ヒヨちゃんには催眠魔法は効かないので薬で眠ってもらうしかないと言うことなんです」
詠唱をするためだけに眠らせたのであれば、ごく短時間でも眠らせていれば可能であろう。
「どうして、こんなことを?」
「ヒヨちゃん」
季風は、ひときわ前屈みになって、日和に顔を近づけた。
「季風はね、ヒヨちゃんを殺すために、日本に来たのですよ」




