第二帖 姫様、登校途中に迷子になる!
翌朝。
日和の部屋の姿見の前で、椅子に座った日和の髪を、後ろに立った真夜がブラシで丁寧に解いていた。
二人は、修道衣のようなライトグレーのセーラー服を着ており、足元は折り畳んだ白ソックスを履いていた。
「真夜」
「何でございますか?」
「学校には、大勢、人がいるのであろうの?」
「そのようですね。拙者も行ったことがありませぬゆえ、よく分かりませんが」
「大勢、人がいる所は苦手じゃ」
「……おひい様」
「何じゃ?」
「怖いのですか?」
「……言うな! せっかく、考えないようにしておったのに!」
「申し訳ございません。しかし、拙者がずっと、おひい様のお側におりまする。いつもどおりのおひい様でいらっしゃいませ」
「……わらわにできるかのう?」
「できまする。……そろそろ参りましょうか?」
「……そうじゃの」
頭の上に赤いリボンを結び終えると、日和は立ち上がった。
手提げ兼用のリュックサックを背負った二人は、日和の部屋を出ると、廊下の突き当たりにある物置に向かった。
閂を横にスライドさせて、薄い板戸を開くと、二人は薄暗い物置の中に入った。
「しかし、どうして、物置に、縮地術の扉があるのじゃ?」
「学校に一番近い扉と同期させてみれば、ここになったそうでございます」
「まあ、雪隠でなかっただけでも感謝すべきなのじゃろうが」
「はい」
日和の家は、人里から遠く離れた、東京都高天原村と言う、地図にも載っていない辺鄙な場所にあり、都心にある耶麻臺学園まで通うために、「縮地術」と言う瞬間移動の神術を使用することにしたが、そのための入り口が、ちょうど、自宅の物置に開いていたのだ。
「学校の近くでは、どこに出るのじゃ?」
「行ってみないと分かりませぬ」
裸電球一つだけの灯りの中で、真夜が呪文を唱え、印を結んだ後、壁に向かって腕を突き出すと、物置の壁に黄色の魔法陣が現れた。
「参りましょう」
二人は、手を繋いで魔法陣を通り抜けた。
「真夜! やっぱり、雪隠ではないか!」
「そ、そうでございましたね」
二人は、洋式トイレの個室にいた。
「これは、お婆様の嫌がらせであろうか?」
「たまたまだと思いますけど……」
二人が個室から出ると、そこは公衆トイレのようで、壁にはめ込まれたタイルガラスから差し込む光で明るく、清潔感に溢れていた。
外に出ると、そこは、比較的大きな児童公園の中であった。
周りは閑静な住宅街で、この朝の時間には、人の姿は見えなかった。
「これから、毎日、ここを通って行くのか?」
「は、はい。いざという時には、すぐに用を済ませることもできますぞ」
「無用のセールスポイントじゃ!」
「と、とりあえず、学校に向かいましょう」
真夜が、スカートのポケットからカードのような機械を取り出して画面を見だした。
「真夜、それは何じゃ?」
「これは、『スマホ』という電話でございます」
「電話? うちにある電話は、黒くて、もっと大きいではないか?」
「あれは、大昔の電話機でございますよ。伊与様がケチって最新型を買われないからです」
「そうなのか? それが最新鋭の電話なのか? 小さいの?」
「あっ、そうでございました!」
真夜は、リュックの中から、もう一つ、スマホを取り出した。
「これは、おひい様の分でございます」
「わらわの分もあるのか?」
スマホを受け取った日和は、いくつもマークが描かれた画面を見た。
「とりあえず、憶えていただくことは、画面のこのマークを押してですね……」
日和が、真夜の言うとおりにして、スマホの画面に真夜の名前を出し、更に受話器のマークを押すと、真夜が自分のスマホを耳に当てた。
「もしもし」
「おお! こんな小さな機械から真夜の声が聞こえた!」
「はい。持ち運びできる電話機なのです」
「すごいの! 便利じゃの!」
「これを肌身離さず持っていれば、拙者がお側におらずとも話をすることができますぞ」
「うんうん。それで、真夜は何を見ていたのじゃ?」
「これは地図も表示させることができるので、学校までの道を案内させようと思ったのです」
「何と! 地図まで! 中に妖怪が入っておるのではないだろうの?」
日和がスマホを手にかざし、裏表と回しながら見つめていると、ガサゴソと音がして、公園の茂みの中から何かが出てきた。
――う~っ!
唸り声に振り向くと、放し飼いされているのか、首輪をした大きな犬が近づいて来ていた。
「真夜! 犬じゃ! わらわと遊んでほしいのかの?」
――ワン!
動物好きな日和が犬に近づこうとすると、犬が大きな声で吠えて走り寄って来た。
「きゃー!」
大きな声で吠えられて、気が動転してしまった日和は、咄嗟に背中を向けて、走って逃げた。
――ワンワン!
犬も尻尾を振りながら、日和の跡を追い掛けて行った。
「おひい様!」
真夜が、公園を出て行った日和の跡を追おうとすると、犬がくるりと反転して、真夜に飛び掛かって来た。
不意を突かれ、思わず尻餅をついた真夜の顔に、飛び掛かって来た犬のペロペロ攻撃が始まった。
「こ、こらっ! 今、お前と遊んでいる暇は無いんだ!」
真夜は、犬を邪険にすることなく、ペロペロ攻撃を回避して立ち上がり、周りを見渡したが、どこにも日和の姿は見えなかった。
「やれやれ。どこまでお逃げになったのやら」
真夜は、早速、日和に電話を掛けた。
気がつくと、日和は、閑静な住宅街にいて、辺りを見渡しても、さっきまでいた公園は見えなかった。
「あれっ? ……真夜! 真夜!」
通りには、まったく、人影が見えなかった。
「どうしよう。……あっ、そうじゃ!」
日和は、手に握ったままだったスマホで、真夜に電話を掛けてみたが、話し中だった。
「誰と話しておるのじゃ、こんな時に!」
真夜も日和に掛けているとは思いもよらず、一人、腹を立てる日和であった。
仕方なく電話を切って、周りを見渡してみたが、見知らぬ街並みで、同じような住宅が続いており、日和自身が、どちらから駆けて来たのかも分からなかった。
「ど、どっちに行けば良いのじゃろう?」
とりあえず、歩き出すと、前から一人の男性が歩いて来ているのが見えた。
日和は、話し掛けられないように、顔をそむけながら、道の端に寄り、その男性とすれ違った。
「おい!」
男性の声が聞こえたが、日和は、怖くて、立ち止まらなかった。
「おい!」
今度は、日和のすぐ後ろで声がした。
明らかに自分が呼ばれていると、観念した日和は立ち止まり、恐る恐る振り返った。
そこには、袖に赤い二本線が引かれたライトグレーのジャケットを羽織り、白いワイシャツに、赤いネクタイを締めて、紺を基調にしたチェック柄のズボンを履いている男の子がいた。
ソフトギターケースを背負っている男の子の肩に届く長さの髪は赤く、日和を見つめる瞳も赤かった。
「どこに行ってるんだよ?」
「あ、あの……」
「その先は行き止まりだぞ。お前、耶麻臺学園の生徒なんだろ?」
「……」
赤髪男子は、つかつかと日和のすぐ近くまで近づいて来た。
「背え、小っちぇえな、お前! 初等部か?」
「……」
「おい!」
「は、はい!」
怒っているような赤髪男子の口調に、日和は、びびってしまった。
「何だよ、日本語、分かるんじゃねえか。どこに行ってるのかって訊いてるんだよ」
「あ、あの……、が、学校に」
「えっ? 聞こえねえよ!」
「が、学校に行っておる!」
涙目になりながら、日和は精一杯の大声を上げた。
「いや、だから、その先には、学校は無いって」
「あ、あの、そ、その……、迷ってしまって」
「はあ?」
「み、道が分からなくて……」
「……転校生か?」
日和は、こくりと頷いた。
「しゃあねえな。ついて来いよ」
「えっ?」
「俺も耶麻臺学園の生徒だからさ。どうせ行き先は一緒だ。俺の跡について来な」
そう言うと、赤髪男子は、一人でさっさと歩き出した。
日和は、すぐ跡を追ったが、走っていかないと、すぐに置いて行かれそうになるほど、赤髪男子は早足だった。
同じような制服を着た男女が何人か歩いている通りまで来て、赤髪男子が振り返えった時には、日和は、赤髪男子の二十メートルほど後ろを駆けていた。
「お前、どんだけ足が遅いんだよ!」
ハアハアと息を切らして追いつくと、日和は頭を下げた。
「す、すまぬ」
「いや、別に、怒ってる訳じゃねえから」
日和に素直に謝られて、赤髪男子も少し言い過ぎたと反省したようだ。
その時、日和が手に持っていたスマホが鳴った。
真夜からだった。
「もしもし! うん、……今? ……えっと」
「連れか?」
日和がキョロキョロと周りを見渡しているのを見て、赤髪男子が訊いた。
日和は、無言で頷いた。
「もう学校に着くから、落ち合いたいのなら、学校の正門で待ってるように言っておきな」
赤髪男子の言葉を真夜に伝えて、電話を切り、再び、赤髪男子の跡をついて行くと、煉瓦作りの建物と、ガラス張りのような斬新なデザインの真新しい建物が並んで見えてきた。
「ほれ! あれが耶麻臺学園だよ。連れは正門で待っているのか?」
日和は、こくりと頷いた。
煉瓦作りの立派な門柱の前に立っていた真夜が、日和を見つけると走り寄って来た。
「おひい様! ご無事でしたか?」
「うん。こちらの方に助けていただいたのじゃ」
真夜が赤髪男子に頭を下げた。
「おひい様がお世話になりました。ありがとうございます」
丁寧にお辞儀をした真夜の顔を、赤髪男子が見とれていた。
「お前も初めて見る顔だな。お前も転校生なのか?」
「はい。梨芽真夜と申します」
「ほ~う。真夜か」
赤髪男子は、真夜を呼び捨てにした上、真夜に近づき、その肩に手を置いた。
「俺は、神術学科二年壱組の蘇我夏火って言うんだ。仲良くしようぜ」
「この手は何だ?」
真夜が厳しい目付きで、自分の肩に置かれた夏火の手を見た。
「何だって、親愛の情が溢れてしまったのさ」
「今日、初めて会って、いきなりか?」
「これは、きっと、運命の出会いに違いないぜ」
「そんな運命であれば、へし折ってくれよう」
真夜が肩に置かれていた夏火の手首を握ったと思うと、次の瞬間には、夏火の体が宙を舞っていた。
しかし、夏火も慌てることなく、猫のように体を回転させながら、ふわりと着地した。
「危ねえな! いきなり、何しやがる! このギターは高いんだぞ!」
「そんな高価な物を持って、いきなり、拙者の体に触るからだ!」
「へへっ、面白い女だな! 何年生だ?」
「二年だ」
「へえ~、どのクラスに編入するんだ?」
「まだ分からぬ」
「そうか。壱組に入って来いよ」
「ふんっ! 蘇我夏火と言ったな? 四臣家の蘇我家の息子か?」
四臣家にも多くの分家があったが、その宗家のみが「四臣家」を名乗ることができた。
「ああ、俺の家は、そんなに呼ばれていたな。もっとも、俺は、まったく興味は無いが」
「こんな無礼な男は、おひい様には相応しくない。既に一人脱落か」
「えっ、何だって?」
「独り言だ!」
真夜は、夏火と真夜のやり取りを、ぽかんとした顔で見ていた日和の側に寄った。
「おひい様、参りましょう」
真夜は、まだ何か言いたげな夏火に背を向けると、日和の手を引いて、校門を入って行った