第二十六帖 姫様、体育祭で転ぶ!
暦は五月。
五月晴れの出番を終えた太陽がビルの谷間に沈もうかとしている夕暮れ。
部活を終えた日和は、いつもどおり、真夜と一緒に公園までの道を歩いていた。
「真夜」
「何でございますか?」
「どうして、学校には体育祭などという無粋な行事があるのじゃ?」
「日頃、勉強ばかりの生徒も、たまには体を動かして健康になるためでございますよ。それに、クラスの団結力を高めることもできますぞ」
「真夜のように運動神経抜群じゃと良いのじゃ。わらわは運動が苦手なのじゃ!」
「そんなに力説されなくても存じております」
「真夜」
「はい?」
「その日だけ休んだら駄目かのう?」
「駄目です!」
「……にべも無いの」
「苦手だからといって、逃げていては何もできませんぞ」
真夜が言うことは、いちいち正論であった。
「……その日、急にお腹が痛くなることもあるかもしれぬの?」
「急病であれば、仕方がございませんね」
「そうであろう? うんうん」
「おひい様、急病というのは、その日、突然、起きる病気のことを言うのですよ」
「し、知っておる!」
「おひい様は、ここ五年ほど、風邪もひいたことの無い健康体であらせられます。その日、ピンポイントで病気になることは、まず、無いでしょう。拙者もおひい様の健康管理には万全をきたしますゆえご安心ください」
「……」
手のうちを晒してしまったことを悔やむ日和であった。
私立耶麻臺学園高等部の体育祭は、神術学科と普通科すべての生徒が合同チームを作って行う行事であった。
しかし、神術学科一学年三クラスと普通科一学年九クラス、三学年を併せると、三十六クラスというマンモス校である耶麻臺学園高等部の体育祭では、全員参加の種目は無く、神術学科二年生は、選抜リレー、ムカデ競争、玉入れ、大玉転がし、百メートル走のいずれかの二種目に出場することになっていた。
二年壱組の教室でも、クラス委員の秋土が司会をして、クラス全員の参加種目を決めていた。
「事前に、みんなに希望を書いてもらったけど、選抜リレーと百メートル走の二つは希望者が少なくて、逆に他の三つの種目の希望者が多くて、余っている状態なんだ。話し合いで決めるか、くじ引きで決めるかだけど?」
「どうせ、みんな、リレーなんて希望しないんだろ? くじ引きにしようぜ!」
夏火が大きな声で意見を述べたが、反対意見は出なかった。
日和は、玉入れと大玉転がしという、もっとも楽そうな種目に立候補していたが、くじ引きの結果、玉入れから外れてしまった。
「日和ちゃんは、リレーと百メートル走のどっちが良い?」
みんなに迷惑が掛かるリレーなんてとんでもないと、日和は百メートル走を選んだが、みんな考えることは同じようで、今度は、百メートル走の出場者が余ってしまった。
また、くじを引くと、日和は当たってしまって――ハズレたと言った方が良いのかもしれないが――リレーに出ることになった。
リレーに出るのは男子と女子とを問わず五人で、秋土だけが最初から出場を希望していたが、くじ引きの結果、四臣家の息子達も全員出場することになった。
「わらわは、足がすごく遅いのじゃ! きっと、みんなに迷惑を掛けるのじゃ!」
クラス全体での会議が終わって、自分の席に戻った秋土を含め、リレー仲間となった四臣家の四人に、日和は、往生際悪く、必死で弁明した。
「確かに、日和は足が遅かったな。歩くだけでもあれだけ遅いんだからな」
「そうなのじゃ! 夏火さんの確認済みなのじゃ!」
「日和ちゃん、気にすることは無いよ。誰だって得手不得手があるんだからさ。それに、体育祭なんて、クラブと違って、みんなと一緒に頑張ることに意味があるんだよ。日和ちゃんが一生懸命走ってくれたら、順位なんて関係無いよ」
秋土にそう言われると、それ以上、反論できない日和であった。
「卑弥埜もそうかもしれんが、自分もそんなに速くは走れないぞ」
「私も秋土や夏火みたいには走れないですね」
冬木と春水もあらかじめ言い訳をした。
「それに、日和もいるんだから、今年は、入賞は無理だろ」
「夏火! 最初から諦めてどうするんだよ!」
「おいおい、秋土! このメンバーで入賞を目指すつもりかよ?」
「だから! 一生懸命走ることに意義があるんだよ!」
「まったく! 秋土は、いつも熱すぎだっての!」
「それで、走る順番はどうするんだ?」
秋土とは対照的に冷静な冬木が訊いた。
「秋土がアンカーで良いだろ?」
「走る順番もくじで決めようよ」
「何で?」
「それが一番公平だろ?」
「結局、秋土も諦めているんじゃねえの?」
「だから違うって!」
「まあまあ、夏火だって、順番をくじで決めること自体は反対ではないのでしょう?」
「ああ」
春水の仲裁案に夏火も賛成した。
「じゃあ、そうしましょう。私も異議はありません」
「自分もだ」
四人全員が疾走順番もくじで決めることに異論を挟まなかった。
「日和ちゃんも良い?」
良いかと訊かれて、今更、一人反対できるはずもなく、日和は無言で頷いた。
阿弥陀くじの結果、春水が一番、夏火が二番、冬木が三番、秋土が四番、日和がアンカーになった。
最悪の結果に、日和はしばらく放心状態になっていた。
「せっかく、みんなが頑張ってくれても、わらわが台無しにしてしまうのじゃ!」
「日和! もう諦めろって!」
「うちのチームが最下位になったとしても、それは、日和さんのせいではありませんよ」
「そうだな。卑弥埜がどれだけ遅く走っても追いつかれないくらいに、相手チームと差をつけることができなければ、我々のせいだということだ」
「そうだね。でも、日和ちゃん」
日和は、秋土を見つめた。
「諦めずに最後まで走るって約束をして」
「えっ?」
「テニスだって、と言うよりスポーツ全般に言えることだけど、最後まで諦めないってことが大切なんだ。どれだけ相手と差を付けられてしまったとしても、最後まで正々堂々と競技をしようよ」
「わ、分かったのじゃ」
秋土が言っていることが、ひょっとしたら、今の自分に一番足りてないところかもしれないと思った日和は、みんなに完走を誓った。
体育祭の日。
万国旗が張り巡らされた校庭には、爽やかな五月晴れの明るい光が降り注いでいた。
多くの父兄が参観に来ていたが、伊与は、どうしてもはずせない用事があって来ることができなかった。
四臣家のイケメン四人を見たさに体育祭に行くと、真夜にごねていたが、結局、真夜に諭されて、卑弥埜家当主としての仕事を優先させることになったのだ。
体育祭は、三チームの対抗戦であった。
各学年普通科の一から三組、そして神術学科の壱組が赤組、普通科の四から六組、神術学科の弐組が白組、普通科の七から九組、神術学科参組が青組であった。
体操着に着替えて、校庭に作られた各チームごとの席に行った日和は、真夜はもちろん、手芸部のみんなとも別チームで、話ができる人もいなかったことから、自然と四臣家の四人の近くに座った。
長い金髪を耳の上で二つの団子巻きにした日和を見た四人は、日和に見とれていた。
「日和ちゃん、その髪型、可愛いね!」
「まるで、中国娘みたいですね」
「走る邪魔にならないようにと、真夜がしてくれたのじゃ」
「卑弥埜! のんびり座っていて良いのか? 大玉転がしは二番目の種目で、選手はもう集まっているようだぞ」
冬木が言うとおり、神術学科二年生の出場選手が入場ゲートの近くに集合していた。
「あっ! そうじゃった! い、行ってくるのじゃ!」
「ったく! どんだけ、のんびり屋なんだ!」
集合に遅れて、最初から焦った日和が、大玉の下敷きになったことは言うまでもない。
プログラムは順調に進んで、いよいよ、神術学科各学年別選抜リレーが始まり、一年生が終わると、二年生の番となった。
各自、校庭に引かれた二百メートルのトラックを一周してバトンを渡す種目で、三チームが揃って、スタートラインの近くに体育座りをした。
日和の心臓は爆発寸前であった。
これまで、体育の時間に、五人でバトンの受け渡しの練習をして、実際に二百メートルを走ってみたが、最後の方は息が切れてしまって、いつも苦しくなってしまっていた。
本番だと、もっと気が焦ってしまって息が苦しくなるかもしれず、最後まで走れる自信が次第に無くなってきた日和は、ため息を吐いて、立てた両膝に頭を付けた。
そんな日和の様子に気がついたのか、四番走者で日和のすぐ前に座っていた秋土が振り返り、日和に声を掛けた。
「日和ちゃん」
日和が顔を上げると、秋土の優しい微笑みが、少しだけ心を落ち着かせてくれた。
「日和ちゃんが僕の手のひらに書いてくれた『笑』という字を、今度は、僕が日和ちゃんにプレゼントするよ」
「えっ?」
「一番、最後になったって、僕らは、日和ちゃんを笑って迎えるからさ。ゴールをしたら、一緒に笑おう!」
「秋土さん」
秋土は、にっこりと笑うと前を向いた。
一番走者が立ち上がり、スタートラインに着いた。赤組の一番走者は春水だった。
号砲が鳴り、一斉にスタートをした。
春水も「そんなに速くは走れない」と言っていた割には、他のランナーとほぼ互角の勝負をしていた。
春水が走るコースの先には、女生徒が多く陣取っており、敵チームの生徒も数多くいた。その黄色い歓声を浴びながら、春水は、その長い足をカモシカのように蹴り出してトラックを走り抜け、トップとは少しの差の二位で、バトンを夏火に渡した。
夏火は、部屋の中で音楽ばかりをしているイメージがあるが、意外と足が速く、あっという間にトップに躍り出ると、二位との差をどんどんと広げていった。最後には、二位の走者を十メートル以上引き離して、バトンを冬木に渡した。
冬木も、普段、運動はそれほどしていないはずだが、体格的には恵まれており、苦手という割には遅くはなく、二位の走者との距離を縮められたが抜かれることなく、一位を死守して、バトンを秋土に渡した。
冬木からバトンを受け取った秋土は、そのサラサラの清潔感ある茶色の髪を風になびかせながら、驚異的な速さを見せつけて、二位以下を置き去りにするかのようにトラックを走り抜けた。二位との差はトラック半周ほどまで広がった。
そんな状況に、日和はびびりまくっていた。
スタートラインに立った日和の足は震えていた。
第四コーナーを回って、秋土がバトンを差し出しながら走って来た。
前を向いて、助走をし始めた日和が後ろに伸ばしていた右手に綺麗にバトンが収まった。
日和は走った。自分の精一杯の速さで。
すぐに後ろから足音が迫って来ているのが分かった。
後ろを振り返ることが怖くて、真っ直ぐ前を向いて走った。
横に背の高い男子が並んだと思うと、すぐに追い抜いて行ってしまった。
その後ろ姿がどんどんと小さくなっている間に、また、後ろから足音が聞こえた。
(また、抜かれちゃう!)
焦った日和の足が少しもつれた。
――!
気がつくと、日和は地面に俯せに倒れていた。
すぐに起き上がろうとしたが、右膝に痛みを感じた。
見てみると、擦りむけて血が流れていた。
それでも、日和は立ち上がり、数歩、右足を引きずりながら走ったが、また、つまづくようにして倒れた。
(やっぱり、無理なのじゃ)
俯せに倒れたまま、日和は思った。このまま、ここに倒れていると、心配した先生が駈け寄って来て、助けてくれるはずだと。
「日和ちゃん! 頑張れ!」
秋土の声が近くで聞こえた。
倒れたまま、首をトラックの内側に向けると、秋土がいた。
「もう少しだよ! 最後まで諦めちゃ駄目だ!」
日和は上半身を起こして見ると、秋土の側に、春水、夏火、冬木が走り寄って来ているのが見えた。
「日和! 何、ぼんやりしてるんだよ! 最後まで走るって約束しただろうが!」
「日和さん! 残念ながら助けて一緒に走ることはできませんが、日和さんなら、ゴールまで走れるはずですよ!」
「卑弥埜! 時速六キロで小走りに走っても、三十秒ほどでゴールだ。ほんの少しの頑張りだ!」
思ってもいなかった、四人の激励を受けて、日和は無意識に立ち上がった。
(みんなが渡してくれたバトンをゴールさせないと!)
もう、そのことだけが頭にあった。
ほとんど歩くほどの速さであったが、日和は、右足を引きずりながらも一生懸命走った。
「頑張れー!」
「もうちょっと! もうちょっとだよ!」
赤組だけではなく、白組や青組の席からも声援が届いた。校庭が、日和の応援コールと拍手で埋まった。
日和は、溢れ出てくる涙を拭うことも忘れ、歯を食いしばって、前に進んだ。
トラックの内側を、春水、夏火、秋土、冬木の四人が声を掛けながら一緒に進んでくれた。
次第に右膝が曲がらなくなってきたが、痛みは感じなくなっていた。
目の前に、ゴールのテープが見えた。
最後は、転ぶようにして、ゴールのテープを切ると、校庭中が大歓声に包まれた。
「日和ちゃん!」
「日和!」
「日和さん!」
「卑弥埜!」
四人が倒れている日和に近づいた。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫なのじゃ」
上半身を起こして、日和は言った。
「僕が保健室までおんぶしていくよ」
「俺が連れて行く!」
「私なら応急処置もできます」
「自分は、たまたま保健室に用事があるから、一緒に行こう」
「何の用事だ?」
誰が日和を保健室に連れているかを四人が言い争っている間に、真夜が日和をさっさとお姫様抱っこしてしまった。
「拙者が連れて参ります。皆様の応援に感謝いたします」
日和を抱っこして新校舎に歩き出した真夜が日和に優しい笑顔を見せた。
「おひい様、よく頑張られました」
握った手で涙を拭った日和の顔は手に付いていた砂にまみれてしまったが、止めどなく流れる涙は、その砂を洗い流していった。
「みんなのお陰じゃ」
「そうですね」
「真夜」
「はい?」
「あの四人は、わらわの大切な友達じゃ! 四人とも大好きじゃ!」




