第十九帖 姫様、恋の辛さを知る!
朝、病院から抜け出した日和と真夜は、一旦、家に帰り、仮眠をする暇も無く、再び学校に行った。
日和が教室に入ると、同じように朝帰りの秋土は、もう席に着いていた。
「おはよう、日和ちゃん!」
「おはようなのじゃ! 何か変な感じじゃな。さっきまで会っていたのに」
「そうだね、一夜をともにしたんだもんね」
「へ、変な誤解を受けるようなことは言わないでたもれ!」
「ははははは、ごめん、ごめん。でも、日和ちゃんは疲れてない?」
「う、うん。少し眠いのじゃ。秋土さん、授業中に居眠りしていたら起こしてたもれ」
「その疲れの元を作ってしまった僕としては、今日は、日和ちゃんが居眠りしてても、そのまま、ゆっくり寝させてあげたいな」
「じゃ、じゃあ、ばれないように、こっそりと寝るのじゃ」
「ははは、僕も協力してあげるよ」
秋土と他愛ない話をしていると、春水が教室に入って来た。
挨拶を交わして、日和の左隣の席に着いた春水は、すぐに日和の方を向いた。
「日和さん」
「何じゃろ?」
「以前、言っていた絵のモデルの件ですが」
「あ、あの、……できれば、辞退をしたいのじゃが」
「私としては、ぜひ、お願いをしたいのです。実は、来月には全国の高校生美術祭の応募が始まります。それに応募する作品を、そろそろ描きたいと思っているのです」
「日和ちゃんをその絵のモデルにしたいというのかい?」
日和越しに、秋土が訊いた。
「ええっ! 今、自分が描きたい人物を描くことによって、創作のモチベーションも上がりますし、せっかくなら、自分も楽しく描きたいではないですか」
「どうして、春水は、日和ちゃんをそんなに描きたいの?」
日和の疑問を代弁してくれているかのような秋土だった。
「日和さんを見ていると、何だか心がほっこりするような感じもしますし、逆に、心がときめくような感覚も覚えるのです。不思議ですよね。今まで感じたことのない、この感覚を絵にしてみたいのです」
「ああ、何となく分かるな。日和ちゃんは、今まで会ったことのない女の子って感じがするもんね」
「そうですよね」
秋土から視線を日和に戻した春水が頭を下げた。
「日和さん、お願いできないでしょうか?」
日和は、麗華と約束したこともあり、春水と特別な関係であるような疑いを持たれる行動は慎みたかったが、春水に頭を下げられると、引き受けないと申し訳ない気持ちになってしまった。
(でも、麗華さんとのことを曖昧にしたままで引き受けることはできないのじゃ)
麗華の話を秋土に聞かれることを春水は望んでいないかもしれないが、春水と二人きりで話をすると、また、変な誤解を受けそうな気がした日和は、勇気を出して、今、麗華のことを訊くことにした。
「春水さん、二年参組の橘麗華さんのことなのじゃが」
その名前を聞くと、春水の顔が曇った。
「麗華さんから何か言われたのですか?」
「あ、あの、その……、春水さんの許嫁じゃと」
「え~っ!」
日和の背中で秋土が声を上げた。
「春水! まだ、続いてたの?」
「そんな訳ないでしょう」
ため息を吐きながら、春水が秋土に言った。
「まあ、そうだよな」
秋土は、すんなりと春水の言葉に納得していた。
「あ、あの、違うのか?」
「違います」
話し方は普段どおりだったが、春水の顔は明らかに不機嫌であった。
「でも、麗華さんは、ちゃんと言ったのじゃが?」
「嘘です!」
「えっ?」
少し大きな声を出した春水は、すぐに目を伏せてしまったが、しばらくして顔を上げた。
「すみません。嘘と言うのは、新たな誤解を生むかも知れませんね。日和さんには、ちゃんと、正確にお話をします」
日和は、こくりと頷いた。
「確かに、私と麗華さんは許嫁とされていました」
「されていた?」
「そうです。私が、まだ小学生だった頃、私が知らない間に、私の家と麗華さんの家が取り決めをして、私と麗華さんが大学を出たら、結婚をさせようという約束をしたらしいのです」
「……」
「どうして、そんな話が出たのか分かりませんが、兎にも角にも、それは家同士の約束にすぎません。中等部に進級して、その話を初めて聞いた私は、その約束を取り消してもらいました」
「取り消したのか?」
「はい。そのことは、私の親も橘家の方も納得していただいているはずです。もちろん、麗華さんも同席の上でです」
麗華は自信満々で春水の許嫁だと言った。嘘を吐いているようには思えなかった。と言うことは……。
「春水さん。麗華さんは、その婚約取り消しの話を納得していないのではないのじゃろうか?」
「いえ、その話し合いの席上で、麗華さんも頷いていました」
自分は納得していなくても、周りの空気から、自分が引き下がれば場が丸く収まると感じたら、自分も黙って頷くかもしれないと、日和は思った。
「麗華さんは、春水さんが婚約を破棄したことを素直に受け入れることができていないと思うのじゃ。何かの間違いかもしれぬとか、ひょっとしたら、春水さんの本心ではないのではないかと思うているのかもしれぬ」
「……」
「春水さん。麗華さんともう一度、ちゃんと話をしてあげてほしいのじゃ」
「……日和さんが絵のモデルを辞退したいとおっしゃるのも、麗華さんのことを思って?」
「わらわは、麗華さんが誤解するようなことをしないと約束したのじゃ」
「……日和さん。日和さんを混乱させてしまったことを謝ります。申し訳ありませんでした」
春水が日和に頭を下げた。
「いや、春水さんが悪い訳ではないのじゃ」
「日和さんの言うとおり、もう一度、彼女と話をいたします。ちゃんと誤解を解いた上でないと、私は、日和さんと話をする資格すらありませんから」
「わらわと話をするのに資格などいらぬ」
「……ありがとうございます」
その後、春水は前を向いて、日和の方を見ることはなかった。
しばらくすると、夏火と冬木が揃ってやって来た。
いつもどおり、春水も挨拶をしたが、すぐに席を立って、教室を出て行った。
「春水はどうしたんだ?」
四人の中では一番物静かであったが、最近、恒例になっている、日和を挟んでの馬鹿話の輪には、いつも加わる春水が逃げ去るように席を立ったことに、夏火と冬木もおかしいと感じたようだ。
「日和ちゃん、今の話を二人にしても良いかい?」
秋土が日和の顔を見ながら訊いてきた。
「この四人は、昔から隠し立てをしないで、つき合ってきたんだ。春水もそのことは知っていることだし」
「わ、分かったのじゃ」
秋土が麗華の話を夏火と冬木にした。
「婚約解消の話は、みんな、知っていたんじゃ」
「さっき、秋土が言ったとおり、春水も俺達にちゃんと話してくれたからな」と夏火。
「とっくに終わったことだと思っていたのだが」
冬木も不思議そうな顔をしていた。
「麗華さんは、きっと、春水さんのことが、まだ好きなのじゃ。その気持ちを一方的に否定されたら可哀想なのじゃ」
恋愛の経験も無い日和は、当然、失恋の経験も無かったが、幼き頃から将来の結婚相手だと言われ続けて、結ばれる日をずっと夢見てきた気持ちは、婚約が一方的に白紙に戻されたとしても、そんなに簡単に消え去るとは思えなかった。
「日和の言うことも分かるけどさ、春水の気持ちを無視して恋人面するのはどうかと思うぜ」
「そ、それはそうじゃが……」
「スプリングウォーターズは橘が作ったことは知っていたが、普通科の女子からの希望を受けて作ったものだと思っていた。しかし、橘が、まだ春水の許嫁などと言っているところからすると、既成事実を作ろうとしていたのかもしれないな」
冬木の言葉に、夏火が続けた。
「おそらく、事情を知らない普通科の女子達に、自分が春水の許嫁だと言いふらして、虚栄心を満たしていたんじゃねえか?」
夏火、秋土、そして冬木の三人は、麗華が一方的に悪いかのように話していたが、日和は、麗華の辛い気持ちが伝わってきたようで、何となく憂鬱な気分になってしまった。
その日、春水は、ずっと、日和に話し掛けてこなかった。
麗華との関係を自分の中でケリを付けるまでは、日和とは話をしないと決めているようであった。
そして、三時間目が終わった後の休憩時間。
春水と夏火、秋土が席を立って、日和の周りには冬木だけがいた。
後ろを振り向いて、三人がいないことを確認した冬木が日和に話し掛けた。
「卑弥埜にお願いがあるのだが?」
文庫本を読んでいた日和が頭を上げて冬木を見ると、いつも冷静沈着な冬木も少し緊張しているように見えた。
「な、何じゃろ?」
「今度の日曜日、暇か?」
「えっ?」
今度の日曜日は、夏火のライブと秋土の試合がある日だった。
日和は、まだ、真夜にも話していなかったが、できれば、両方、行こうかと考えていた。
「えっと、ちょっと用事があるのじゃが」
「一日中か?」
「いや、そう言う訳ではないが」
「一時間ほど、自分につき合ってもらえないか?」
「な、何じゃろ?」
つき合ってほしいという台詞に、少し身構えてしまった。
「前に言っていた神術の科学的解明の実験に参加してほしいのだ」
「実験?」
「うむ。普通科の部員がいない日曜日にやりたいのだ」
「どんなことをするのじゃ?」
「神術測定の時と同じように、太陽の神術を少しだけ発動してもらうだけだ。卑弥埜の負担が大きいというのであれば諦めるが……」
「あの程度であれば何ほどのことはないが……、どこでするのじゃろう?」
「科学部の部室でやる。二人以外の邪魔が入らないようにな」
「そ、それは、部室の中に二人だけになると言うことか?」
「そうなるな」
「えっと……」
恥ずかしくて顔を真っ赤にしている日和を見て、冬木も自分の発言の意味をやっと理解したようだった。
「い、いや、他意は無い! 自分は卑弥埜に変なことなどしない!」
汗をかきながら狼狽えた冬木が少しおかしくて、日和はくすりと笑ってしまった。
「わ、分かったのじゃ。真夜とも相談するから、答えはそれからでも良いじゃろうか?」
「梨芽も一緒に来るのか?」
「だ、駄目か?」
「い、いや、むしろ、そっちの方が自分も変な気遣いをしなくて良いから楽かもしれん」
「変な気遣いって?」
「き、気にするな」
冬木は、額の汗をハンカチで拭いつつ、前を向いた。
その日のお昼休み。
日和は、今日も中庭のベンチに真夜と並んで座り、一緒にお弁当を食べた。
「真夜」
「何でございますか?」
「今度の日曜日、出掛けたいのじゃが、真夜もつき合ってもらえまいか?」
真夜は、目を見開いて日和を見つめていた。
「な、何じゃ! その目は?」
「し、失礼いたしました。おひい様から『出掛けたい』という言葉が聞けるとは思ってもいなかったものですから」
確かに、学校に行くようになるまで、ずっと、家に引き籠もっていて、外に出掛けることなど皆無だったから、真夜の驚きも当然と言えば当然だった。
「それにしても驚きすぎじゃ!」
「若干、誇張はいたしました。それで、どちらに?」
日和は、夏火のライブ、秋土の試合、そして、冬木の実験のことを話した。
「その全部に行かれるのですか?」
「だって、真夜が一緒に行けたら行くと約束してしもうたのじゃ」
「やれやれですね。それで、どこで何時にあるのですか?」
夏火のライブは学校近くの商店街で午後七時から、秋土のテニスの試合は隣の区のスポーツ施設で午後一時から、冬木の実験は学校で時間未定であった。
「冬木殿の実験を午前中にしていただいて、午後一時から秋土殿の試合、そして午後七時から夏火殿のライブと回れば、十分、余裕はございますね」
「そうじゃろ? 真夜はいかがじゃ?」
「大丈夫でございますよ。せっかく、おひい様が行く気になっているのですから、拙者も積極的に応援いたします」
「すまぬのじゃ、真夜」
「いえ、……おや、あれは春水殿と橘麗華ですな」
日和が、真夜の視線の先を追い掛けると、日和達に背を向けて、春水と麗華が並んで歩いているのが見えた。
無言で歩く二人の背中には緊張感が漂っていた。
「やはり、二人は許嫁としての間柄が続いていたのでしょうか?」
日和は、春水と麗華との間で、ちゃんと結論が出てからでも遅くないと思って、今朝の話は、まだ、真夜にはしていなかった。
日和が二人を目で追い掛けていると、二人は中庭の隅っこのフェンスの前で立ち止まり、向かい合った。
二人に注目しているのは、日和達だけではなかった。
スプリングウォーターズのメンバーだと思われる女生徒の何人かが、少し離れた場所から二人を見つめていた。
日和の所からは、当然、話し声は聞こえなかったが、春水が真剣な表情で麗華に話をしており、麗華は、少し俯き加減のまま、黙って話を聞いているようだった。
しばらくすると、麗華が顔を上げ、春水に話し出した。春水もそれに答えるように話していた。
しばらく、やり取りが続いた後、麗華が春水に一礼すると回れ右をして、春水から離れていった。
一方の、春水も安心したような表情を浮かべて、旧校舎の方に去って行った。
日和の所から麗華の顔が見えたが、意外にも笑顔だった。
麗華がそのままスプリングウォーターズと思われる女生徒の所に行くと、女生徒達は麗華を取り囲んで、くちぐちに話し掛けていたが、麗華は、それにも笑顔で応えていた。
麗華は、そのまま女生徒達を従えながら、新校舎の方に歩き出したが、日和に気がついたようで、向きを変えて近づいて来た。
日和と真夜もベンチから立って、麗華を迎えた。
「卑弥埜様」
麗華の顔は穏やかそうに見えた。
「卑弥埜様をモデルに絵を描きたいということを、春水様から聞きました。ぜひ、モデルになって差し上げてください」
「よ、良いのか?」
「はい。春水様には素晴らしい絵を描いてほしいと思っていますから」
「分かったのじゃ。その件については、春水さんとまた話をするのじゃ。それより、春水さんと話をして、麗華さんは納得できたのじゃろうか?」
「納得するも何も、話は以前から何も変わっていませんわ。確かに、家同士の再度の話し合いで、婚約は解消されましたけど、ワタクシの気持ちは何ら変わっていません」
「春水さんにも、麗華さんの気持ちは伝えたのじゃな?」
「はい。ワタクシは、自分の気持ちを改めて春水様にお伝えしました。ワタクシは、まだ、春水様の許嫁であるという気持ちのままだと」
「春水さんは何と?」
「ワタクシが春水様を想う気持ちに蓋などできないとおっしゃっていただきました。ただ、卑弥埜様や春水様と関わりを持った方に迷惑を掛けることだけは謹んでほしいと言われました」
「……」
「だから、以前、卑弥埜様にご迷惑をお掛けしたことをお詫びいたします」
麗華が日和に頭を下げた。
「いや、わらわは気にしてはおらぬ」
「ありがとうございます。卑弥埜様、これからもよろしくお願いいたします」
「こちらこそじゃ」
麗華は、にっこりと笑うと、女生徒達を引き連れて去って行った。
「おひい様、いったい、どう言うことでございますか?」
事情を知らない真夜が訊いた。
「春水さんと麗華さんの婚約の話は既に解消されていたそうじゃ。でも、麗華さんは、今でも、春水さんが好きで、そんなに想うことすら駄目じゃとは、春水さんも言わなかったということじゃ」
「なるほど。迷惑を掛けないのであれば、誰を好きになろうと勝手ですからな」
日和は、麗華の姿が新校舎の中に消えていくまで、その背中を見つめていた。
「真夜」
「何でございましょう?」
「人を好きになるということは辛いこともあるのじゃなあ」
「むしろ辛いことの方が多いのかもしれませぬぞ」
「そうなのじゃろうか? わらわはよく分からぬ」
「おひい様には、辛い恋などしてほしくありませんから分からなくて良いのです」
日和のことを想い、自らの体を傷付けた真夜は、自分を納得させるかのように言った。




