第一帖 姫様、学校に行くことになる!
大きな三日月が雲の隙間にぽっかりと浮かぶ春の夜。
その月の光で明るく照らされている寝殿造りの屋敷の庭に面した廊下に、少女が一人、姿勢良く正座していた。
白い小袖に緋袴という巫女装束を身にまとい、微かな夜風に長い黒髪をそよがせていた少女の漆黒の瞳は、どこまでも澄み渡っており、その整った顔立ちは日本人形のようであった。
「真夜! 真夜はおるか?」
しゃがれた声で呼ばれた少女は、座ったまま、静かに障子を開け、部屋に入った。
その場で振り返り、行儀良く、障子を閉めると、部屋の奥に進み出て、正座をした。
「ここに!」
真夜は、サラサラの黒髪を畳に広げながら、三つ指をついて座礼をした。
「面を上げよ!」
真夜が頭を上げて見つめる先には、留め袖を着て、白髪をアップにして簪で留めている小柄な老婆が座っていた。
「日和は何をしておる?」
「お部屋におりまする」
「部屋で何をしておるのじゃ?」
「今宵は、……パッチワークなどをされているかと」
「また、手芸か? 昨日は、ずっと、ビーズでアクセサリー作りをしておったらしいではないか?」
「は、はい。おひい様のお作りになる作品は、どれも素晴らしい物ばかりでございます!」
「日和は、手芸教室の先生にでもなるつもりなのか?」
「さ、さあ」
「『さあ』ではない! 真夜! お主は、日和に少し甘いのではないか?」
「い、いえ、けっして、そのようなことは……」
老婆の厳しい視線が真夜に注がれた。
「日和は、卑弥埜家のたった一人の跡取り娘。儂にもしものことがあれば、日和が卑弥埜家の当主になる身なのじゃ。日和には、将来の女帝としての素養を早く身に付けさせなければならぬ! そして、一刻も早く、婿を取り、跡取りの顔を見せてもらいたいのじゃ!」
「伊与様! おひい様は、まだ十六歳でございます。婿取りなど、まだ早すぎまする!」
「日和の性格が、ああだから心配しておるのじゃ! お主は、いつかは、日和が自分でボーイフレンドを連れて来ると思っておるのか?」
「い、いえ、それは、……無理かと」
「で、あろう? それもこれも、ずっと、人見知りで引き籠もってばかりだったからじゃ」
この手の話は、これまで、耳にタコができるくらい聞いていた真夜は、いつもどおり、伊与に逆らうことなく、嵐が過ぎ去るのを待つことにした。
「は、はあ。そうでございますね」
「跡取りは、学校にやらずに、家庭教師を付けて勉強をさせるというのが、卑弥埜家の伝統じゃったから、日和もそうさせたが、儂などは、家に引き籠もってばかりだと息が詰まってしもうて、よく家を抜け出しては遊びに行ったり、同じくらいの年代の子供達に遊びに来てもらったりしたものじゃ。日和は、よく、そんな気持ちにならぬものよのう」
「伊与様もよく街に行かれていたのですか?」
「うむ。毎日のようにの」
「……いつ勉強されていたのですか?」
「い、一応、勉強を済ませてから、街に出ておったのじゃ!」
「亡きご主人様とも、その時に?」
「そうじゃ! その頃、あの人は公道レーサーをしておっての。前髪をおっ立てて、サングラスに黒の革ジャンの上下で決めて、原チャリを乗り回しておった。あの人の姿は、初めて見た時から輝いておったわ」
伊与は、頬を染めて、遠くを見つめていた
「す、素敵でございます」
「儂もその頃は、すれ違う男すべてを恋に陥らせる『ノックアウト天使』と呼ばれていての」
「ノックアウト……。ナ、ナイスなネーミングでございますね」
「そうであろう? 言い寄ってくる男どもをかき分けながらでないと、前に進めなかったくらいじゃ」
「その頃のお美しい伊与様の写真を見てみとうございます」
「おお! そうか、そうか! しかし、……どこに仕舞ったかのう?」
伊与は、立ち上がり、部屋の奥にある箪笥の引き出しをあちこちと開け閉めしながら、写真を探しだした。
「伊与様。お時間が掛かるようですので、また、のちほど参ります。ゆっくりとお探しくださいませ」
「すぐに出てくると思うのじゃが。……って、こら!」
このまま部屋を出て行こうと立ち上がった真夜は、観念して座り直した。
「儂のことは、どうでも良いのじゃ!」
「伊与様が勝手に話されたのです」
「と、とにかく! 日和は、これまで男と話したことすらないのではないか?」
「小さな頃を除けばですが」
「そ、そうじゃったな。しかし、年頃になってからはあるまい?」
「それは、そうです。このお屋敷から出たことはないのですから」
「で、あろう? そこでじゃ、儂に考えがあるのじゃ!」
「はい?」
真夜は、重い足取りで、庭に面した廊下をぐるりと半周して、日和の部屋の前までやって来た。
大きくため息を吐き、覚悟を決めたように頷くと、廊下に正座し、障子に向かって声を掛けた。
「おひい様。真夜でございます。お話がございます」
「入りなさい」
小さくて、聞き取りづらい声であったが、十年以上、この声を聞いている真夜には、しっかりと聞こえた。
真夜が静かに障子を開けると、ピンク色のカーデガンを羽織り、レモンイエローのミニスカートに、フリルが付いたピンク色のアンクレットソックスを素足に履いた小柄な少女が、背中を見せて座卓に正座し、何か、一生懸命に作業をしているようだった。
真夜は、その女の子の後ろまで進み、姿勢良く座った。
日本の歴史と言って良いくらい、古来から続く由緒正しき一族なのに、今、真夜の目の前に座っている女の子の腰まである、毛先に少しウェーブの掛かった髪は、眩しいばかりの金髪だった。
真夜は、少女の作業が一段落するまで待とうと、部屋の中を見渡した。
部屋の中には、ビーズで作ったアクセサリーを付けている大小のぬいぐるみが壁を背にいくつも座っており、その壁には、キルトパッチワークのタペストリーが何枚も掛けられていた。
真夜が少女に視線を戻したが、少女は作業を止める気配を見せなかった。
「おひい様」
「何じゃ?」
「お話があると申しました。こちらを向いていただけませんか?」
「今、大事なところなのじゃ。このまま、聞くので、話してたもれ」
「はあ~、分かりました」
真夜は、座ったまま、女の子のすぐ近くまですり寄った。
「おひい様。伊与様からの伝言でございます」
「お婆様から?」
「はい。明日より学校に行きまする」
「学校とは何じゃ?」
「子供が勉強をするために通っている所でございます」
「ふ~ん。真夜がどうして、その学校とやらに行くのじゃ?」
「拙者も参りますが、おひい様も行くのですぞ」
「わらわが?」
「そうです」
「ふ~ん。………………えっ?」
少女が振り返り、真夜の顔を見た。
眉の上で切り揃えられた前髪の下には、長い睫毛に縁取られた大きな目に漆黒の瞳が輝いており、ぽかんと開けっ放しの口の左からは、牙のような八重歯がのぞいていた。
(昔から、全然、変わってない)
真夜が、日和に初めて会ったのは、お互いに五歳の時だった。その時から、日和の雰囲気はまったく変わっておらず、今度、誕生日が来ると十七歳になるはずなのに、小柄で童顔なせいもあり、今でも幼女のような雰囲気のままだった。
「ど、どうして、わらわが、その学校とやらに行かなければならぬのじゃ?」
「伊与様のご命令でございます」
「それは、もう聞いた! その理由は何なのじゃ?」
「おひい様のお婿様を探すためでございます」
「む、婿? わらわは、まだ結婚などする歳ではないぞ!」
「拙者もそう伊与様に申したのですが……」
「わらわがお婆様と直に話をしてくる!」
日和は、真夜を従えて、庭を半周する廊下を早足で歩き、伊与の部屋までやって来た。
「お婆様!」
返事も待たずに、伊与の部屋の障子を開けると、そこには、セーラー服を着た伊与が姿見の前でポーズを取っていた。
「あっ…………」
――空気が石と化した。
「…………こ、これは、明日から、日和が着ていく学校の制服じゃ! ふ、不具合が無いか、儂が自らチェックしておったのじゃ! ははっ、ははは……」
「……」
上下一体になったライトグレーの生地で、白い襟と袖口には赤の二本のラインが引かれており、最近では珍しい脛丈でノープリーツのスカートのセーラー服は、ベールの無い修道衣のように見え、足元には、折りたたんだ白いソックスを履いた伊与は、まんざらでもない様子であった。
「ど、どうじゃ! 可愛いであろう?」
伊与が、両手で口を覆って、後ろにお尻を突き出すポーズを決めた。
「不気味でございます」
「……実の祖母に対してであっても、もう少し言いようがあろうが?」
「拗ねても、可愛くありませぬ!」
「……日和が着れば、可愛いじゃろうのう」
「褒められても、わらわは、その服を着ません!」
「やれやれ」
伊与が、卑弥埜家当主の顔に戻り、部屋の奥の座布団に座ると、その前に日和が、少し下がって、真夜が座った。
「お婆様! 学校に行けとは、どういうことでございますか?」
「真夜に伝えたとおりじゃ」
「わらわは、まだ婿など取るつもりはありません!」
「一日中、部屋に閉じ籠もりで、どうやって殿方と知り合うつもりじゃ?」
「そ、それは、……時期が来れば、お見合いなどいたします!」
「なるほどのう。それも良いかもしれん。しかし、お見合いしたとして、日和は、その相手とちゃんと話はできるのか?」
「……」
「ずっと、この家から出ることなく、男と話す機会も無かったではないか」
「……」
「今度、日和が行く学校は、耶麻臺学園と言うての、日本の神術使いの子女が、数多く通学しておる学校なのじゃ」
「拙者も噂は聞いたことがございます。日本でただ一つ、神術学科がある学校だとか」
「では、生徒はみんな、神術使いなのですか?」
まだ納得できない顔をしている日和が伊与に訊いた。
「元々は、神術使いの子女のために設立された学園だったのじゃが、少子化の影響で生徒数が少なくなってしもうての。やむなく、普通科を創設して、一般人の生徒も入学させているようじゃ」
――神術。
それは、卑弥呼が始めたと言われる鬼道に端を発し、四季に彩られ、豊かな自然に恵まれた日本において独自に発展してきた魔法のことである。
すなわち、水、火、土、木、風と言った自然が持つ力を利用するもので、その利用する力による属性ごとに、それぞれの神術使いの家で伝承されていた。
その中でも、最強とされるのが、卑弥呼直系の家系である卑弥埜家で伝承されている「太陽の神術」であった。
「では、神術学科にいる生徒は、皆、神術使いの家の者なのですね?」
「そうじゃ。その中には、四臣家の息子達もおる」
「四臣家?」
「その昔、我が卑弥埜家に仕えた重臣の子孫じゃ」
「物部、蘇我、葛城、大伴の四家でございますね?」
「さすがは、真夜じゃの」
「卑弥埜家の家政婦長であれば、知っていて当然でございます」
「うむ。我が卑弥埜家は、日本の神術使いを統べるべき家として、古来より君臨してきた。そして、四臣家は、過去には何度も、卑弥埜家に嫁や婿を入れるなど、姻戚関係にある名門で、卑弥埜家に次ぐ家格の家とされているのじゃ」
「その家の息子達も学校にいらっしゃる訳ですね?」
「そうじゃ。その四臣家の息子達は、たまたまではあるが、神術学科の同じクラスにいるらしい。日和もそのクラスに編入してくれるように、理事長に頼んでおる」
「それでは、まるでお見合いではないですか?」
「お見合いならすると、さっき、言ったではないか?」
「時が来ればでございます! まだ、そんな時ではございません!」
伊与は、少し厳しい顔をして、日和を見た。
「日和! お主は、儂や真夜には、そのように自分の意見をぶつけることができるが、他人にそれができるのか?」
「そ、それは……」
「たまに、うちに客人があっても、日和は、挨拶以外、一言も話せぬではないか?」
「……」
「人見知りで内弁慶。卑弥埜家の次期当主がそんなことで務まると思っておるのか?」
「……」
真夜が膝を進めて、少し前に出た。
「伊与様! 伊与様のお考え、真夜は賛成いたします!」
「そうか! 分かってくれるか?」
「はい!」
伊与の言葉に大きく頷いた真夜は、少し前に座っている日和の背中に向けて、優しい声で話し掛けた。
「おひい様」
「……何じゃ?」
日和は、首を回して、真夜を見た。
「拙者は決めました。おひい様と一緒に学校に行き、おひい様に相応しい殿方を見つけるお手伝いをいたします!」
「わらわには、真夜がおる! 真夜がずっと一緒にいてくれれば良いではないか!」
「拙者は、卑弥埜家のお側に代々仕える梨芽の家の者でございます。おひい様をお守りすることが、拙者の役目。おひい様が寒いと言えば、暖かい毛布をお掛けいたします。しかし、そもそも毛布など掛けなくても、おひい様のお側にいて、心から暖かくしてくれる、そんな、陽だまりのような殿方が、おひい様には必要なのです」
「……真夜」
「やはり、真夜は良いことを言うのお。日和よ」
観念したかのように前を向いた日和に、ドヤ顔の伊与が言った。
「我が卑弥埜家は、わしまで百二十二代にわたり、この日の本の神術使いの頂点として君臨してきた。日和で百二十三代目。日和は卑弥埜家宗家の血を継ぐ唯一の者。そなたが子供を作らないと、卑弥埜家はそこで断絶してしまう。そして、それは、日の本の神術が消滅してしまうことと同じなのじゃ。そんなことは絶対にあってはならぬ!」
「お婆様」
「何じゃ?」
「そんな格好で言われても説得力がありませぬ」
「……」