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相死喪愛 ―闇の章―

相死喪愛 闇の章 第五話 禁断の果実と蛇

作者: 秋本 勇

闇の章 第五話 禁断の果実と蛇


「ベッドはこの辺りでいいですか」

 引越し屋の青年が二人がかりでベッドを寝室に運び込んでいた。ダンボールを抱えたまま、

「あ、もう少し奥に!二つ並べたいので!」

と私が返事をすると、

「わかりましたぁ」

と言う声の後によいしょ、という掛け声があがった。ダンボールを下ろし、二人の行く先を見ながら、

「壁にくっつけちゃっていいですよー」

と声をかける。

「こんな感じで?」

「そう!もう一つは、その隣に」

「分かりました」

それがマニュアルなのか、二人は爽やかに微笑んでまた一階へと降りていった。一人だけになった寝室をぐるりと一度見回して、私は少し伸びをした。

 中古の二階建て4LDK、一軒家。新築ではなかったが、夢のマイホーム。結婚して十年間で貯金を重ね、やっと手に入れた。ローンこそあるにすれ、手に入ったからには期待が膨らむ一方だ。

「理子、まだ荷物残ってるぞ」

夫である佐伯康一が不満げにそう言って、持ってきたダンボールを音を立てて床に置く。

「ああ、ごめんなさい。すぐ行きます」

「……」

返事はなく、そのまますたすたと寝室を出て行く。機嫌が悪いのではなく、昔からこういう性格なのだ。だが、十年間の結婚生活の中で言葉を多く交わさなくとも済む生活を送ってきてしまったために、康一の口数はまた極端に減ってしまった。ほとんどは、私が一方的に話して彼は黙って聞き役に徹し、話が済むとまた自分の世界へと帰っていく。だがそんな生活にもなれ、私たちはそこそこ快適に暮らしていた。

 荷物の搬入が終わり、引越し屋が帰るとすでに昼食の時間になっていた。引っ越してきたばかりで何も作れないので、店屋物を頼み昼食を済ませた。

「よし、じゃあ近所のご挨拶に行きましょうか」

私はすでに用意してあった挨拶回り用のタオルの包みを玄関に準備し、渋々ながらついてくる夫を少し気にしながらまずは右隣の家へと向かった。挨拶をする予定の家は右隣の原宅と、向かいの岸部宅、はす向かいの岩崎宅の三軒だ。

「あら、やっぱり留守かしら」

原、と表札の出ている横のインターフォンを何度押しても返答はなかった。玄関前の駐車場に車がないから、もしかしたらどこかへ出かけているのかもしれない。仕方なく次に岸部宅へ回った。こちらは在宅で、少しふっくらした中年の女性が出てきた。

「あの、向かいに越してきた佐伯と申します。これ、ご挨拶と思いまして……」

「あら、ご丁寧に!岸部といいます。ここの地区の自治会の班長をしているの。ゴミの出し方とか曜日とか、分かるかしら?」

「いえ、それが全然……」

「そうよねぇ。じゃああとで詳しく載ってる冊子があるから持っていってあげるわね。佐伯さんとこはお子さんはいらっしゃるの?」

「いえ、まだ夫婦だけです」

「あら、そう。お子さんがいらっしゃるお宅はほら、学区とかいろいろあるでしょう?その辺りはじゃあまだいいわね」

「ええ、ありがとうございます」

「うちも夫婦二人なの。子供は二人とも県外の学校に通わせてるものだから、長期の休みに入らないと帰ってこなくて。わからないことがあったら何でも聞いて頂戴!」

「はい。ありがとうございます。これからよろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします」

朗らかそうな女性でよかった、と私は少しほっとしていた。前に住んでいたマンションでは隣の住人がどんな人間かもよくわからないで生活していたので、こういった近所付き合いがきちんとできるか不安だった。

 次の岩崎宅も女性が出てきた。こちらも中年女性だったが、岸部とは違ってほっそりとした上品そうな女性だった。

「うちも夫婦二人なの。娘はもう嫁いでいるからほとんど帰らないのよ」

岸辺夫人としたような話を少しして、岩崎宅をあとにした。

「このあたりは夫婦だけの家が多いのか」

それまでほぼ無言だった康一がそう言って、岸部と岩崎の家を振り返る。中年夫婦の笑顔が思い出される。

「静かでいいか」

と、また独り言のように康一が言った。

「そうね……」

ただ、それに私はあまりいい返事をすることができなかった。

 十年間、まったく子供を作らなかったわけではない。七つ歳の離れた康一とは、私が二三歳のときに結婚した。すでに三〇を過ぎていた夫の両親からは、早く孫をと結婚したときから言われ続けてきた。だが、五年を過ぎた段階でまったく子供ができないために検査を勧められ、結果私の妊娠しづらい体質のためだということが分かった。それについて、康一の両親だけでなく、私の両親も当然のように嘆いた。特に康一の両親の嘆きようはひどく、

「できる治療があるのなら色々試してみなさいよ。あなたの体しだいなんだから」

と、不妊治療に関するパンフレットや病院の本などを会う度渡してくるほどだった。だが、康一自身はそれに関しては何も言うことはなく、

「そうですか」

と無表情に、医師に答えた横顔を私は一生忘れないだろう。

貯蓄もそれを聞いて一時やめようと思ったくらいだ。将来生まれる子供のために子供部屋を与えてやりたくて、康一には書斎を、私には家族で集まる理想のダイニングを作りたくて、しかしそんな夢を一瞬で壊されて、私はひどく気を塞いだのだ。そんな私を支えてくれたのは康一の一言だった。

「不妊治療なら、環境を変えるのがいいかもしれないよな」

自分の家を持って、いつでも子供を迎えられる環境を整えたなら、もしかしたら子供ができるかもしれない。それに私の体もそれに応じて変わるかも知れない。時間は掛かるが、最近は高齢出産だって珍しくない。そう思わせてくれたのは、康一の言葉だった。

「ありがと、康一さん」

突然のそれに、康一は戸惑ったようだった。眉間に皺を寄せ、首を傾げる。それはいつもの調子なので、

「なんでもない」

と言って自宅に戻ろうとした。

「あ」

康一がそう言って振り返ったので、私もそちらに視線をやると、ちょうど隣家の原宅にシルバーのファミリーワゴンが駐車しているところだった。

「あ、ちょうどよかったわね」

駐車し終わるのと同時に、私たちはその車の横へと進んだ。中からまず、三十代後半くらいに見える女が出てくる。どうやら私たちのことがなんとなく分かったらしく、

「隣に越された方ですか?」

と笑顔で尋ねられた。ふんわりとパーマの掛かった茶色い髪を後ろで一つに結い、さっぱりとした化粧をしている。目鼻立ちは整い、実際よりも若く見えるのだろうな、と私は少し羨ましく思った。

「はい、佐伯といいます。先ほどご挨拶に伺ったんですけど、お留守だったんですね」

「そうだったんですか!すいません」

彼女はそう言って、ぺこりと頭を下げた。それに合わせて私もつい礼を返す。

「原といいます。よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします。お隣なので、何かとご面倒おかけするかもしれないですが……」

「いえいえ、もしよかったらなんでも声をかけてください。うちで分かる範囲でよければ相談に乗りますから。あ、そうだ、あなた!浩介!」

運転席から出てきたばかりの男がそれに振り返った。こちらは四十代ぐらい。背が高く強面で、私は一瞬萎縮していた。服装はサマーセーターにシャツ、スラックスといういでたちだ。

「夫です。あなた、お隣に越されてきた佐伯さん」

「どうも、原です」

「佐伯です。よろしくお願いします」

「それで、こっちが息子の浩介です」

後部座席から出てきた中学生くらいの男の子がそれにぺこりと頭を下げる。そしてすぐ、いくつかの買い物袋を手にして、車から玄関へと向かってしまった。

「ちょっと浩介、きちんと挨拶しなさい!すいません、ちょっと人見知りする子で」

「難しい年頃のお子さんですもんね。おいくつぐらいなんですか」

「十二歳で、小学校六年生なんです」

「あ、そうなんですか!私はてっきり中学生かと」

「あいつは妙に落ち着いてますからね。おい、俺鍵開けてくるぞ」

そう言って、原の主人は一度私たちに向かって軽く会釈してから荷物を持って玄関へと向かった。ドアの前で、浩介が手持ち無沙汰に鍵が開くのを待っている。

「俺も先に戻るぞ」

話の最中にも関わらず、原主人が消えたことで安心したのか康一はそう言って残りのタオルの包みを持ってさっさと自宅へ戻ってしまった。

「すいません!あの人ったら……」

「いえいえ。それより、佐伯さん、下のお名前は?私は美紀といいます」

「あ、理子といいます。理科の理に、子供の子」

「理子さん、ね。あ、突然ごめんなさいね。佐伯さん、て呼ぶとご主人と混じっちゃうでしょう?だからって、佐伯さんとこの奥さん、て言うのも失礼じゃない?だから、下の名前で呼びたいんですけど、いいかしら?」

「ええ、私はかまいません」

「そう?よかった。私のことも美紀、って呼んで。これからお隣同士なんだし、仲良くしましょ」

最初の態度よりも少し緊張を崩した様子で美紀がそう言った。

「よろしくお願いします」

私はすっかり渡しそびれていたタオルの包みを渡して、自宅へと戻った。


 引越しから数日が経過し、自治会に参加したり、回覧板のまわし方などを美紀から教わったりしてやっと近所付き合いの初歩を踏み出していた。岸部夫人や岩崎夫人とはあまり交流がないのだが、美紀とはこの数日ですっかり意気投合し、安売りをするスーパーの場所や、彼女がよく行く喫茶店などへ一緒に行ったりしていた。

 そして今日は、昼食を一緒にどうかと言われ、美紀の家へやってきていた。互いの家へ行き来するのはこの数日間でも頻繁で、夫の留守中に親睦を深めておくのよ、と美紀は横断半分でよく言っていた。

「あ、これおいしい!」

「そうでしょ、そうでしょ?ここのお惣菜すごくおいしいの!理子さんにも教えたくって。今度一緒に行かない?」

昼食は、美紀がよく行くというデパートの地下食品街にある総菜屋の惣菜数品だった。昼食プレートというらしく、その店のオリジナルで毎日数品の惣菜が日替わりでプレートになって売っているのだという。

「今日は理子さんが来るからお皿に盛りなおしちゃったけど、プレートのままでもお弁当みたいで可愛いの。洗って別の料理乗せても使えるのよ」

肉じゃが、真たらこの糸こんにゃく和え、ブロッコリーとおからの炒め物、海老のチリソースなど、和洋折衷色々な惣菜がたくさん並ぶテーブル。茶碗に盛られているのは炊き込みご飯だ。これは昨日の晩御飯の残りなんだけどごめんね、と美紀が出してくれたものだ。

「炊き込みご飯もすごくおいしい。まいたけたっぷりだとボリュームが出ていいですね」

「本当?よかった。この歳になるとすぐ太るから!炭水化物を減らしてきのこでボリューム出せばカロリー少なくて済むでしょ?」

美紀がそう言ってウィンクしてみせる。

「えー、美紀さん、それ以上やせたらなくなっちゃいますよ!」

「あ、こう見えて脱ぐとすごいのよ!」

初めは三十代の後半かと思っていた美紀だが、よくよく話を聞いていくとすでに四十二になると聞いて私は正直驚いた。四十代には見えない若さがとても羨ましかった。食事には気をつけているらしく、この惣菜の気に入っているところも油分が少なく野菜が多いからだという。

「本当に綺麗ですよね、美紀さん」

「やだ、理子さんたら。ほめたってこれ以上何も出ないわよ」

「でも本当に。食事を気にしてるだけでこんなに綺麗でいられますか?」

「うーん、私が気にしてることっていったらそれくらいだもの。あとは、子供がいるせいじゃないかしら」

「でも、お子さんがいると逆に老けるって言いませんか?」

「そうねぇ。でも私の場合は逆かしらね。子供に合わせて活動しようとするから、気が若くなろうとするのよ、多分ね。四十でまだ子供が小学生ともなると特に」

「そういうものですか……」

子供ができにくい私にとっては分からない話だ。それに、子供の頃から老け顔の私にとって、いつまでも若々しくいられる女性は憧れの的だった。

「あ、そうだ。美紀さん、次の日曜日なんですけど、空いてますか?」

「次の日曜日?多分大丈夫だと思うけど」

「ご主人と浩介くんも大丈夫ですか?」

「あー、あの二人はちょっと分からないわね。でもなんで?」

「実は、うちもやっと部屋の中が片付いてきたし、美紀さんにはお世話になってるからホームパーティみたいなことをしようかって。主人とも話したんですけど」

確かに康一と話はした。そのとき康一は少し眉間に皺を寄せ、

「なんで」

と珍しく尋ねてきた。私が日ごろ美紀と親しくしていることは話してあったので、お近所と家族みんなで仲良くなるにはいいでしょう、と言うと、康一は少し考えてから、

「好きにするといい」

と少し冷たく言い放った。その物言いが少し気に食わなかったが、反論したところで沈黙が落ちるだけと知っている私は、日曜日に予定は絶対入れないでくださいね、と念を押していた。その夫の態度が、少し気になってはいた。

「いいじゃない!楽しそうね。私は絶対行くわ。浩介はちょっと分からないけど、うちの旦那ならきっと暇だし」

「よかった!私の料理なんて口に合うか分からないけど……」

「理子さんの料理、私は好きよ。この前ご馳走になった煮物、うちですごく好評だったんだから」

「あの時は作りすぎちゃって。私、どうしても料理ってたくさん作っちゃって……」

「わかるわ、その気持ち。二人だと中途半端だしね。うちはほら、大食漢が二人いるし。多少作りすぎても一回でなくなっちゃうけど。あ、だから日曜日はたくさん作っておいてね。浩介も来るとなると、すぐなくなっちゃうわよ」

「そうね、じゃあ色々考えておきます。リクエストとかありますか?」

「うーん、リクエスト……この前の煮物はおいしかったけど、今度は洋食も食べてみたいわね。野菜たっぷりの!何かあるかしら」

「そうですね。なら、十二品目グラタンとか」

「おいしそう!サラダは聞いたことあるけど。じゃあ、それをリクエストしておくわ。大皿でたっぷりね」

「分かりました。お口に合うといいんですけど」

「そうそう、大きなお皿とかお鍋とかある?理子さんのところ二人だから。食器とかそういうの足りなかったら言って。うちはほら、息子の友達とかも来たりするから色々揃えてあるし」

「あ、ありがとうございます!じゃあ早速で申し訳ないんですけど、グラタン用の大皿を」

「ね、ほら。うふふ。じゃあ帰るときに持っていって!私のリクエストだしね」

明るく話し上手聞き上手である美紀とはいつもこんな調子でぽんぽんと会話が弾む。妊娠のことや、それに対する康一の両親とのことなど色々思い悩むことも多く、またそれを康一と話すこともできず、一人悶々と生活していた頃に比べると一八〇度生活が変化していた。まだ子供ができにくい体であることは打ち明けていないが、康一があまり話し好きでないことや、結婚した時の話などは少しずつするようになっていた。

「それにしても、ご主人よくホームパーティのことOKしてくれたわね」

食後、二人で片づけをして美紀の入れてくれた紅茶を飲んでいると、美紀が思い出したように言った。

「え?」

「だって、理子さんとこのご主人、そういうの嫌いな感じじゃない?あ、ごめんなさい!私の勝手な思い込みだけど」

それに康一の横顔が脳裏に浮かぶ。その横顔は、あの病院での無表情な能面のような横顔だった。心根まで冷たいわけではない。だが、人付き合いや会話が苦手なのは事実だ。私が美紀と親しくしている、と日中の会話を思い出して話そうとしても、

「そうか」

と一言で終わらせてしまう。そういわれてしまうと、私もどうしても次の言葉が継げなくなってしまう。

「美紀さんの言うとおり。あんまり人付き合いが好きなほうではない人だから」

そう言って私が笑うと、それは自分が思っていたよりも苦々しい笑みだったらしく、

「大変よね。挨拶しに来たときもちょっとそんな感じはしたんだけど」

と美紀が困ったような目をしてそう言った。だがすぐに笑顔を取り戻し、

「でも、きっと本当は優しいのよね」

と期待を込めたように声を弾ませた。

「たしか七つ離れてるのよね?」

「ええ、そうです。私が今年で三十三だから、主人は四〇に」

「で、結婚して十年でしょう?お付き合いの期間を含めるとどれくらい?」

「二年付き合って結婚したので十二年になりますね」

そう、と美紀は難しい顔をして顎に手をやった。そしてしばらく思案するように目を閉じてから、

「でも、十年も経つと男も女も変わるからね。特に男はだらしなくなってくるのよ。それに、妻を女としてみなくなるから。面倒なことはあいつに任せとけばいいか、ってなってくるのよね。うちもそうだもの」

私のカップに紅茶がなくなっていることに気がついて、美紀がポットから注いでくれる。暖かい紅茶のいい香りが立ち上る。

「うちの旦那はびっくりしたと思うわよ。実はね、うち、できちゃった婚なの」

「えっ、そうだったんですか!」

あまりにも意外な告白に素直に驚くと、美紀が苦笑して紅茶を飲んだ。そして、

「そう。だから、うちはもう結婚してすぐお母さんになっちゃったわけ。女としての期間はすごく短かったのよ。だから、本当は理子さんとこがちょっと羨ましいかな」

「羨ましい……?」

「ええ、だって理子さんはまだ妻、でしょう。母、ではないわけよ。妻、と母、ではまた違ってくるのよ。それに、子供がいないと自由な時間も多いじゃない?二人きりで過ごすことだってできてるわけだし。子供のいる十年と、いない十年の夫婦の密度って、違うと思うのよね」

だがそれは私にとっては少しショックだった。子供のいる生活に焦がれて、一時は本当に自分を追い詰めてきた心を、否定されているような気がしたのだ。

 しかし、ここでそれを言って美紀を困らせても仕方がない。それに、今ここで言いたくないと思い、

「そういうものかしら……」

と曖昧に相槌を打った。

「子供がいないほうがよかったとか、そういうわけではないのよ。ただ、やっぱり女として生まれてきたんだもの。妻とか母とかそういった喜びとは別に、女としての喜びって大切じゃない?」

美紀の言葉を、私は初めてうまく消化することができなかった。


 オーブンから取り出したグラタンの焦げ目をチェックし、それをダイニングテーブルへ運ぶ。テーブルにはすでにサンドイッチや大盛りのサラダ、ミネストローネ、パスタ、カナッペやコンソメのゼリー寄せなどがところ狭しと並んでいた。鍋掴みを取って、今度は食器棚から今日のために買ってきたとりわけ用の小皿とスプーン、フォークなどを取り出す。

「あ、おはよう」

二階から降りてきた康一が、テーブルの上を確認してから、

「ああ」

とだけ言う。まともな挨拶はここ五年はしていないだろうか。それでも、今日は楽しくなる日だ。私は嫌な顔が出ないように笑って、

「もうすぐ原さん来るのよ。あなたもそろそろ座っていたら?」

というと、

「分かった」

と洗面所へ消えた。着替えはもう済んでいたので、約束を覚えてはくれていたようだ。

 十二時を少し回ったところでインターフォンが鳴った。康一はリビングのソファでくつろいだままである。来客は原だろうからと、モニターには出ずにそのまま玄関に向かった。魚眼レンズで覗くと、原一家が見えたので扉を開けた。

「こんにちは!」

「こんにちは!今日はお招きいただいて」

まずそう挨拶したのは原の主人だった。その隣に美紀、後ろに浩介が俯きがちに立っていた。大人ばかりの集まりに子供を呼ぶのはかわいそうだったろうか、と浩介が少し心配になった。

「これ、よかったら一緒に出して。うちも呼ばれるだけじゃ悪いと思って」

美紀がそう言って差し出したのは、この前ご馳走になった総菜屋のパーティオードブルの小さいものだった。

「理子さんの手料理の中に私の料理が並ぶのはちょっと恥ずかしくって。料理かぶってないかしら」

「そんな気にしなくても!でもとってもおいしそう。早速一緒に並べますね」

「あ、ご主人お酒はお好きですか?」

原主人がそう言って掲げたのは、私もよく知る銘柄のワインだった。

「こんな高価なお酒!」

「いえ、うちも実はもらいもので。こいつはワインがダメなんです。だからもし佐伯さんがお好きなら一緒にどうかと思って」

「ほら、理子さんはワイン好きって言ってたでしょう?ご主人はどうか分からないけど、よかったら。本当はワイン好きって聞いたときにもう思いついてたんだけど、内緒にしてたの」

「ありがとう!主人もワインは好きだから喜ぶわ。あ、上がってください」

「お邪魔します」

まず夫婦二人が先に上がり、リビングへと入っていった。中で康一と挨拶が始まったらしく賑やかになる。遅れて上り框に脚をかけた浩介は、

「あ」

と言って私を振り返った。割と整った目鼻立ちは美紀譲りだろうか。改めて並んでみると身長が高く、私が小柄なせいもあるが浩介の方が高かった。

「どうかした?」

人見知りするのだと美紀から聞いていたため、私も少し遠慮がちになってしまうが、そう尋ねると彼はいつから持っていたのか紙袋をすっと差し出してきた。

「持ってきてくれたの?」

「……シュークリームです」

ぽつんと言って、じっと私の顔を見ている。

「ありがとう。あとでお茶の時に出しましょう」

私も笑って返事をすると、浩介はすっと視線を一度下に落としてから、リビングへと入っていった。中で「何してたの!」という美紀の声が聞こえた。


「いやあ、佐伯さんが意外と飲める人でびっくりです」

 ホームパーティはなかなかの賑やかさで、原一家が尋ねてきてからすでに三時間が経過していた。男二人は、美紀たちが持ってきてくれたワインを空け、次に用意しておいた日本酒を片手にすっかり出来上がっている。私たち女性陣はそこそこに飲みながら、料理の補充などそこそこに動き回っていた。康一も妙に機嫌がよく、原主人と日本酒を片手に日本人作家の小説の中身で盛り上がっている。久しぶりに見る康一の楽しそうな姿が嬉しかった。

「よかったじゃない、理子さんのご主人。うちの旦那と意気投合みたいよ」

リクエストされた十二品目のグラタンをおいしそうに頬張りながら、リビングのソファで飲みなおし始めた二人の男たちを見て美紀が笑う。

「このまま夕ご飯もここでどうですか?」

私のそれに、

「えー、悪いわよ、そこまでしてもらったら」

と美紀が顔の前で手を振る。

「でも、あそこまでお酒入っちゃったら帰るの億劫じゃないですか?一応、それを見越して晩御飯もそのままできるようにしてあるし」

酒は用意してあったので、こういう事態になることは分かっていた。なので、すぐに夕飯にできるよう、私は朝から鯛飯の支度をすでにしてあった。土鍋に鯛を放り込んで、出汁で炊くだけなので準備も楽だし、途中経過さえ気をつけていれば出来上がりも楽しい。汁物を少し出せば十分おなかいっぱいになるだろう。

「そうなの?じゃあ今日は理子さんに甘えちゃおうかな」

少し酒が回ってきているのか、美紀は目元を赤く染めて笑った。

 大人が盛り上がる中で、浩介は一人、康一が書斎から持ってきた写真集を眺めていた。かなり分厚い本なので、じっくり目を通しているとかなり時間のかかる代物だ。世界各国の動物や自然を撮り集めたもので、世界的にも有名な写真家が出したという。私は少し目を通したことがあるのだが、まだ全てのページを見てはいなかった。

「おもしろい?その本」

美紀がトイレに立ち、男二人が盛り上がっている横で黙々と本を読みふける浩介に話しかけると、

「はい」

と簡単な返事が返ってきた。私も少ししか飲んではいないが、子供には十分匂いが分かるだろう。なるべく近すぎないように近づいて、コップにサイダーを注いで渡した。

「ありがとうございます」

コップに気が付き、浩介が丁寧に頭を下げる。礼儀正しいが声は硬い。なんだか昔の康一を思い出し、思わず微笑んでいた。

「今日読み終わらなかったら持って帰って。多分、うちのお父さんもしばらく読まないだろうから」

だが、浩介は一瞬考えてから、

「大丈夫です。家に、同じものがあると思ったから」

と言った。

「え?」

思わぬ言葉に私が尋ねると、

「お母さんの持ってる本の中に、同じ本があったと思うんです。でも、見せてもらえなくて」

と困ったように説明して、また本に目を落とした。

 その写真家の写真が好きになったのは、康一がまだ若い頃、その写真家の個展に行ってからだということを付き合っているときに聞いた。あまり写真に興味のなかった私に、康一にしては珍しく熱心に話してくれたことを覚えている。先ほど浩介にその本を差し出すときもその話をしていた。その様子を眺めながら、

「ご主人もあの写真家が好きなのね」

と美紀が。

 そのときは気に掛からなかった言葉が妙に耳に引っかかる。美紀との会話を思い出してみても、その写真家の話をしたことはない。そして、原主人も写真家のことは知らないと言っていた。そして美紀も、その本を知っているとは一言も言っていなかった。

「そう……」

何故美紀がそれを隠すのか、分からなかった。もしかしたら浩介の見間違いかもしれない。別段気にすることでもない、と熱心に写真に目を通す浩介に私は少し微笑んだ。


 その日、結局原一家は夜の六時まで過ごした。少し早めに出した鯛飯も評判がよく、私も嬉しかった。何より、浩介が「おいしいです」といってくれたことが嬉しかった。それは、康一が思わぬ笑顔を見せてくれたときの喜びに似ていた。

「すっかり長居しちゃってごめんなさいね」

「とんでもない!うちも久しぶりに賑やかで楽しかったです」

「また飲みましょう」

「ええ!是非!今度はうちでもやりましょう!なあ」

すっかり出来上がった原主人が機嫌よく美紀を振り返る。

「もう!調子に乗って飲みすぎよ!」

「ああ、そうだ」

康一が一度リビングに戻って、例の写真集を持ってきた。

「持っていくといい。ゆっくり見たいだろう?」

一瞬、浩介が私の顔を見たのが分かった。それにどう答えたものか迷ったが、

「よければおうちでゆっくり見て。まだ読み終わってないでしょう」

と、私は咄嗟に美紀が持っているらしいことを言うのはやめた。

「……ありがとうございます」

浩介は少し俯きがちにそう言って、康一の手から本を受け取った。

「よかったな!浩介」

原主人が機嫌よく言う横で美紀が、

「本当にいいんですか?汚してしまうかもしれないし……」

と康一に尋ねる。

「いいんです。むしろ、君が持っているほうがいいかもしれない」

康一の言葉が少し引っかかった。それは浩介も同じのようで、写真集を手にしたまま、康一を見て首を傾げた。

「本も好きな人間の所にあるほうが嬉しいだろう」

言い訳のように付け足した言葉に、

「すいません」

と原の主人が小さく会釈した。美紀もそれに習った。

 その様子がなんだか他人事のように思えて、私は一人置いていかれたような気がしていた。


 それから数日後、美紀から浩介を夜の間だけ預かってくれないかと頼まれた。

「ごめんなさい、その日は私が同窓会なの。旦那は仕事でで深夜になるらしくて。夕飯は用意していくし、あの子も六年生だから大丈夫だとは思うんだけど、ちょっと様子を見に来てくれないかしら」

そういう事情なら、と私は快諾した。夕飯も準備するのが大変ならば、うちで用意するからというと、

「助かるわ。それなら美容室から直行できるから。お願いしてもいい?」

ということで、その日は浩介に私のところへ帰宅するよう伝えておく、ということになった。

 そして、当日。浩介がいつ来てもいいように買い物は午前中に済ませ、掃除も全て終わらせて昼食をとり、少しゆっくりしていると夕方にはインターフォンがなった。出ると浩介が一人、やはり俯きがちに立っていた。

「こんばんは」

「お帰りなさい。どうぞ、あがって」

スリッパを用意してやると、お邪魔しますと小さく言ってスリッパを履き、私についてリビングに入った。

「荷物は適当に置いていいから、洗面所で手を洗ってきてね。この前使ったから場所は分かるでしょう?」

「はい」

リビングのソファの横にバッグを置き、浩介が廊下へ出て行く。落ち着いた性格に整った容姿が大人びて見える。

 ローテーブルにアイスティーとシュークリームを出していると浩介が戻ってきた。テーブルのシュークリームに気がついたらしい。

「あ、これ。この前のとってもおいしかったから買ってきたの。浩介君がお使いで買ってきてくれたんですってね」

ホームパーティを開いた日、遠慮がちに差し出されたあのシュークリームの礼を美紀に言うと、

「そうそう、あの子にしちゃ珍しく、お土産持ってくなら俺が買ってくるって言ってくれたの。だから任せたらこのシュークリーム。あの子のお気に入りなのよ」

と教えてくれたのだ。だから、今日も夕飯までのおやつとして買ってきておいたのだ。

「浩介君が好きって聞いたから。この前は本当にありがとう」

だが、浩介はうん、と小さく頷いただけでソファに座るとまずアイスティーを飲んだ。

「ガムシロップはいる?」

「いえ、大丈夫です」

「そう?シュークリームも遠慮しないで食べてね。晩御飯は、うちのお父さんが帰ってきてからだからもうちょっと待ってて」

「はい」

少し居心地が悪そうだったが、まだ一回しかきたことのない家で緊張するのは当たり前だ。私はすぐに夕飯の支度に取り掛かった。今夜のメニューは、美紀から聞いていた浩介の好物というハンバーグだった。


「ただいま」

 康一が帰宅し、浩介が来ている事を言うと、

「そうか、今日だったか」

と少し声を弾ませた。康一にしては珍しい反応だったが、やはり子供は好きなのだろう。それを考えると、私が子供を生みにくい体であることが急に思い出されて切なくなる。

「リビングにいるからいってあげてください。すぐ夕飯です」

「ああ、分かった」

康一の洗濯物を預かり、洗面所の脱衣かごに入れる。ポケットに何か入っていないか確認していると、ふと違和感があってそれを取り出した。それは紙のメモ。走り書きが書かれている。

「帝国ホテル、四時……ミキ」

康一の職場から帝国ホテルまでは徒歩五分ほどだ。待ち合わせなどで使われることはよく知っている。だが、その最後の「ミキ」という言葉が引っかかる。今「ミキ」と聞いて、私の中で変換されるとしたら「美紀」しかいない。

「まさかね。ふふ」

だが、その紙を捨てることもできず、私はエプロンのポケットに忍ばせた。少し動揺で手が震えている。拭いきれない妙な予感を抱えたままキッチンへ戻ると、リビングにはすでに康一の姿があった。浩介の隣に座り、二人でまた本を眺めている。私の気配に気がついて、康一が顔を上げた。

「遅かったな」

「え?そうかしら……」

ぎこちなく微笑んだのが自分でもよくわかる。だが、康一は私のそれよりも浩介との話が楽しいらしく、また本へと視線を戻した。

「これがすごく綺麗なんだ。日本だとは思えないだろう?」

その本はまた写真集らしく、遠めに綺麗な夕陽が映った写真のようなものが見えた。だが、私はそれよりも先ほどの走り書きが頭から離れず、ハンバーグを焼きながらずっと「ミキ」の二文字だけを追いかけていた。

 夕食が終わり、私が片付けている間に浩介を先に風呂に入れた。背丈が大きいので、パジャマ代わりには康一のTシャツとジャージを渡した。

 浩介が風呂へ行ってしまうと、リビングには康一と私の二人だけになった。洗い物をしながら、先ほどのメモのことを問いただすか悩む。康一はそんな私の気持ちに気づくわけもなく、先ほどから浩介と一緒に見ている写真集をまた開いていた。

「この前の写真家の写真集?」

メモの事を聞けるわけもなく、私がそう尋ねると、

「ああ」

と簡単な返事があった。

「もしかして、この前買ってきた本?」

「浩介くんがくるって聞いてたからな」

康一の機嫌がかなり良いことが分かる。珍しく笑顔でそう言って、

「古い作品だが、とてもいい写真が載っているんだ。浩介くんも気に入ると思ってね」

とまた写真に目を落とした。こんなに子供が好きだったとは思わなかったので、康一の意外な一面を見た気がして嬉しい半面、やはり私の体の事が悔まれた。

「お風呂、ありがとうございました」

 しばらくすると、浩介がタオルを首にかけた姿で現れた。康一のパジャマ代わりの服がぴったりだ。

「服、ちょうどよかったみたいね」

「はい」

「じゃあ、次入ってくる」

康一がそう言ってソファから立つ。

「着替えはもう置いてありますから」

康一はそれを聞いてからリビングを出て行った。

「お水、飲む?」

「あ、はい」

浩介にミネラルウォーターの入ったコップを渡す。まだ乾き切っていない髪から水滴が落ちる。コップに口をつけた姿が、服装のせいだろうか、康一に似ていて苦笑した。

「?」

それに気がついたらしい浩介が首を傾げる。

「ごめんなさいね。ただ、パジャマがうちのお父さんのでしょう?お父さんにちょっと似ている気がして。そんなわけないのにね」

私の言葉に、浩介がTシャツをちょっとつまんで「あ」といった。意味がわかったのだろう。

「うちのお父さんもね、浩介くんのことが好きみたい。よかったら今日みたいな日じゃなくても遊びに来てね」

「……はい」

少し照れたように俯いて、小さくそういうとソファに戻っていった。遠目に浩介を見て、やっぱり康一に似ていると思った。


「ごめんなさいね!遅くまで」

 着飾った美紀が訪ねてきたのは夜の十時を過ぎるころだった。よそ行きの髪型に、ほっそりした体型を包むスーツ、香水と酒の混じった匂い。

「いいえ、主人も楽しかったみたい。よかったらまた遊びに来てって、浩介くんにも」

そこまで話したところで、着替えを終えて荷物を携えた浩介が玄関に出てきた。その表情は無表情だ。

「浩介、ちゃんとお礼言って」

「……ありがとうございました」

靴を履いてから、浩介は一瞬私を見て固まり、それからそう言って頭を下げた。

「また遊びに来てね」

それに浩介が少しだけ笑って、

「はい」

と答えた。それがなんだか嬉しかった。

「じゃあ、おやすみなさい。今夜は本当にありがとう。康一さんにもよろしく言っておいてね」

美紀はそう言って笑顔で会釈し、浩介を伴って帰って行った。

 いつ、康一の名前を知ったのか、不思議だった。


 浩介を預かった日から二週間ほどが経過した。その間、美紀とはあまり接触がなかった。先日の同窓会で紹介された仕事があり、それを始めたためだと美紀からは言われていた。そのため、残業などで遅くなるときには浩介を呼んで夕飯を御馳走していた。康一もまた、仕事のノルマを達成するためにと残業が続くようになり、浩介と二人で夕飯を取ることも少なくなかった。だが、悪い気はしなかった。浩介も次第に心を開いてくれるようになり、この二週間の間に大分笑顔を見せてくれるようになっていた。

 今日は美紀は仕事が休みで在宅だった。買い物に誘ってみたのだが、

「家事がたまっちゃって!主人に何か言われる前に片づけておかないとね!」

と一日家で過ごすといわれたので一人で買い物を済ませてきた。これからも浩介を預かる機会が増えそうだということを美紀から聞いたので、今日は浩介用のバスタオルとパジャマを購入してきた。いつまでも康一のものではかわいそうだろう。なんだか自分の子供のように思えてきて、パジャマ選びに夢中になっている自分の思い出すと苦笑が出た。

 帰宅すると、まるで待っていたかのように電話が鳴った。慌ててリビングに入り、荷物を置いて受話器を取った。

「もしもし、佐伯です」

「あ、もしもし?」

聞き覚えのある男の声だ。しかし、なかなか思い出せない。ごく最近聞いた気もするのだが。

「すいません、突然。私、隣の原の」

「あ、ああ!ご主人。どうなさったんですか?」

電話越しだと少し印象が変わるが、確かにそれは原の主人の声だった。少し緊張が解けた。電話とはいえ、男の声だと緊張する。

「失礼だとは思ったんですが、昼間からすいません。あの、今近くにうちのはいますか?」

もちろん美紀が在宅なのは知っているだろう。普段から家の行き来をしていることも当然知っているので確認したのだろうか。

「いえ、今日はおうちに一日いるそうですよ。電話がつながらないとか?」

「あ、いえ。そうじゃないんです。お話があるのは、奥さんなんです」

「え?」

原の言葉に思わず聞き返す。

「奥さん、今日はご主人、何時頃に帰られますか」

「え、ああ、うちの主人は……今日から二泊三日の短期出張なので帰らないんです」

突然、電話の向こうが無言になる。何かを思案しているような沈黙が落ちる。

「そうですか……」

重苦しい沈黙の後、やっとのことで原が口を開く。

「奥さん、たぶんうちのから今日電話があると思います。浩介を預かってほしいと」

「え?あの、どういうことですか?」

「あいつ、明日から一泊二日で、この前の同窓会で会った友達と旅行に行くと言っていたんです。だから、たぶん今日中に浩介を預かってほしいって電話があると」

「あ、そうなんですか!それなら大丈夫ですよ。主人はいないですけど、浩介くんも最近はだいぶうちに慣れてくれたみたいですし」

私は先ほど購入してきたバスタオルとパジャマを思い出して声を弾ませた。いつおろすことになるか楽しみにしていたので、それが早いうちに叶って嬉しかった。

「でも、それを伝えて下さるためにわざわざ?」

私がそう尋ねると、原は静かに、

「いえ、違います」

とやや声のトーンを落とした。

「今日旦那さんがいないなら話が早い。奥さん、今夜家を出られますか?」

「今夜……ですか?」

「ええ、たぶんあいつのことだから、電話は夕方頃してくると思います。そうしたら……」

原の声を聞きながら、自分の嫌な予感がまた湧きあがってくるのを抑えた。


 店先の看板には「Bar Heaven」と書かれていた。中に入ると、カウンターの中の男がグラスを磨く手を止めて、

「いらっしゃいませ」

と微笑んだ。髭を蓄えた中年のマスター。

「こちらへどうぞ」

と席を勧められたので、一度店内を見回してから勧められた席に座った。

「待ち合わせですか?」

マスターがコースターを置きながら尋ねてくる。

「店内を見てらしたので」

私が驚いた顔をしたのだろう。そう説明して微笑む。

「そうなんです。もう少しでくると思うんですけど……」

「では、アルコールの多いものはやめておきましょうか」

「ええ、そうですね」

少しして出してくれたのはオリジナルのノンアルコールカクテルだった。そのあとは無言でカクテルを飲みながら、ときどき腕時計を確認した。待ち合わせの時間から、約三〇分ほどが過ぎていた。

 それから五分ほどして、バーに入ってきた人影があった。マスターが声をかけるのと、私がその人物を認識するのはほぼ同時だった。

「すいません、帰り際に仕事が入ってしまって」

そう言ってそばへやってきたのは、原だった。

「マスター、ジントニック。ボックス席、あいてるかな」

「ええ、どうぞ」

原に促されて、店の一番奥にあるボックス席に移動した。少しの間無言でいると、マスターがコースターとジントニックを原の前に置いた。

「お呼びたてしてすいません。あ、今日はあいつには会社の連中との飲み会ということになっているので」

先にそう言って、彼は頭を下げた。そして、

「実は、今日話したかったのは、うちのやつと……」

言葉を少し濁らせた後、

「佐伯さんのご主人のことなんです」

とぐっと眉間に皺を寄せた。

「美紀さんと、うちの主人……?」

ぱっと蘇ったのはあの走り書きだった。嫌な予感が脳裏に浮かぶ。原は一口ジントニックを飲んでから、視線をテーブルの上に彷徨わせて言葉を探しているようだった。

「原さん?」

「……酷なことかもしれません。それでも聞いていただけますか」

「……」

逡巡。だが、それよりも知りたい想いのほうが勝った。

「お願いします」

私の言葉に原が視線を上げる。そして、持参していたバッグから、クリアファイルを取り出した。

「ご覧になれば、すべて分かります」

そのクリアファイルを手に取り、表紙を見る。そこには看板などでよく見る探偵事務所の名前があり、表題には「ご依頼内容調査報告書」とあった。目線だけあげて原を見ると、私の視線の意味を組んで一度頷いた。

 そのあとはほぼ無言だった。だが、私の心は十分にかき乱された。その調査報告書には、美紀と康一の密会の写真が添付されていた。それだけでなく、この二週間で仕事や残業と偽り、二人で会っていたことが事細かく書かれていた。衝撃的だったのは、美紀と康一が腕を組んで、いわゆるラブホテルへ入っていく写真、そして出てきた写真。

 読み終わったとき、やはり、という想いと、どうして、という想いが重なって溢れて、私は目の周りが熱くなるのが分かった。

「最初は私も信じられませんでした」

原はそう言って頭をテーブルにつくほど下げて「勝手なことをして申し訳ない」と謝った。

「実は、浩介を預かってもらった日」

原が暗い声で話し始めるのを、私は俯いたまま聞いていた。

「あの日、私が外回りをしていると、あいつの姿を見かけたんです。同窓会の会場とは離れている場所だったので、妙な感じがしてついていったら」

「……うちの主人と会ってたんですね?」

私の声は涙声になっていた。

「それは、帝国ホテルでは……ないですか」

俯いたままだったので、原の表情は分からなかった。だが、わずかな衣擦れの音で驚いたらしいことは分かった。

「その日、主人がメモを……持ち帰っていて……」

ああ、と溜息のような彼の声が漏れる。そして、深く息を吸い込む音がした。

「ああ、でも……」

私は両目から溢れてくる涙をハンカチで押えながら無理して笑った。そして、

「本当のことが分かってよかった……」

と原に顔を向けた。彼の顔は強張っていた。当り前だろう。

「この二週間、ずっとどうしたらいいか、考えていて」

そう言ったところでショックは消えるわけでもない。抑えようとしても涙が溢れてくる。原の強面の顔が、悲しさと苦しさで歪む。

「すっきりして……よかっ……」

その時、テーブルの上に置かれた私の手を、暖かい何かがそっと握った。それは、原の大きな手だった。その暖かさが妙に心に触れて、私は我慢しようとしていた涙が溢れてくるのを感じた。ハンカチで目元を抑えながら、俯くと、

「奥さん……」

と原が強く手を握った。

「俺は……」

これは、私を裏切っていた夫や、美紀に対する復讐ではない。原の気持ちが嬉しかった。康一のあの冷たい言葉や視線が、原の手の暖かさと情熱で溶けてしまう。


 私たちはその日、自分たちを裏切った相手を裏切り返す形で、道を踏み外した。


「おばさん」

 ぼうっとしていると、そんな声がして慌てて振り返った。浩介が、首にタオルをかけて立っていた。

「あ、お風呂上がった?お水、入れてあげるね」

どうやらしばらくぼうっとしていたらしく、手が泡だらけのことも忘れてコップを取ってしまった。

「ごめんね、ちょっとぼうっとしてて」

わたわたと慌てる私を対面カウンター越しに浩介が見ている。泡だらけの手を洗ってからコップを洗い直し、シンクに置くといつの間にかキッチンに入ってきていた浩介がコップを食器拭きのタオルを取って拭いてくれた。

「ありがとう」

冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出すと、拭いたばかりのコップを差し出された。

 和仁……原の主人のことだが、彼と密会した翌日、美紀は何食わぬ顔で旅行へと出かけ、浩介は和仁が仕事に出ている間、うちで預かることになった。今日は遅くなるとのことで、もし深夜になるようであれば浩介はうちに泊まることになっていた。

「お父さんから連絡あった?」

浩介は携帯電話を持っていたので、もし和仁が遅くなる場合にはそちらに連絡するとのことで昨日のうちに美紀と話がすんでいた。

「いえ、まだです」

ローテーブルに置かれた携帯電話を一度チェックしてから浩介が答える。

「この時間だし、遅くなるかもしれないわね」

時計を見上げると、すでに十時を回っていた。浩介も私につられて時計を見上げる。

「眠くない?」

「いえ、大丈夫です」

「そう?あ、そうだ」

私はリビングのサイドボードから、この前康一と浩介が一緒に見ていた写真集を取り出した。それを渡すと、浩介は少し驚いたようだった。

「借りておいたの。見終わっちゃったかしら」

「いえ、続きが気になってました。ありがとうございます」

そう言って浩介が微笑む。その表情が、康一に似ている気がして少し悲しくなった。

 片づけを終えてシャワーを浴びると十一時を回ってしまった。リビングに戻ると、写真集を開いたまま浩介がソファで眠っていた。こういうところは子供らしくて、つい微笑んで毛布をかけてやると、ぱちと目が合ってしまった。

「あ、起こしちゃった?」

「う……ごめんなさい……」

「?」

寝ぼけているらしく、飛び起きた浩介は両手で顔をかばうようにしてソファの端まで逃げた。そしてまた呟くように「ごめんなさい!」と言って私から身を庇うようにうずくまった。

「浩介君、大丈夫?浩介君」

「ごめんなさい!俺は浩介じゃありません!コウイチです!ごめんなさい!」

「え……?」

私が固まると、がくがくと震えていた浩介が顔をあげた。顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。浩介らしくない表情と、その態度に私は混乱していた。

「あ……」

硬直した私を見て、浩介はパジャマの裾で顔を拭いて毛布にくるまった。

「ごめんなさい……」

小さな呟き。何が起きたのか、私の中は混乱していた。

「浩介君、ソファじゃなくて、お布団に入って寝よう」

浩介は落ち着かないようだったが、私が毛布にくるまったままでいいよ、というと言葉の通り毛布にくるまったまま、二階の客室へと入った。布団はもう敷いてある。

「大丈夫、ゆっくり休んで。明日は起してあげるから……」

布団にもぐった浩介にそう声をかけると、小さくはい、と返事がした。おやすみ、と声をかけ、電気を消して部屋を出る。

 リビングに戻って先ほどのことを思い出していると電話が鳴った。かけてきたのは和仁だった。

「あ、いや……この時間なら、あなたに電話をしてもおかしくないかと……」

口ごもる和仁。昨日のことが思い出され、私は感じたことのない心の揺れを感じていた。和仁の声を聞いて、安心と、夫への裏切りの気持ちがないまぜになる。

「浩介は、大丈夫ですか」

「ええ、ついさっきお布団に入りました。遅かったかしら」

「いえ、いつも通りくらいだと思います。御面倒おかけします」

「とんでもないです」

ぎこちない会話。お互いに遠慮するような、そんな声色だ。

「あ、あの……理子さん」

理子、という響き。康一の冷たい声色ではなく、優しい、情熱のこもった声。それにより、康一を裏切っている気持ちが強くなる。心は和仁を求めているのに。

「また、二人で逢えませんか」

思い切った一言だったのだろう。私が逡巡していると、

「すいません、やっぱり、昨日のことは……なかったことにしないといけないですね」

強面の和仁の顔が、寂しさに歪むのが目に浮かぶ。

「……私も、あなたに逢いたい……」

二人の沈黙。そこに言葉はなくても、どこかでつながっているような気がした。私は心の中で浩介のことを思った。私たち夫婦の中で、一番裏切られているのは、浩介なのだと。


 それから私たちは、お互いにお互いを騙しあい、裏切りあい、そして表はうまく夫婦生活を保ちながら、そしてご近所関係を保ちながら過ごした。しかし、私の康一に対する想いは薄れ、逆に和仁への想いは強まるばかりだった。朝、康一を送り出す時、ときどき和仁が美紀と一緒に出勤するところに出くわす。和仁は電車出勤、康一と美紀は車出勤。

「いってらっしゃい」

と三人を送り出す私は、一体誰に手を振り、誰を送り出しているのか分からなくなった。

 そんな生活が、半年以上続いた。


「そっか、浩介君も中学生だもんね」

 すっかり冬景色の二月。美紀の仕事はこの半年で大分本格的になり、浩介をうちで預かることが増えた。康一も短期出張や接待ゴルフなどが頻繁になり、平日休日関係なく、家を空けることが多かった。それが本当に仕事や接待ゴルフなのかは分からない。それは明らかに、美紀が家を空けるときと重なっているからだ。和仁と私の関係が続いているように、康一と美紀の関係も続いているようだった。

「はい、もうすぐ制服も見に行くんです」

浩介もうちにくることが増えたせいか、大分心を開いてくれるようになった。笑顔も増え、康一との話も弾むようになっていた。

「背が高いから、きっと制服合わせるの大変よ」

カフェオレと、浩介が買ってきてくれたシュークリームをトレイに乗せてダイニングテーブルに運ぶ。こうして一緒に過ごすのがだんだん日常になってきている。あるとき美紀は「浩介は理子さんと一緒に過ごしているときのほうが自然体に見えて嫉妬しちゃうわ」と笑っていた。

「そうですか?」

「そうよ、普通の中学生はもっと小さいもの。きっとお父さんに似たのね」

そう言ってから、脳裏に和仁が蘇って私は少し心が痛んだ。私よりもずっと身長の高い和仁。そして、目の前にいるのは和仁の美紀の子供。浩介は、ただ一人の被害者。それなのに、私の前で屈託なく笑い、

「でも、これぐらいならクラスに結構いますよ」

とシュークリームを頬張った。

「最近の小学生は大きい子多いのかしら」

私はカフェオレのカップを取って、浩介がおいしそうにシュークリームを咀嚼する姿を見つめた。コーヒーと温かいミルクの香り。いつもなら、とても魅惑的な香りだ。だが、

「んっ……」

急に吐き気を覚えて私は立ち上がった。口元を押さえてトイレに走る。胃が痙攣しながらせり上がってくるような不快感。朝から何かと忙しく、何も口にしていなかったので出せるものはなかったが、便器に覆いかぶさるようにして吐き気がおさまるまでじっとしていた。

「おばさん、大丈夫?」

少し胃の不快感は残っているものの、吐き気はおさまってトイレから出ると浩介が水の入ったコップを携えて立っていた。

「ごめんなさい。勝手に冷蔵庫開けちゃった」

そう言って差し出してくれた水を受け取る。

「ありがとう……」

水を飲むと、胃に落ちていく冷たい感触が気持ちよかった。胃の不快感も大分落ち着く。だが、私の心はかなり動揺していた。

「大丈夫?」

浩介が背中をさすってくれる。

「うん、大丈夫」

そう答えながら、私はずっと心の中で激しく困惑していた。


「病院?」

 翌日、朝食をとりながら康一に病院へ行ってくると伝えると、そう言って訝しげな顔をされた。

「産婦人科へ行ってこようと思って」

「産婦人科?」

康一の声が刺々しさを増す。

「環境が変わって半年よ。そろそろ一度見てもらったほうがいいかと思って……」

康一は一瞬言葉に詰まり、眉間に皺を寄せた。引っ越してきてから、康一は私に指一本触れていない。困惑するのは当然だろう。

「そうか、分かった」

コーヒーを飲んで渋い顔をしながら康一が言った。コーヒーが苦いだけではないだろう。

「今夜は遅くなるんでしたっけ……」

「ああ、たぶん深夜だ。得意先の接待がある」

「わかりました。じゃあ、晩御飯はいりませんね」

「……」

そのあとの会話は続かなかった。


 康一を送り出した後、私はすぐに家を出る支度をして産婦人科へと向かった。電車に乗って駅を三つ行くと、以前検査をしてもらった産婦人科がある。近くのほうが楽なのだろうが、事情を知っている病院のほうが安心できる気がした。

「佐伯さん、お久しぶりですねー」

 呼ばれて診察室に入ると、以前から見てもらっている女性の医師がそう言って迎えてくれた。年齢は美紀と同じくらいだ。柔和で患者からの評判もいい。不妊治療に関しても、よく相談していた医師だった。

「今日はどうしましたか?」

「……先生、実は……」

事情を説明すると、医師はぱっと顔を輝かせた。そして、

「じゃあ、早速見てみましょうか」

と診察台へと促した。


「佐伯さん、お入りくださーい」

 待合室で待っていると、先ほど呼びに来た看護師と同じ女性がやってきた。同じ診察室へ入ると、医師が微笑んでいた。

「先生……」

「うん、佐伯さん。おめでとう。妊娠三カ月です」

その瞬間、胸の中で何とも言えない感情が湧き出した。ずっと妊娠しないと思っていた私のおなかに、今、新しい命が宿っている。念願の私の子。だが、それは出来てはいけない子。この半年、指一本触れてはいない夫の子ではない。この子は絶対に、和仁の子……。

「先生……」

「ただね、佐伯さん。あなたが妊娠しにくい体であるということは、同時に妊娠しても流産の可能性が高いということでもあるのよ」

それは想像しない一言だった。自分の顔からさっと血の気が引くのが分かる。そして、自分でも無意識に下腹部に手をやっていた。

「だから、生まれるまでは大事にしてあげないとダメよ。赤ちゃんもだけど、もちろんあなたの体も」

嬉しかった。この予想外の妊娠は、私を喜ばせた。と同時に、生まれてはいけない子であることが心を引き裂く悲しみを浮き彫りにさせた。康一の子ができるよりも嬉しかったのがより一層、今の私を再認識させた。

 私は今、和仁を一番に、愛している……。


 約束の時間ちょうどに和仁はやってきた。マスターがいつものように彼を迎え、

「お待ちですよ」

と私の座るボックス席を見る。

「ごめん。待ったかい?」

「いいえ、大丈夫」

「今日は飲めないんだ、残業と言ってきたから……」

「気にしないで」

マスターはいつものようにコースターと、今日は水の入ったグラスを置いた。私の前に置いてあるものも同じものだった。

「ごゆっくり」

事情はとっくに知っているはずなのに、マスターはそう言って微笑み、席を去っていく。

「急に会いたいなんて言うからびっくりしたよ」

しかし、和仁はそう言って微笑んでいた。私から呼び出す、ということがあまりないからだろう。

「ごめんなさい、突然」

「いや、全然大丈夫。でも珍しいから」

「……」

私はどう話しだそうか悩んだ。率直に伝えればいいのだろうが、どうしてもそれが出来ない。言葉を選んでいると、

「……なにか、あったのか」

と、顔色を察してかすぐに和仁が声をかけてくれた。康一とは違う優しさ。

「……私、前に話したでしょう。妊娠しにくい体だってこと」

美紀には話していない事実を和仁にはすでに打ち明けていた。それは一番最初の時だ。そういうことになる前に、話しておかなくてはと思ったのだ。彼はそれを聞いて、辛いだろう、と力強く抱きしめてくれた。あの、康一の冷たい無表情の横顔が浮かび、それとは相反する和仁の腕の暖かさが私を一瞬にして和仁の虜にした。そして、この愛を美紀も受けていることに嫉妬したものだ。その嫉妬は、今でも心の片隅に残っている。

 嫉妬できるような立場ではないのに……。

「ああ、ちゃんと覚えているよ」

机の上に置かれた私の手を取り、和仁がゆっくりと包み込む。

「もしかして、俺の子ができたのか……?」

私のそれにすぐ思い立ったのだろう。そう言って、優しく微笑んだ。

「私……どうしていいかわからないの……」

「?」

「私、産みたい……だって、あなたの子だもの。絶対に産みたいの。でも、この半年、夫とはずっと……なかったの。だから、この子が出来たことを伝えれば、私たちのことがきっとばれる。私だけが犠牲になるのはいいの。ただ、あなたとこの子に迷惑がかかってしまうのは……」

両目から熱いものが溢れ出る。同時に、心の底から様々な想いが溢れて涙と一緒に流れ出る。和仁はそれを受け止めるようにじっと私の手を包んだまま、話を聞いてくれていた。

「理子」

やっと落ち着きを取り戻したころ、和仁は静かに私の名を呼んだ。それに顔をあげると、すっとハンカチを差し出してくれた。

「俺は、あいつと別れるよ」

思っても見ない言葉に私は目を丸くした。だが、和仁は寂しそうに微笑んだ。それはまだ、心に迷いがあるようにも思えた。

「だからといって、君にご主人と別れろとは言わない。君の心が決まっているのなら、それに従えばいい。ただ、俺は美紀とは別れるつもりだ。これは、この半年で俺が決めたことだ。君が妊娠していなくても、近いうちに打ち明けるつもりだった」

「和仁さん……」

和仁は微笑み、私の左手にそっと唇を寄せた。それは手の甲ではなく、わざと、指輪をはめた薬指のすぐ隣、小指に触れた。そして、自分の指からは結婚指輪を抜いた。

「君が持っていてくれ」

テーブルの上に、ことりという音と共に置かれた銀色の指輪。

「三日後には、あの家を出るよ。君と離れてしまうのは、少し寂しいけどね」

そう言って、和仁は優しく微笑んだ。


 そして三日後、宣言通り、派手な夫婦喧嘩の後で和仁は家を出た。美紀の半狂乱になって叫ぶ声が私の家まで届いた。その時、浩介は私のところにいた。

「父さんと母さん、離婚するんだ」

浩介は他人事のように言った。そして、

「俺、出来れば父さんについて行きたかったな……」

と寂しそうに微笑んだ。それはとても深く、私の心に突き刺さった。その原因を作ってしまったのは、私なのだから。きっと。


「離婚してください」

 私の言葉に、康一は表情一つ変えなかった。ただ、

「どうして」

とだけ尋ねてきた。

「妊娠しました」

その一言が、自分でもぞっとするほど冷たかった。さすがの康一も、顔から血の気が引いた。

「妊娠……だと?」

「もちろん、あなたの子じゃありません。だって、ここにきてから指一本触れなかったものね」

「誰の子だ」

「……」

私は答えなかった。

「……好きにしろ」

康一の常套句。ばん、とテーブルを叩いて、リビングを出て行った。私は少しだけ、その場で泣いた。


 離婚届を書いてリビングテーブルに置き、私は自分の荷物をまとめた。思ったよりも必要な物が少なくて、荷支度はすぐに終わった。ボストンバッグを抱えてリビングに戻り、今一度家の中を見回す。

 すると、けたたましい着信音が部屋に響いた。電話を取ると、それは美紀だった。

「ねえ、ちょっとうちに来てくれない?」

突然のそれに私は嫌な予感がした。

「ごめんなさい……今日はちょっと」

「ね、いいの?本当に?」

美紀の言っている意味がよくわからなくて、私は言葉に詰まって黙りこむ。

「いいから、来て。ね」

意味深な笑いを残し、美紀は電話を切った。通話終了を教える電子音を聞きながら、行くか行くまいか、少し迷って受話器を置いた。康一から家を出て行ってから二時間近く。荷物を持って、私は和仁が待つホテルに行くつもりだった。


 数分後、私は原の表札の横にあるインターフォンを押していた。しかし、応答はない。来いと言っておいていないということはないだろう。私は鍵の掛かっていない玄関を開けた。

「美紀……さん」

おそるおそる家に上がり、何度となく訪れたリビングへ入る。すると、ソファに座る影を見つけた。こちらに背を向けているが、それは確かに美紀の背中だった。

「美紀さん」

私が声をかけても、美紀は振り返らなかった。あたりを見回すが、浩介の姿はない。今日は休日なのに、二階の自室にいるのだろうか。

「これ、見たわ」

突然、美紀がそう言って手をすっと顔の横へ出した。その手には、何枚かの紙があった。私が近づいて受け取るより前に、美紀はそれを床に落とした。スリッパの私の足元に、その紙が散らばる。それは数枚の写真だった。写っていたのは、私と和仁が一緒にいるところや、私が産婦人科へ入るところだった。

「探偵に頼んだのよ。そしたら、うちの旦那が違う探偵に頼んで私と康一さんとのことを調べさせたことも分かったわ」

美紀は自虐的に低く笑った。そして、ゆっくりと立ち上がって私のことを振り返った。その顔は、不思議なくらい穏やかな笑顔だった。

「いいのよ、あの人と別れることは。それに、浮気相手が理子さんでしょ?安心して別れられるわ」

「美紀さん……」

「だって裏切ったのは私と康一さんだものね。だからあなたたちが出来たって文句言えないもの。あなたたちもそれを確信してしたことでしょ?」

「それは……」

「いいのよ、言訳なんて。それに、あなた妊娠しにくい体なんですって?康一から聞いたわ。それが妊娠したなんて、いい話じゃない!おめでとう」

皮肉っぽく片側の口元だけを歪ませて美紀が笑う。その言葉一つひとつが心に突き刺さる。

「美紀さん、聞いて」

「だから、言訳なんて聞きたくないの。ここに呼び出したのは別に責めるつもりじゃないから大丈夫よ。ここに呼んだのは、あなたに話しておかなくちゃって思って」

「話す……」

美紀はゆっくりとまた座った。そして、私にもソファに座るように言った。落ち着かない私は、勧められるままソファに腰掛けた。

「話したいことっていうのはね、康一さんとのことよ」

「……」

「私と康一さんはね、浮気ではないわ。昔は本当に愛し合っていたのよ」

うっとりとした眼差しをローテーブルのあたりに彷徨わせて美紀は言った。何を言っているのか私にはまったく分からなかった。

「私ね、和仁と康一と、同時に付き合っていたことがあるの。今から十二年前の事よ」

「……!」

康一のことを呼び捨てにし始めたことで、美紀が過去にさかのぼって話していることはすぐ分かった。だが、私は急なその話についていけなかった。

「もちろん、康一との付き合いのほうが長いのよ。二年くらいかしら。和仁とは一年くらい。だからね、その時は浮気相手が和仁だったの。でもね、おなかに子供が出来たのよ」

「……浩介君……ね?」

「そう。どちらの子かは半分くらいの確率だった。だから、私は康一を捨てたの。だって、康一は年下で、年収もそのころ私より少なかったし子供なんて育てていけるような金銭的余裕はなかった。だから、そのころすでに営業でも成績優秀で、金銭的にも困らない和仁を選んだ……でも」

すっと美紀の瞳に暗い影が落ちる。

「私の心は康一に残ったままだった。和仁は優しかったけど、康一のあの冷たい瞳と、それに反する情熱が私を虜にしていた。だから、この子は絶対康一の子だって信じてた。そうじゃなかったら、きっと私は堕ろしていたわ」

ふふ、と声に出して笑う美紀の表情が恐ろしいものに見えて私は言葉を失っていた。

「和仁は戸惑ったみたいだけど、すぐに結婚を考えてくれた。そして、結婚して、浩介が生まれた。少ししてからね、友人に詳しい人がいるから浩介の親子鑑定をしてもらったのよ。そしたらね、私の思った通り、浩介は私と康一の子だった……!」

美紀は両手で自分の体を抱えるようにして微笑んだ。そして、

「大きくなっていくごとに、浩介は康一にどんどん似ていくの。自分で産んだ子だったけれど、怖いくらいだったわ……でも、私は浩介に康一を見ていた。和仁よりも、康一を愛しているように、浩介のことも愛していたの……」

私の脳裏に蘇る記憶。和仁との逢瀬に夢中で、忘却の彼方へと忘れ去られていたある夜の記憶が鮮やかに蘇った。

「ごめんなさい!俺は浩介じゃありません!コウイチです!ごめんなさい!」

全身を庇うようにして叫ぶ浩介の姿。泣きじゃくった、いつもの浩介とは結びつかないその姿を、私は今の今まで忘れていた。

「美紀さん……浩介君は……?」

私のそれに、美紀の微笑みはすっと消えた。冷たい光が瞳に宿る。

「浩介くんはどこにいるの!」

「……二階よ」

嫌な予感がして、私はまだ一度も上がったことのなかった二階へ駆け上がった。スリッパが途中で脱げてしまったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。手前から順番に部屋のドアを開けていく。浩介の部屋らしい子供部屋、客室、そして……

「浩介君!」

浩介は夫婦の寝室の、ベッドの上で半裸の状態でぐったりとしていた。うつ伏せの体勢なので顔が見えない。慌てて駆け寄り抱きかかえてみると、その顔は何度も殴られたのか赤黒く腫れ上がっていた。それだけではない。上半身には火傷や何かで引っかかれたような傷、打たれたような痕がいくつもあった。引掛けているだけのような下着とズボンの下も、おそらく似たような傷があるのだろう。

「大丈夫?浩介君」

浩介はぐったりとしたままでそれには答えなかった。ただ、かろうじて息はできているらしく、時々喘ぐように唇を開けて胸を上下させていた。

「和仁についていくって、言い出したのよ」

いつの間にか、美紀が後ろに立っていて私は驚いて振り返った。逆光で表情は読み取れないが、声はひどく冷たかった。

「本当の親がやっと揃ったっていうのに、和仁とあなたの方がいいんですって」

「……浩介君が?もしかして……」

くす、という笑い声。目の慣れてきた暗闇の中、美紀の口元が不気味に歪むのが見えた。

「洗いざらい教えてあげたわよ。お父さんはお隣の奥さんとエッチなことしてたのよ、って。それで子供ができちゃったから、お母さんとあなたを置いて出て行ったのよ、って。でも、浩介はお母さんのものだから大丈夫よね、本当の父親でもない男なんかいなくても、浩介は康一なんだから、康一と私の子なんだから……」

美紀の中で何かが混乱しているようだった。そして、私に語りかけるというよりは、ぐったりと私に体を預けている浩介に話しかけているようだった。

「理子さん」

突然名前を呼ばれ、全身が総毛立つ。

「私ね、妊娠したの」

頭上から、冷たい水が一気に降り注いだような気がした。一瞬、美紀の言葉が理解できなくて私の視界が白くなる。

「それは……康一、さんの?」

おそるおそる尋ねると、美紀は小さく首をかしげて苦笑した。

「分からないの。和仁ともしていたし、康一ともしていたし、もしかしたら……」

美紀の指がゆっくりと宙を彷徨う。そしてその指は私を指差した。

「浩介の子、かもね」

その指は、私ではなく、私の腕の中にいる、浩介を指差していた。

「み、美紀さん……あなた……」

私の動揺した声に、美紀は満足げだった。そして、その当たってほしくない推測のために、浩介のあの夜の言動に納得がいってしまった。


「ごめんなさい!俺は浩介じゃありません!コウイチです!ごめんなさい!」


 おそらく美紀は、私たちが越してくるずっと前から、浩介を康一と呼び、それに反発する浩介を虐待して、さらに性的虐待を加えていたのだ。

「だって仕方ないじゃない。康一を捨てたのは私だけど、この子は私と康一の子だもの。この子は康一なんだもの」

美紀が近づいてくる。手を伸ばし、浩介に触れようとする。私は咄嗟に浩介を庇って身を捩った。それに、美紀の表情が変わった。

「あなたは私から康一を奪って!浩介まで奪おうなんて!ふざけないでよ!康一も、浩介も……私のものよ!返してよ!」

「康一さんは私なんてもう見てないわ!だから私に指一本触れようとしなかったもの!」

「うるさい!紙切れ一枚で彼を独占しようなんて……!」

「待って、美紀さん!私たちは離婚を……」

「康一を離しなさいよっ!それは私のものよっ!」

髪を掴まれて思わず顔が仰け反る。だが、浩介を離すわけには行かなかった。裂けるような痛みが走る頭を必死に戻しながら、浩介をずっと抱き続けた。頭を、顔を、腹部を、背中を、壮絶な痛みが走る。

「助けて……」

小さく叫んだのは私ではなく、私の腕の中で意識を取り戻した浩介だった。


 気がつくと、目の前には真っ白な天井が広がっていた。自分の体が横になっていることを認識するまで、かなりの時間が掛かった。脳震盪か何かを起こしているのか、目の前がぐにゃりぐにゃりと変な歪み方をする。眩暈をこらえて体を起こそうとするが、そのとたん手足といわず全身に、今まで感じたことのない痛みを感じて思わず呻いていた。

「理子さんっ!」

右手に暖かい感触を感じ、首を動かすことができずに視線だけでそちらを見やると、自分のひじから上がベッドから生えているように見えた。その手には見たことのないくらい包帯が巻かれている。テレビで見たミイラみたいだ、と少しおかしくなった。そして、その手を握っていたのは、他でもない和仁だった。

「和仁、さん……」

喉が渇いていて言葉が絡みつく。それを察してか、和仁が急須のような水のみを口に入れてくれた。それを少し飲むと、やっと生きた心地が戻ってきた。

「ここは……どこ?」

「市立中央病院だよ」

「病院……?」

「隣の病室には浩介もいる」

浩介、という響きに、自分が何故病院にいるのか検討がついた。美紀に殴られながら意識を失い、それから一度も目覚めなかったのだろう。

「三日、意識がなかったんだ。もう、起きなかったらどうしようかと……」

和仁はそう言って私の手をまた握り、唇に押し当てた。暖かい和仁の温度が私の中に広がっていく。

「浩介くん……は?」

「意識はもう回復している。ただ、精神的なショックのほうが大きいらしい。そっちのリハビリのほうが大変だろうって話だ。俺も大体のことは……もう聞いているよ」

和仁はそう言ってからベッドに視線を落とした。私も、静かにあの日のことを思い出す。美紀に殴られながら、必死で守った浩介は、今回のことで一番の被害者だったのだ。今回だけではない。何年も前から、いや生まれたときからずっと。

「理子……」

和仁がまっすぐ私を見つめていた。

「助けてくれたの、和仁さんでしょう……?」

薄れ行く意識の中、浩介の「助けて」という悲痛な叫びと、和仁の怒号を聞いた気がしたのだ。まず真っ先に私の体を抱いてくれたのは、あの体温は、今手の平から感じている温もりだった気がした。

「君が、荷物をまとめたらすぐ来るといっていたのにこないから、様子を見に行ったんだ」

そこで、自分の家から妙な音がしているのに気が付き、玄関に私の靴があったのを見て慌てて物音のするほうへ行くと、美紀が意識を失い始めた私と、浩介を暴行しているのを見つけたのだと、和仁は教えてくれた。

「ありがとう……」

痛む頬をゆっくりと持ち上げながら、私はできるだけ明るく笑顔を作ろうと努力した。だが、顔にも巻かれているらしい包帯が引っかかって、うまく笑うことができなかった。それでも和仁は私のそれに気がついて、とても悲しい目をしてから微笑み、

「これからは絶対に苦しめないから……だからずっと、一緒に、そばにいてくれ……」

と優しく私の体を包んでくれた。


 美紀は、傷害致傷で逮捕された。

 康一は、美紀を待つ、と言って離婚届にサインと判を押してくれた。浩介が自分の子供であるらしいことは、なんとなく察していたのだと言っていた。それは、美紀と連絡がつかなくなっていた頃、もう十二年前になるが、つてを使って聞いた話で、美紀が妊娠し、結婚したということを聞いたときから、自分が二股をかけられていたらしいこと、その子供がもしかしたら自分の子であるかもしれないことは予想していたのだそうだ。

 そして、和仁と私は数ヶ月の同棲のあと、再婚した。


「ただいま!」

 そんな声がして私は玄関へ出た。制服に身を包んだ浩介が、スニーカーを脱ぎ散らかしているところだった。

「ああ、もう!ちゃんと靴をそろえなさい!」

「はーい」

渋々浩介がスニーカーを揃えて洗面所へと入る。

「そこにクッキーが出てるから食べていいわよ」

手を洗ってリビングに入った浩介にそう言うと、彼はすでにそのクッキーをかじってテレビのスイッチを入れていた。音量をすぐに絞る。

「ワコ、寝てるんでしょ?」

「うん、ありがとう」

浩介はあの一件以来、しばらく心を閉ざしたままだった。だが、閉ざす原因となった美紀がいなくなったことや、和仁と私の再婚後に引き取ったこと、そして何よりあのとき奇跡的に助かった私の中の子供が生まれ、歳は離れているが妹ができたことで浩介は徐々に精神的な部分を克服していった。

 あれから二年の時が過ぎていた。浩介は十四歳、四月がくれば中学三年生になる。生まれた娘、和子も一歳五ヶ月を迎えていた。

「ワコー」

クッキーを何枚か食べ終えた浩介が、和子の名前を呼びながら寝室へ消える。夕飯の支度をしていたので手を止めずにいたが、浩介の「お前はかわいいなあ」という声が聞こえて私は微笑んでいた。

 望んでいた幸せだった。一番愛する和仁と、浩介と、和仁との間にできた、念願の娘の和子。今はマンション暮らしだが、十分満足していた。和仁は浩介を引き取っても、和子が生まれても、私を妻とし、母とし、そして女性として愛してくれている。

 ただ、私の中に、あの一件以来、暗い影が残るのは事実だった。


 七時半ごろ、和仁が帰宅したので全員で夕飯になった。私と再婚してから、和仁はなるべく残業にならないよう帰宅してくれるようになった。会社では、あの原さんが子供の写真を持ち歩いている、と噂になったらしい。ただそれは事実で、和仁の定期入れには私と浩介、和子が三人で写った写真がいつも入っていた。和子が生まれたばかりの病室で和仁が撮ってくれたものだ。それを同期の社員数名に見せたことが噂の発端らしかった。時折その社員たちを呼んで家で食事をしたりすると、

「原さんって、本当に奥さんと子供に弱いですよね。家と会社じゃ顔が全く違いますよ」

とからかわれている。

「浩介、お前進路そろそろ進路決めたのか」

食事をし始めると、最近は決まって和仁が浩介にそう尋ねる。

「耳たこ。でも、工業高校に行こうかと思って。今日どうせ聞かれると思ったからさ」

「工業かぁ……工業ねぇ…」

和仁は納得いかないらしく、食事をする手を止めて腕を組んだ。

「なんだよ」

「この地区の工業高校は競争率が激しいんだぞ。倍率知ってるのか?」

「和仁さん、それは大丈夫よ。浩介の成績、知ってる?」

「知ってはいるよ。でもなぁ……」

「大丈夫。学校の先生も、推薦枠で入ったって大丈夫って言ってくれたから」

浩介はその話をすでに予想していたらしく、にやりと笑ってピースサインを出して見せた。

「浩介がちゃんと考えたんだったら大丈夫よ。頑張って」

「ありがとう、お母さん」

浩介の笑顔が輝いて、私も嬉しかった。


 その夜、私は寝付くことができずにリビングで過ごしていた。この時期になると、どうしてもあのことが思い出されて寝付けない日が続く。耳の奥に、美紀の言葉がまるでついさっきのように思い出される。

「この子は私と康一の子だもの。この子は康一なんだもの」

私はいつの間にか浩介の部屋の前に来ていた。そっとドアを開け、眠る浩介の姿を遠めに見つめる。この子は、私と和仁が傷つく前から、すでに康一と美紀の子として生を受けていたのだ。最近の浩介は、あの冷たい瞳や言動はほとんど見せない。血のつながりが全くない私たちに、本当の親のように接してくれる。それは私たちの心の支えが浩介に届いたからだと、リハビリの医師は言っていた。

だが、時折ふと見え隠れする康一の面影が、私に嫌な想いを抱かせる。

部屋に入り、ベッドのそばまで行くと、寝息を立てる浩介の項が布団から見えていた。浩介は、本当のことを知っている。知っている上で、私を「お母さん」と呼ぶ。私は母親でもなんでもないのに。本当の母親の昔愛した男、本当の父親を、奪って、義理の父親さえも奪って、私は今、母親という場所に立っている。一番、愛される形で。無限の後悔。これは、自分が幸せになっていいのかという疑問が根源の葛藤。そして、生まれてきたことが罪であったこの子の……。

私の両手が、浩介の項のすぐ側まで伸びていた。甘美な果実に手を伸ばしかけ、はっとして私はその両手で自分の両腕を抱えた。

浩介が寝返りを打つ。眉間に皺を寄せ、小さく唸る。その寝顔が康一のものと重なる。そして、美紀の言葉が蘇る。

大きくなっていくごとに、浩介は康一にどんどん似ていくの」

その言葉どおり、一年一年、歳を重ねるごとに浩介は康一に似ていく。日に日に増していく、私の黒い想い。

 あの二人のせいで、私たちはこんな想いを。

 あの二人の子のせいで、私たちはこんな想いを。

それは、楽園でイヴに禁断の果実を食べさせようと誘う蛇のようだ。ゆっくりと首をもたげて、この子さえいなくなれば、私の罪の意識は消えるのだと、幸せに生きても罪の意識など感じることなどないのだと、そう囁く。

「理子」

突然名前を呼ばれて、驚いて振り返ると和仁が立っていた。

「和仁さん……」

「疲れているんだよ、きっと。おいで」

和仁に伴われて寝室へ戻る。こんな夜は、和仁は必ず一緒のベッドで眠ってくれた。すっぽりと和仁の体温に包まれて、ようやく落ち着きを取り戻す。

「私ね、妊娠したの」

睡魔に襲われながら、朧になっていく私の意識の中で美紀が囁いた。彼女は一体、誰の子を産んだのだろうか。彼女の子が一体どうなったのか、私は知らない。

 その子もきっと蛇なのだろうなと、思ったところで意識は途絶えた。


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