後篇
部室のドアを開けるとまず目に入る目障りな奴。
「……吉野」
「ハラサワ今日早いじゃん」
天真爛漫な笑顔の吉野。何も無くてもコイツは毎日楽しそうだな。その精神力だけは尊敬するよ。精神力だけ。
「オマエ、俺がどんなに早く来ても居るだろう。授業は」
「は?出て無いに決まってんじゃん」
当然だろ、とでも言いたげな声音を聞かされて、絶望する。
「いや部活に出られないのは分かるが、せめて授業は出ろ」
「えー。だって意味無いしー?」
どこまでも腹立たしいな。余裕じみたその表情が一番ムカつく。全く暇人は気楽なものだ。それで本人だけが暇で困っているならまだ良い。問題は、その暇オーラが周囲の人間の精神に多大なるダメージを与えるという事だ。
「吉野、足を揺らすな。だるいオーラを出すな。これ以上俺の創作意欲を削らないでくれ」
「えー、ハラサワ自分勝手だなー」
「オマエだけには言われたくない言葉だぞそれは」
パソコンの電源が入るまで待ちながら、どうやってコイツを追い出そうかと作戦を練る。武力行使で物理的に放り出せれば良いのだが、残念ながらそれは敵わない。さて、どうしたものか。
だいたい話を書き始めようにも、横からごちゃごちゃ喋られたのでは、まともに文章も考えられない。何やら雑音がする中で良い文章を書くのは、それはそれは至難の業なのだ。まあこの文芸部にそれができる人間が約一名居らっしゃるのだが。
「澤ちゃーん!」
廊下から聞こえた間延びした声に、吉野がびくりと肩を震わせた。ああそうか。コイツは部長が苦手だからな。部長を呼んでくるのが、コイツを追い出すのには一番の方法になるのか。
「澤ちゃーん、居るでしょー?」
「やべっ、部長さん! ハラサワ、オ、オレちょいと散歩してくるわ!」
焦った吉野はつむじ風の如くドアの方へ駆けて行き、後方のドアから部長が入って来ると同時に、前方のドアから廊下へ飛び出した。間一髪。
「あ、やっぱり居たあ。ところで今誰か廊下走って行かなかった?」
「知らないですよ。だいたいこんなに不便な最上階で走り回る奴なんて、居る訳無いじゃないですか」
実際にはあの馬鹿が居るがな。
「そかー」
うむうむと頷いて、俺の隣のパソコンを立ち上げる部長。どうやら上手く誤魔化せたようだ。一件落着。そして彼女はパソコンの脇にノートを広げ、その手元でキーボードが軽快なリズムを刻みだす。執筆時間の開始だ。
「澤ちゃん、付き合ってもらって良い? 今日他の子達来れないみたいだから」
「ああ、別に問題無いですよ」
「ありがとおー」
ふふっと満足げに笑って、画面を見つめる部長。しばらくは沈黙が続く。互いに集中力を乱す事は無い。ただひたすらに自身の脳内に作り上げたストーリーを文字へ、形へ、変えてゆくだけだ。だが、部長の場合、それが少し違うのだ。
「……澤ちゃん」
来た。視線は画面に、指はキーボードに置いたまま、部長は俺を呼ぶ。
「もし人が死んじゃったら、その人は何処に行くと思う?」
「何処に行くか……ですか」
「死後の世界って事だよ」
先程言った『それができる人間』、つまり雑音の中で執筆ができる人間、というのがまさにこの人なのだ。部長が書く物語は、それはそれは好評で、読みやすくしかも感動がある。知らない内に読者を引き込む、時間を忘れさせる。賞にでも応募してみたらどうかと俺は提案するのだが、面倒くさいの一点張りで、彼女は決して驕らない。
そんな彼女が、彼女らしい話を書く為に必要不可欠なのが、この『執筆中の議論』だ。文章を書きながらも、彼女の頭の中にはまだ新たな発想が浮かんでくるらしい。それについて考え、あわよくば話に混ぜ込む。それによってより良い作品を作り上げる。部長の特技であり、特徴でもあるこれに付き合わされた場合には、自分自身が思う事を正直に答え、彼女の価値観に刺激を与える事が義務とされる。部員達は嫌がるが、俺としては割と楽しいものだと思うのだ。
「人は死んだらどうなるのかー?」
「また重い内容を選びましたね」
「いやあ……ほら、君のクラスの子。交通事故で亡くなったでしょ。だから」
「ああ」
納得した。だが、死んだ事の無い俺には、分からない話だ。想像する事もしないし、世界があるとも信じない。
「意識が無くなり、心の臓も止まり、体は焼かれて骨だけになり埋葬される。そこに世界も何も無いと思いますよ」
「やっぱそう来るかー」
「当たり前です。死んだ事なんてありませんから。……ただ、」
「ただ?」
一瞬部長が俺を見た。疑問を含んだ視線。けれどキーボードを叩くリズミカルな音は続く。ずっと、続いている。
「……ただ、まだ生きたい、という意志が強い場合には、魂だけでこの世にとどまり彷徨うんじゃないですか」
「つまり、幽霊って事?」
「そういう事ですかね」
「じゃあ、幽霊には足ってあると思う?」
「魂だけですから、無いでしょう。勿論透けますしね」
カタン、と一つの音を残して、部室が大きな静寂に包まれた。俺は驚く。何故なら部長が行き詰まった時以外で、執筆を中断する事は今までに見た事が無かったから。恐る恐る、彼女の顔色を窺うと、その顔には何やら嬉しそうな笑みが広がっていた。
「澤ちゃんでもそんな事、考えんだね」
「そんな事?」
「そんな妄想じみた事。やっぱりさ、あたしがここ最近気になってたアレは……」
「!」
言いかけた部長を一人残し、俺は鞄をひっつかんで部室を飛び出した。やはり、あの人はただ者じゃない。何だか不思議な所がある人だと、やけにカンが冴える人だと思ってはいたが、まさか、まさかな。それにしても、ガラにも無く取り乱してしまった。今日の所はもう、このまま帰るとしよう。
昇降口を出た所、グラウンドを見下ろせる石のベンチに吉野の姿があった。眼下に広がるサッカー部の練習を見ながら、ぼんやりとしている。時折思い出した様にまばたきを繰り返しては、またぼんやり。何だか、らしくない。元気が無いな。
「吉野」
呼び掛けたが返事は無い。
「おい吉野」
「……んあ、ハラサワ。執筆は?」
「今日はもう帰る。オマエはどうしたんだ、やけにぼんやりして」
吉野は笑った。サッカー部の喧騒を一瞥して、俺に下手な作り笑いを向けた。
「ちょとアレだよ、センチメートル」
「何の長さだ。センチメンタル、だろ」
「そう、それそれ」
……今のボケは本物だったな。元気が無いのかあるのか分かりにくい奴だ。帰ろうと足を踏み出すと、立ち上がって付いて来た。駅まで来るのか? の問いに黙って頷くコイツは、やはり変だ。まあ、俺は理由を察せないくらい馬鹿では無いから、おおよその原因は分かっているつもりだ。
「あー……サッカーやりてーなー」
「だろうな」
「オレほら、エースだったし。超上手かったしな!」
「自分で言うか」
「いいじゃん。言わせろよ、こんくらい」
もうできないんだからさ、と言葉と共に視線を足元に落とす。一歩一歩と前に出るその足を見つめ、彼は大袈裟に顔をしかめた。たがが元部の練習を見た程度で、と言う感じだが、これは仕方の無い事だ。吉野の落ち込み具合も頷ける。同時に、合点がいった。
「オマエが俺達の部室に居たのは、部の練習を見ない為だったんだな」
「おう」
「そういえば『グラウンドから一番遠いから』とも言っていた」
なるほどな。それが分かると、少し申し訳ない気持ちにならなくもない。部室から追い出すだとか、そんな事を考えた自分に自己嫌悪。だが半分は部長のせいだな。間違い無い。
「そーいや、部長さん何か言ってた?」
「廊下を誰かが走って行かなかったか、と聞かれたから誤魔化しておいた」
オマエの事、ずっと前から多分気付いてるぞ、の言葉は飲み込んだ。きっと言わない方が良い。
「それは良かった」
ホント何なんだよあの部長さん、と。そんな呟きが聞こえた気がした。
信号が赤に変わり、立ち止まる。会話が途切れたせいで顔を出した嫌な沈黙を避ける様に、俺は空を見上げた。一面の曇り空。せっかくの夕焼けが、雲に覆われていまいちである。昨日はあんなに晴れていたのに。あんなに透き通って美しい夕焼けだったのに。邪魔だな。醜いものは本当に邪魔だ。
「なあ吉野」
「んー?」
「さっき部長に、死後の世界はどうなっていると思うか、と聞かれた」
「え。……やっぱ部長さんこえー」
参った、と肩をすくめて、吉野は言った。
「で、ハラサワは何て答えたんだ?」
「意識が無くなり、心の臓も止まり、体は焼かれて骨だけになり埋葬される。そこに世界も何も無い。そう答えた」
「相変わらず夢ねぇ答だなー!」
爆笑された。そこまで面白い事を言ったつもりは無かったのだが。けれど、今回の吉野はすぐに表情を暗くした。自嘲気味に笑って、空に手をかざす。
「……まあ、確かに。死んだら夢も何もねぇよなー」
冷めきって乾いた笑い。全く愉快そうでない、張り付けた様な笑い。もしかしたらコイツは、今までこの偽物を隠す為に、馬鹿の様に笑っていたのだろうか。そんな事を、思った。
「吉野は、どう思う。死後の世界について」
「さあ?」
「おい真面目に答えろよ」
「えー……」
肩をすくめ、おどけてみせられたが俺は至って真剣にその問いの答えを待った。それを感じたか、彼は急に表情を引き締め、そして両手の平を上に向けて腕を真っすぐに伸ばした。
「こんな感じ」
「だからオマエ、ちゃんと答えろと」
「いやいやマジメに」
開いた手の平をぐっと握る。そこには何も無いというのに、まるで何かを掴み取る様に、失くした何かを、掴み取る様に。そのまま体へと引き寄せる。この世の全てを引き戻そうとしていると、俺はそう思った。
「何も無い。空っぽ。どこまでも透明で、透き通っていて、遠くまで見渡せるのに先が見えない。つまらない所だとオレは思うよ、この世の方が絶対いいって」
「それは違う」
即座に否定した。何故ならこれは俺が決して曲げる事の無い持論だから。
「あの世に行った事の無い俺でも分かる。例え死後に待っているのが地獄だったとしても、絶対にあの世の方が良いに決まっている」
「……何で?」
「人間が居るからだ。人間には感情がある。オマエはあの世には何も無いと言ったな。ならば感情も存在しないんだろう? 感情が存在しなければ、欲は生まれない。同時に欲が生まれなければ、争いも起きない。誰もが自分自身の事だけに囚われて腐る事も無い。こんな世の中より、絶対に美しいに決まってる」
「ったく、考える事が難しいなーハラサワは」
やれやれと言いたげなため息と共に、吉野は頭を掻く。軽く息を吸って、吐いて。真っすぐに俺を見て、アイツは言った。
「ここにある全部が美しいって、オレはそう思うよ」
その言葉には、一欠片の迷いも無かった。本当に、心の底からそう思っている事が伝わってくる。吉野の価値観の全てが、そこに込められていると思った。でも、それでも理解できなかった。本当に美しいと言えるのは、何も無い、何も存在しない、まっさらな地のはずなのに。
「確かに人間は生きてると悪い感情を持て余す。溢れ出たそれは、この世を汚すかもしれない。でもさ、それって……『生きてるからこそ』だろ?」
吉野が掴んだ空気には何も無い。何処までも透明で、透き通っいて、遠くまで見渡せるのに先が見えない。それこそが、一番だと。そう思っていたのに。
「死んじまったら、夢も希望も、欲も恨みも、何にも無くなるんだぜ? それどころじゃない。繋がりも全部消えて、何にも触れられなくなる。忘れられる。空っぽってのは、お前が想像するほどいいモンじゃねえんだよ、これが」
苦しそうに絞り出した吉野の声は、踏切を駆け抜けた電車の音に掻き消されそうで、届かなくなりそうで。それなのに俺とコイツの間には、見えない壁が、分厚い壁が立ちはだかっていて、俺には見えない。吉野の見ているモノが。俺には理解できない。吉野が考える事が。
「オマエの言いたい事は……正直よく分からない」
「……だろーな」
「だが、理解したいとは思う」
ふっと吉野が息を吐き出した。微かに笑っている様な、そんな横顔。
「……それはどうも」
アイツにできなくて、俺に出来る事。俺が知らなくて、アイツが知っている事。不本意な形で俺達の部室に居座る様になったコイツと、好きでそこに通い詰める俺が、何か共有することができたなら、できるなら。
「オマエは物事をよく考えているのか、そうでないのかよく分からない。食えない奴だ」
「さんきゅー」
「褒めていない」
正反対の俺達が、真逆の俺達が、景色を共有する事でいつか分かりあえるなら、コイツも少しは浮かばれるのではないかと思う。
「そーいやさ、原稿結局オッケーもらったんかよ?」
「いや、これから書く」
「おい」
ポケットから取り出した手帳を開き、一番新しいページを吉野に見せる。例の交通事故のあった現場で俺が書き留めた、全く持って俺らしくない一文。
「ここから物語にしていこうと思うんだが」
小さい字が読みにくいのか、眉をひそめて俺の示した一文を覗き込んでいた吉野は次の瞬間に、今まで影のかかっていた表情を、いつもの明るい笑顔に戻して言った。
「いいんじゃねえの?」
「だろう?」
満足げに笑い合って、俺は手帳を閉じる。
「もう駅だからここで」
「あ、待った」
改札をくぐろうとした俺を吉野が引きとめた。珍しい事だと立ち止まって振り返る。
「別れの挨拶ってさ、今までお前とまともに交わした事無いなって思って」
「『さようなら』か?」
「それは何か嫌だな」
葬式でも言うからさ、と呟いて苦笑いを浮かべる。
「だが『また明日』というのはオマエにとって不確かな言葉じゃないのか」
へらっと笑って、吉野は両手を広げた。
「確かにそうだけど、でもほら。……もう別にいいじゃん?」
「……それもそうか」
沢山の学生が行き交う改札口で、俺達は確かにそこで向かい合っていた。
「「また、明日」」
再会を前提とした挨拶。これは結構勇気のいる言葉だな、なんて考えながらホームに立った。電車が入って来る。書きたい事はまとまった。家に帰ったら原稿を書き始めるとしよう。
『死んで幽霊になった人間は、いつかこの世から忘れられてしまうのだろうか? その時は俺が話し相手くらいには、なってやろうと思う』
電信柱のふもとで手帳にそっと書きこんだその一文を、完璧な文章に、そして完璧な現実にする事を考えながら、俺は車窓から曇り空の夕焼けを見上げて、目を閉じた。
交通事故に遭って死んでしまった不運な吉野。きっとアイツにはまだまだやりたい事があっただろう。だから残ってしまったのだ、この世に。誰にも見えなくても、聞こえなくても、俺はしっかり覚えていてやるよ。それにきっと部長も実は見えているんだろうな。底が知れない人だ。
それに俺は言っただろう。
『自分の目で見た物の事しか考えないし、信じない』
……どうやら昔から、霊感は強いらしいんだ。
それにしても曇り空の夕焼けは、茜色が雲の間で青にも紫にも変化して見えて、なかなかに美しいものだな。
了