#40:踏み出す一歩
「いってぇ…まだ血ぃ出てる…」
「自業自得ッスよ。病院行って縫って貰います?」
「…良い。」
遊弦に差し出された缶コーヒーを受け取って、柳は頬に当てた。
殴られて熱を持った頬が冷え、心地よい。
呆れたように溜め息を吐き出した遊弦はその隣に腰を下ろした。
「普段優しい人ほど怒らすと怖ぇえよなぁ…」
「それはうちの課長の事ッスか?」
「おー…」
薄暗い公園の照明でも解るくらいに、柳の頬は赤くなっていた。
明日にはきっと腫れているだろう。
「碧さんの事だけですよ、あの人が怒ンの。」
「…へぇ」
「それより…」
遊弦が柳を見据える。
頬を冷やしたまま、柳は視線を遊弦へ向けた。
「別れたんスか?」
「まーな。」
「何で…」
「色々有るんだよ、大人には…」
ふてくされた様に柳がそっぽ向く。
納得いかなさげな雰囲気を出してはいるが、その横顔は今までで一番穏やかだった。
「その割にはすっきりした顔してますよ?」
「うっせーよ…それより、お前も…」
遊弦の位置からはその表情を窺う事は出来ないが、柳の声に真剣さが混じる。
「俺に喧嘩売ってから大分経つけど、進展してんの?」
「…それは…」
「うかうかしてっと、攫われるんじゃねぇか?あの人こそ手強いと思うけど…」
確かに御堂が本気になったら手強い。
そう仕向けたのは間違い無く自分で。
「ま、俺はこれで一歩引かなきゃいけなくなった。言うこと言ったから、あとはアイツの判断待つだけだ…チャンスじゃねぇか…」
「…っ、」
確かにそうだ。
なのに何処か心の奥には引っ掛かるものがあった。
そんな遊弦の心情を読んだのか、柳が鼻で笑った。
「お前、まともに恋愛した事ねぇだろ?」
「!」
「その顔だとロクでもない女ばっか寄ってきそうだもんな?」
心当たりが有りすぎて柳の皮肉に、何も言い返す事は出来なかった。
今まで遊弦の周りには、遊弦の外見を求める人間しか居なかったから。
寄ってきた人間と適当に付き合って、飽きたら別れて。
それの繰り返し。
自分から誰かを求めたのは初めてなのだ。
黙り込んでしまった遊弦の横で、柳が手の中で弄んでいた缶コーヒーを開けた。
場の空気を変えるように、小気味良い音が響く。
柳の顔が遊弦の方へゆっくり向けられた。
正面から窺うその表情は、やはり真剣なものだった。
「野球で言えば…」
「…は?」
吐き出された言葉が余りにも表情と不釣り合いで。
遊弦は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
しかし、柳はそれに構わず続ける。
「御堂さんは、変化球とか器用に投げそうなピッチャーだよな。」
「はぁ…」
「で、お前は直球ド真ん中ストレートでしか勝負出来ない奴。」
「!」
柳の例えは的を射ていた。
的確過ぎて何も言い返せない程に。
ー お前よりは、可能性あると思うけど?
ー 好き好き言うだけやったら、アイツは落ちへんで?
不意に御堂の言葉を思い出す。
あの時は、それを聞いても特に何も思わなかった。
好きなだけで、全てが報われると信じて疑わなかった。
残酷な現実を突きつけられる迄は。
ー 遊弦の気持ちには、答えられない…
どうしたら良いのか解らず。
かといって、諦める事も出来ず。
全てを裏切って出し抜く事も出来ず。
何がフェアで、何がアンフェアなのか、乏しい経験では解らなくて。
ただ藻掻いているだけだ。
「そうかも…しれないッスね…」
辛うじて吐き出した言葉は掠れていた。
言葉にすれば情けなさが余計に膨れ上がる。
そんな遊弦の心の内を知ってか知らずか、クスリと柳が笑った。
「それがお前の持ち味じゃねぇの?」
「…でも、上手くいかないじゃないッスか…アンタにも御堂さんにも勝てない…」
「当然だ。お前が迷って動いてねぇからな」
「それは…っ、」
「迷うなら、今ここできっぱり諦めちまえ。その方が楽だ…」
諦める、という選択肢。
それは悩む度に出てきた。
しかし…
「それは、無理だ…」
「じゃあ、悔いが残らねぇように動け。今のお前…何か苛々すんだよ。」
「っ、俺の事なんか良く知らねぇ癖に…」
「まるっきり知らねぇ訳でも無い…アイツから聞いたからな。」
「…!」
「内容は教えねー。腹立つし、」
悪戯っ子のように笑うと、柳は立ち上がった。
尻に付いた砂を軽く払い出口へ向かって歩き出す。
遊弦もその後を追い掛けた。
「柳さん…!」
「んぁ?」
「これからッスよ、俺の本気…」
「…楽しみだな、そりゃ」
去っていく背中を見送り、遊弦はゆっくり空を見上げた。
(このままじゃ…駄目だ、)
迷いを断ち切るように頭を振る。
踏み出した一歩は、心なしか軽くなっていた。