#33:契約
夜の誰も居ないオフィス。
二つの影が向かい合う。
「来てくれたんですね、」
嬉しそうに彼女は笑った。
まるで反省の色が無い彼女に、少し背筋が寒くなるものを感じた。
「…約束やからな…」
手が伸びてきて、首に回される。
妖艶に笑う藤森の唇を、御堂は黙って受け入れた。
「どんな感じですか?大嫌いな奴の言いなりになるのって。」
「…」
御堂は何も答えない。
まるで心を殺してしまったかのように。
藤森は笑みを更に深めた。
「あは、つれないですねぇ…」
「勘違いすんなや…これは『契約』や。」
「はいはい。今後一切葉山には何もしない事…ですよね?」
あの日、病院へ見舞いに行った遊弦を見送った後。
御堂は藤森を呼び出した。
いくら碧を休ませたからといって、それはその場しのぎにしかならない。
根本的な所を抑えなければ、結局は同じだと考えたからだ。
幸いにも藤森の目的は御堂だった。
ならば答えは簡単だ。
『契約、せえへんか…?』
『契約?』
『今後一切、葉山に手を出さん…勿論お前の手下もや。』
藤森が御堂の意図を読み取り、ニヤリと笑った。
『そしたら、御堂さんは私のものになってくれるんですよね?』
『あぁ。俺のプライベートは全てお前にくれてやるわ』
『プライベート』と区切ったのは、せめてもの足掻きだ。
理解したのか、藤森は小さく肩を竦めた。
『良いですよ…じゃあ…』
綺麗に彩られた指で、藤森は自分の唇を指す。
『契約、成立のしるしにキス…御堂さんからしてください。』
『…』
一瞬、碧の顔が頭に浮かび御堂は躊躇う。
それに気付いた藤森が鼻で笑った。
『…出来ないんですか?こんなの序の口ですよ?』
『…っ、』
『これから先、葉山を好きな限り…キスもセックスも私としか出来ない…そーゆう契約ですよね?』
碧を好きな限り。
報われない方程式だ。
しかし、これが最善の策だと思った。
意を決して御堂は藤森に口付ける。
その瞬間に自分の気持ちを全て封じ込める事を決めたのだ。
今も藤森の手は妖しく動き、御堂のネクタイを緩めていく。
「抱け」という事だろう。
逆らう事は出来ない。
御堂が藤森の腕を掴み、自分の方へ引き寄せた時。
急に反作用の力が働き、それが阻止された。
「何、してるんですか…?」
「…秋月、」
藤森を後ろへ引き剥がしたのは遊弦だった。
驚いたように目を丸くしている2人を、鋭い視線で彼は睨み付ける。
その視線につまらなさそうに髪を束ねると、藤森はオフィスを出て行った。
「お前、まだ残ってたんか…」
「携帯、忘れたんで取りに来ただけッスよ。」
遊弦の目が細められる。
「藤森に鞍替えッスか?」
「!?」
違う、と叫びたかった。
しかしそれは出来ない。
唇を噛み、御堂は視線を逸らした。
「御堂さんは…もっと利口だと思ってました…」
「…っ、さいわ…」
本当はこの選択が正しく無い、というのは御堂が一番解っていた。
しかし正しく無くても、碧の身を守れるなら良いと思ったのだ。
「俺には出来ない芸当っすよ…『身売り』なんて…」
嫌な言い方だが、それは的を射ていた。
御堂は僅かに眉を顰める。
「でも、そんなの…アイツを好きでいれないなら意味無いんじゃないですか?」
遊弦の言う事は一々正論だ。
しかしだからと言ってそれを漫然と受け取れる程若くはない。
ならば、これで良かったのだと自分に言い聞かせるしかないのだ。
「…後、10歳若かったら…お前みたいに足掻けたかもしれんな…」
「一生、藤森の奴隷になるつもりですか?」
「俺の身一つで解決するなら、構わん…」
そもそもあの日、彼女を最後に抱きしめて終わりにするつもりだったのだから。
「信じらんねぇ…それじゃああまりにもアンタが不幸だ…!」
「優しいなぁ、秋月は。ライバル1人減ってラッキー、くらい思っとけや。」
「…ッ、」
唇を噛みしめ、何か言いたげな目を遊弦は御堂に向ける。
首を振ってそれを制すると、御堂は遊弦の肩を押してオフィスから出て行った。
ゆっくりと閉まるドア。
残された遊弦はそれを思い切り殴りつけた。
大袈裟な音が、静かな空間にはやけに響いて聞こえた。