後日談
その後のふたり。
“番外編”でございます。
頻繁に開けるようになった二階の窓から、最近は焦げくさくて少し甘ったるいような不思議な匂いが冬の風といっしょに届いてくるようになった。
仕事の帰りに、お隣さんを見かけた。ひとりだけジャージ姿で、行列ができるクレープ屋さんに並んでいる彼女はかなり目立っている。周りの好奇の視線なんて気にも止めず、凛と立っている横顔は相変わらずかっこよかった。
声をかけようと思ったけど、
「バナナチョコ…生クリーム多めで」
注文する横顔が恥ずかしげに赤く染まっていたから、そっとしておくことにした。あれ?そういえば、甘いものは苦手だって言ってなかったっけか?もしや、甘いもの克服中なのか?
また次の日、かわいい看板のケーキ屋でお隣さんを見かけた。今度は、ばっちりと目が合ってしまった。お隣さんは、気持ちのいいくらいの舌打ちを俺にくれた…ひどくないですか?
「甘いもの克服キャンペーン中ですか」
「今、ものすごくキムチ食べたいです」
「矛盾してね?」
「…ちっ」
「……なあ、」
「はい?」
「それ、照れ隠し?」
「あげます」
「え」
「あげます。買った瞬間、胸焼けがしました」
話を逸らされた挙げ句、無理矢理ケーキの箱を渡された。そのまま、一直線に走り去っていく後ろ姿を呆然として見送った夕暮れの商店街。その日は、ひとりで美味しくケーキをいただきました。お隣さんも食べたら良かったのになあ。
そのまた次の日。深夜の開けっぱなしの窓から、音が外れたリコーダーの音色が聞こえてきた。寝ぼけたまま眼鏡をかけて、窓から上を覗くと前髪をでかい真っ白なリボンでちょんまげにしておでこ全開のお隣さんが立っていた。目の下にうっすらと隈が見える。
「どうも」
「…うん」
「あの、今からそっちに行っていいですか」
「…うん」
「ありがとうございます」
「…うん。……えっ?」
状況を飲み込めないまま、玄関のチャイムが鳴った。階段を転がり落ちそうになりながらも、慌ててドアを開ける。パジャマ姿の無防備なお隣さんがひょっこりと顔を出した。…この子、天然なのか計算なのか、いまだに謎である。
「なに動揺してるんですか。また、酔ってるんですか?」
「いや、違う…けど」
「オニーサンは、甘いものが好きなんですよね」
「え?」
「好きなんですよね?」
「は、はい」
年下の女の子に妙な威圧感を覚え、ちょっとびくつく二十代半ばの俺。お隣さんは、きょろきょろと目をあちこちに移動させたあと咳払いをして、ズイッと俺の前に何かを差し出した。
大きなお皿の上に、不恰好なチョコレートケーキがラップに包まれて乗せられていた。
「あげます」
「え…」
「あげます!」
「イデデデデッ!皿、俺の顔に食いこんでるから!」
ぐりぐりと皿を頬っぺたに押しつけられて、眠気がどこかにぶっ飛んでいく。涙目になりながら受け取ると、さっさと帰ろうと回れ右をするお隣さんの腕を慌てて掴んだ。
「なんでしょう」
「いや、えっと、このケーキ…」
「私の手作りです。たぶんきっと確実にまずいと思うので一口食べたら三角コーナーに捨てて下さい」
「いやいや、捨てない捨てない!食べるよ、だってせっかくの手作りだし…」
ちょんまげされた前髪をぴょこんと揺らして、お隣さんが俯いた。どうしよう、腕を離すタイミングが分からない。
「お腹壊しても責任はとれません」
「うん、大丈夫だから」
「…お礼が、したくて」
「お礼?」
「はい。この間のお鍋、とても美味しかったので…」
「見事に肉ばっか食べてたよね」
「お肉、好きなんです」
「…あー、それでケーキ作ってくれたんだ?」
「はい」
「そっか…ありがとう」
素直に口元が緩む俺とは対照的に、お隣さんはググッと口元を引き締めて「腕、いい加減離してください」とぶっきらぼうに呟いた。さっきから目が合わないのは、多分照れているからなのだろう。ちょっと可笑しくて笑えば、ぎろりと睨まれた。
「ありがとう」
「まずかったら三角コーナーに」
「どんだけ自信ないの!?大丈夫だから!な!?」
「では、おやすみなさい」
「おやすみー」
こっそりと見えてしまったお隣さんの指先の包帯に、申し訳ないと思いながらも胸がほっこりとした。不意に思い出したのは、クレープ屋で見た照れた横顔とケーキ屋のかわいい舌打ち。玄関先でケーキと見つめ合う自分の顔がお隣さんとまったく同じなような予感がして、ひとり布団の中で悶絶した真夜中。
真っ暗な部屋、つめたくなったベッドの上で食べたケーキの味は焦げていて苦かったのに、とっても甘ったるく感じた。
外からは、チョコレートケーキと似たにおいが届いてきてまたひとりで照れてしまった。
翌日。ばったりと会ったお隣さんに「うまかったよ」という感想といっしょに空っぽのお皿を手渡すと、照れ隠しのパンチが横っ腹に飛んできた。