日曜日
今回で、最終話です。
貴重な休日は、気が付けば半日過ぎようとしていた。2日洗っていない小汚いスエットからラフな格好に着替えて、夕方になる外にぼんやりと出る。向かう場所は、近所のスーパー。彼女がいない一人暮らしも慣れてくると、料理の腕前がめきめきと上達してくるのがわかって、嫌気がさす。主夫の人生はできれば歩みたくないものだ。
「ねえダーリン、今日は何が食べたい?」
「ハニーが作ってくれるものならなんでも食べるさ」
「やぁだ!もうっ、ダーリンたら!」
「こら、僕から逃げられると思ってるのかい」
「逃げるつもりなんてないわ。…ただ、あなたに追いかけてきてほしいだけよ」
「ハニー…」
「ダーリン…」
庶民的なスーパーの野菜売場にて。鳥肌全開のバカップルの会話を早足で通りすぎ、独り身の俺は今夜の夜飯の材料をかごにやけくそ気味に放り込んでいく。お菓子などの甘いものはいくらでも食べられるが、甘い恋人同士のイチャイチャっぷりは食べられたモンじゃない。腐りかけのミカンを食べて腹を下すほうがマシである。
ほどよく膨らんだエコバッグをぶら下げて、夕暮れの帰り道を歩く。他人の家に咲いていた金木犀の花が控えめにそうっと、俺の足元に着地した。…そういえば、昨夜は彼女が奏でる不器用な音色は聞こえてこなかったことを思い出す。
そのときである。前方からいのししの如く一心不乱にこちらに向かって走ってくるボサボサ髪のリクルートスーツ女を視界に捉えてしまったのは。…あれは間違いなく、お隣さんだ。
「神様のバッカヤローー!」
青春くさいセリフを大声で叫びだした彼女は、そのまま俺の目の前を風のように通りすぎ、華麗にすっ転んだ。両手に提げていたビニール袋の中身が好き放題に彼女の周りを取り囲んでいる。顔面をコンクリートにぴったりとくっつけたまま微動だにしないお隣さんの前にしゃがみこみ、話し掛けてみる。
「おーい、生きてますかー」
「生きる意味ってなんなんでしょう」
「それは俺も是非神様に聞きたい疑問です」
「そうですか…」
「うん」
「……」
「……」
「そ、そうだ!うん、じゃあ今から鍋でもしよう!丁度ここに鍋の材料もあるし!俺もひとり鍋は淋しいと思ってたところだし!どう?」
「……」
「生きる意味?について考えながら、鍋パーティーでもしよっか。な?な!?」
どよーんとした空気から察するに、どうやら今日も振られてきた帰りらしい彼女に控えめにそうっと焦りながらも、提案してみる。ストッキングが伝線しているその膝からにじむ赤黒い血をそのままに、彼女はゆらりと起き上がった。ポニーテールは崩れ、髪の毛はグシャグシャ。顔も化粧が崩れてボロボロ。お隣さんは得意気な笑みをにやりと見せた。
「私、白菜切るの超上手いですよ」
「よーし、決まりな」
思わず敬礼をしたら、舌打ちされた。ひでえ。
潰れかけた肉まんたちが入った袋を片方持つ俺の腕をすぐに掴み、「ひとりで持てますから」とひょいと自分で抱え直す強がりなお隣さんの、トナリを歩く。俺もこんな風にがむしゃらに生きてみたいものです。
「ていうか、この大量の肉まんひとりで食うつもりだったの?」
「余裕です。あ、ピザまんとカレーまんもありますよ」
「なんであんまんがないんだよ!?」
「私、甘いもの苦手なんです。特に餡子とか生クリーム系…見ただけで吐き気がする…」
「え…じゃあこの間俺があげたロールケーキは…」
「おいしく頂きましたよ?でも次は辛いものを頂けると嬉しいです」
アパートの前の自販機にふらりと立ち止まった彼女は、無抵抗な自販機に向かってがつんと蹴りをいれて、ふふふと笑った。目が笑っていないことに気付く。後ろからそろりと覗いてみると、コーラが売り切れだった。
「ここの自販機常にコーラが売り切れなんですよね」
「だからって、蹴らなくても…」
「で、なんでオニーサンは迷いなく“おしるこ”のボタンを押してるんですか」
「イライラの時には甘いものがいいらしいよ。はい、あげる」
「…どうもです」
自分の家の金木犀の甘い匂いをくぐり抜けて、玄関を開ける。興味津々に家の中を覗きこむ彼女の黒髪の毛先がやわらかく揺れた。自然と視線がかち合って、お互い笑い合う。
「なんか、俺たち前にもどこかで会ったような気がしない?」
「そりゃそうですよ。こんな近所に住んでるんですから、すれ違わないことのほうがあり得ないです」
「いや、そうじゃなくてさあ、」
「いいじゃないですか。今こうやって偶然会って話してるんですから」
「そっか」
「そうです」
彼女の黒いかばんからちょこんと顔を出したリコーダーと、俺のエコバッグからひょろりと顔を出している長ネギが可笑しそうに寄り添いながら、くすくすと笑った。
「ハニーアンドミルク」完結させることができました。金木犀、前を突っ走る空回り気味の女の子、生クリーム色のリコーダー、甘党男子、お鍋、あたたかい飲み物、肉まんとあんまん。私の好きなものをぎゅっと詰め込んだお話「ハニーアンドミルク」、最後までこんな拙いお話を読んで下さったあなた様の心のはじっこにでもぽわっと溶け込んでいてくれたらいいなあと思います。
ありがとうございました。