木曜日
月明かりの下、初接触。
病み上がりなのに死ぬほど酒を飲まされた。クソ上司のへらへら顔を思い浮かべながら、明日あのハゲ頭の頭上から槍が降ってくればいいのにと呪わずにはいられない。しかし残念ながら明日の天気予報はにこにこの晴れマーク。トゲトゲの雨の槍マークが出ればいいのに。
男の一人暮らしには広すぎる一軒家へ帰宅する。金木犀のやさしい匂いが酒臭い俺を迎え入れてくれた。金木犀のような甘くてやわらかな雰囲気の女性とどこかで巡り合いたいものだ。
真っ暗な家の中、階段を上がり二階にある自室のドアを手探りで開ける。使い捨てのコンタクトレンズを外してネクタイを緩めた。そのままの格好でベッドにうつ伏せに倒れこんだ俺の耳に、届いてきたあの不思議なメロディー。隣に建っているアパートとこの二階の部屋との距離があまりにも近いため、ずっと閉めっぱなしだったほこりっぽいカーテンを開けてみる。
月明かりの下、隣のアパートのベランダに人影が揺れていた。
テーブルの上に無造作に置かれていた眼鏡をかけて、その姿を窓越しで確認する。リクルートスーツを着た女が赤いペディキュアが目立つ素足でベランダに立ち、生クリーム色のリコーダーを吹いているという不思議な光景を目にした。…最近毎晩聞こえていたメロディーの正体はこれか。気付かれないようにカラカラと窓を開けて、リコーダーの音に耳を傾ける。相変わらず、へったくそ。でも、もう少しだけ聞いていたいような気がしてくるから不思議だ。
「盗み聞きですか」
ピー、と高い音を鳴らしながらリクルートスーツの女が俺を見据えていた。…どこかで会ったことがあるような感じはするが、多分気のせいだろう。窓から少し身を乗り出して、女の顔をじっと見つめる。女の、長い黒髪が艶やかに揺れている。
「なんか、顔色悪くないですか?病気?」
「いや、ただの飲み過ぎです」
「ここで吐かないでくださいね。せっかくの金木犀の香りが台無しになります」
「…努力はします」
「そうだ、そこで少し待っててください」
急に吐き気に襲われ、口元を片手で塞ぎながら、おもむろに部屋の中に入っていった女の言葉に首を傾げた。ベランダへ戻ってきた彼女の手にはリコーダーはなかった。
「どうぞ」
よそ見していた俺の額に何かがガツンと当たった。
「痛ってえ…」
「ナイスキャッチです」
「えっ、どこが?」
「おでこは無事ですか」
「これが無事に見える?」
「見えないかもです」
控えめに肩を揺らして笑う彼女の笑顔は辛辣な言葉を言う割に、かわいらしいものだった。
「ペットボトル?」
「ミネラルウォーターです」
「くれるの?」
「私の飲みかけで良ければ」
「ありがとう」
「目の前で吐かれるよりマシですからね」
「…あぁ、そういうことか」
「そういうことです」
ピーヒョロリー。
リコーダーでまぬけな音を奏でながら、彼女は薄暗い明かりの灯った部屋の中へのらりくらりと戻っていった。…まだかすかに聞こえてくるこの曲は確か、女の子が森でくまに出会って貝殻のイヤリングを拾ってもらう童謡だったような気がする。フンフンと、無意識に口ずさんでいた自分に笑いと吐き気がこみあげた。
そんな、フシギで楽しい夜のこと。
リコーダーの色って、ミルクの飴みたいでおいしそうです。…お腹空いてるのかな(笑)