妹に婚約者を奪われた夜、父は「お前が嫁げば家が潰れる」と言いました。妹だけが、わたしの荷造りを手伝っていました
妹の指が、韓子墨さまの袖を引いた。
「子墨さま。姉様を娶るより、わたくしを娶るほうが、お得ですよ」
詠梅は笑っていた。赤い衣の袖口から、白い指が出ている。赤は花嫁の色で、婚書の日までは誰も着ない習いだが、妹の派手好きは今に始まったことではなく、朝からとがめる人もいなかった。わたしは薄青の衣だった。髪に挿した簪は七本で、首を傾げるたびに触れ合って、細い鈴のような音を立てた。
仲人の婆さまが聘書を読み終え、父が受け取りの礼を述べようと息を吸った、その一拍前だった。広間が静まった。
わたしは父の三歩うしろに立って、礼書を持っていた。韓家から葉家へ贈られる品の目録で、手にあるのは葉家の控えだ。銀三百錘、絹十匹、鵞鳥のつがい、茶器一揃い。全部で三十二品目、二十九までは数え終えていた。婚約の席でも、礼書を数えるのは帳場の人間の仕事で、三十品目めに入るところで、指が動かなくなった。
三歩先の父の肩が、一度だけ下がった。驚いた人の動きではなかった。
妹はこちらを見ていた。袖を引いた手はそのまま、顔だけがまっすぐわたしへ向いていて、まばたきがない。悪戯を見つかった子供の目ではなかった。何の目なのか、わたしには分からなかった。
葉家の広間は店先の奥にあり、灯が入ったばかりで、卓の赤い紙の上に蝋燭の火が揺れていた。壁際には茶箱が積まれ、客の卓には霜梅が出ている。母が二人の娘の名から付けた茶で、蓋を取ると梅に似た香りがした。その香りの中で、誰かが茶碗を置く音を立てた。
子墨さまは扇を持つ手を止めていたが、怒ってはいなかった。珍しい品が卓に出されたときの、値踏みの目をしていた。
「お得、とは」
「聘礼です。姉様には銀三百錘。わたくしなら、父がきっと、半分にまけてくれます」
韓夫人の顔に怒りが上りかけて、〈半分〉のところで引っかかった。韓家の借財の額は、帳場の人間ならたいてい知っている。
「妹の戯れでございます。お聞き流しください」
声は乱れなかった。乱れない声を出すのは、昔から得意だ。
「戯れとは、思いませぬ」
子墨さまは静かに言った。
「どちらの葉家のお嬢さんでも、韓家には益がある」
軽い音がした。偽の銀を卓に落とすと、あの音がする。問名の日、帳場を覗いたこの人は、わたしの帳を見て、あなたの算は詩のようだ、と言った。数が行ごとに息をしている、と。その言葉を、わたしは一枚の銀のようにしまっていた。今、同じ声から出た〈どちらでも〉は、軽かった。
「ところで」と子墨さまは続けた。「妹君は、帳もお得意ですか」
「ええ」詠梅がすぐに答えた。「姉様に習いましたの」
嘘だ。妹が帳場の椅子に座ったのを、わたしは見たことがない。
「詠梅は、帳を――」
「先嫁を許す」
父の声が、わたしの声の上に落ちた。姉より先に妹が嫁ぐには、家長の許しが要る。父はそれを、一息で与えた。わたしを見なかった。
「聘礼は、詠梅の分は、半分でけっこう」
韓夫人の扇がぱちりと開き、「それでしたら」と夫人は言った。子墨さまは「お許しいただけるなら、喜んで」と頭を下げ、詠梅も頭を下げて、七本の簪がいっせいに鳴った。顔を上げたとき、妹の両手は袖の中にあった。
屏風の向こうで、親戚の誰かが囁いた。
「やっぱりね。二お嬢さんは、昔から、姉さんの物を欲しがる子だもの」
「大お嬢さんが、お気の毒に」
気の毒、という言葉は、帳に付けるなら損失の欄だ。穴埋めは、どこからも出ない。
仲人の婆さまが、赤い紙を持ったまま咳をした。
「新しい聘書をお立てするには、元の聘書をお返しいただきませんと」
父は卓の聘書を取った。紙にはわたしの名が書いてある。葉清霜。父の指はその名の上を迷わずに通り、紙は韓夫人の袖に入った。婆さまが新しい紙に筆を下ろした。葉詠梅。わたしの名を書いたときより、筆が速かった。画数が少ないせいだ、と思うことにした。
「清霜」
父が言った。
「礼書を書き直しておけ。詠梅の分に」
「はい」
わたしは筆を取った。硯の墨はまだ濡れていて、一行目の三百に線を引き、百五十と書いた。線は、いつもより少し長くなった。
◇
客が帰ったあと、父に呼ばれた。
書斎には櫃がある。父の背丈の半分ほどの黒い鉄の櫃で、夜になると帳の三冊はこの中に入り、鍵は父の帯に下がる。父は櫃の前に座って、鍵の紐を指に巻いていた。わたしを見なかった。
「清霜」
「はい、父上」
「お前が嫁げば、この家は一年で潰れる」
嘘ではなかった。わたしが嫁げば、この家は一年で潰れる。わたし自身が、いちばんよく知っている。
「詠梅が嫁ぐなら、お前はここにいられる。……これでよかったのだ」
父の指が、紐を巻き、ほどき、また巻いた。
聘礼は三百から百五十になった。わたしを家に置く値段は、銀百五十錘ということになる。頼みもしないのに勘定が合ってしまい、合わなければよかった、と、帳場の人間にあるまじきことを思った。
「今日から、帳場の裏の小部屋を使え。お前の部屋は、詠梅の嫁入り支度の箱を置くのに要る」
「はい」
「帳場の鍵は渡す。櫃の鍵は、わしが持つ」
鍵がふたつ、わたしの手のひらに載った。冷たかった。
「お前がいなくなったら、あの帳は、誰が――」
父はそこで口を閉じ、櫃の肩を掌で二度叩いた。
「もういい。休め」
中庭を渡るとき、韓家の車が門を出ていく音がして、輪の回る数を半分ほど数えたところで、やめた。月は丸く、ひと月後の月見の座にも同じ月が出る。毎年、茶行の会費の帳はわたしが抱えて父の後ろを歩くので、今年もそうなるのだろう。
部屋に戻ると、誰もいなかった。旦那様の顔色を見て、人は動く。今夜は、誰も動かなかった。女中たちは廊下を行き来しながら、わたしの戸の前だけ足を速めた。
わたしは衣を畳んだ。畳むのは得意で、帳場の人間は、物を詰めるのも数えるのも上手い。
「手伝います」
戸の外で、鈴が鳴った。
肩で戸を押して入ってきたのは、詠梅だった。空の衣装箱を抱え、赤い衣のまま、七本の簪のまま。後ろから、女中の阿杏が灯を持ってついてきた。阿杏は父の耳だ。聞いたことは、夜のうちに父へ届く。
「姉様のお部屋、日当たりがいいのね。わたくしの嫁入り支度の箱を、ここに並べますわ。……あ、その鏡台は、要りませんね。古いから」
「母様のよ」
「だから古いんです」
妹は笑った。阿杏が戸口で耳を立てていた。
「韓家の帳場は」とわたしは言った。「誰が付けるの」
「姉様が通えば済むことでしょう。お暇になったのだから」
阿杏の目が、わたしの顔を探った。わたしは顔を貸さずに、「そうね」とだけ言って、畳んだ衣を箱の上段に置いた。
阿杏が「お茶を」と言って出ていき、足音が廊下の端まで行くのを、わたしは数えた。
詠梅は、笑うのをやめた。それだけのことなのに、笑いの抜けた妹の顔は、ひどく平らだった。
「下の段は、わたくしが詰めます。姉様は上をどうぞ」
「詰めるのは、わたしのほうが上手いわ」
「姉様は上手すぎて、隙間なく詰めてしまうでしょう。母様の本が、入らなくなります」
妹は本棚から母の本を抜いて、箱の底へ並べ始めた。一冊置くたびに、指が余計に止まった。止まるたびに首を傾げて簪を鳴らすので、その音のほうが目立った。右の中指の腹が黒いのに気づいたが、茶の染みだろう、と思った。
九つの年、母の青磁の茶碗を割ったのは、わたしだった。四つだった妹が「わたしがやりました」と言って、手の甲を叩かれた。あの日も、妹の指は、今みたいに細かく動いていた。あれは子供の頃のことだ。わたしは何も訊かなかった。
「詠梅」
「はい」
「どうして」
「お得でしょう」妹は、顔を上げずに言った。「姉様、算盤で勘定してください。わたくしは、安い買い物です」
〈安い〉のところで、声が少し外れた。
「安くないわ」とわたしは言った。「あなたは、安くない」
詠梅は笑った。大きすぎる声に、簪が鳴った。
荷は、衣装箱ひとつにおさまった。わたしの持ち物は、もともとその程度しかない。母の算盤だけは自分で布に包んで抱えた。母が死んだ春、十四だったわたしが受け継いだものだ。
それなのに、箱は重かった。妹と二人で両端を持って運び、廊下を行く一歩ごとに、七本の簪が鳴った。帳場の裏までは百二十歩ある。数えていたら、妹が言った。
「重いですね」
「母様の本が多いのよ」
「ええ」妹は、箱の端を握り直した。「本が、たくさん」
小部屋は茶蔵の隣にあり、壁に茶の匂いが染みていて、窓は高く、寝台は狭かった。机は帳場の予備の物だ。ここなら、夜中に目が覚めても帳場まで十歩で行ける。父の考えそうなことだった。
箱を床に下ろすと、妹は両手を袖に入れた。
「おやすみなさい、姉様」
それだけ言って、戸を閉めた。
鈴の音が廊下の向こうへ遠ざかり、聞こえなくなるまで、わたしは数えていた。
荷は解かなかった。解けば、ここに住むことになる気がした。
◇
小部屋の暮らしは、思ったより早く形になった。
朝は茶蔵の湿った匂いで目が覚めて、十歩で帳場に着き、昼は帳を付け、夜は父が三冊を櫃に納めるのを戸口で見送った。櫃の鍵が父の帯の上で鳴る音が、一日の終わりの音になった。
荷は壁際に置いたままだった。月見の座まで、あと三十日。二十九日。朝ごとに、数がひとつ減っていく。
妹の簪は、翌々日に一本減った。
「また質屋か」と父は朝の膳で言った。「恥さらしめ」
「だって、新しいのが欲しいんですもの」
詠梅は笑った。笑う頭には、六本。
わたしは数えた。六、五、三、一。足音から、鈴が少しずつ減っていった。浪費は、数にすると実に分かりやすい。質屋の帳には、妹の簪が並んでいるのだろう。確かめには行かなかった。
妹は夕方になると出かけるようになり、夜の鐘が鳴るぎりぎりに戻って、そのたび父に叱られた。遊び歩いている、と父は言った。行き先を帳に付けようとは、思わなかった。
出がけに、妹は帳場の戸口で足を止めて、わたしの机に茶碗をひとつ置いていくことがあった。霜梅で、蒸らしの長さが母の淹れ方だった。「冷めますよ」とだけ言って行く背中で、簪が触れ合って鳴った。
十日目に父の客が来て、新しい仕入れ先の茶を出し、自慢げに味を問うた。客が褒めたとき、衝立の陰を通りかかった妹が足を止めた。
「三番茶が混ざっています。おととしの、傷んだ山のものです」
客の茶碗が止まった。父の顔が赤くなり、「女が茶の口を出すな」と怒鳴った。
翌朝、父は仕入れ先を変えた。誰にも言わず、自分の思いつきとして。
わたしは調合帳を開いた。霜梅の配合の欄は、母の字で始まり、途中からわたしの字になり、ここ三年ほどは丸い字が混じっている。妹の字に少し似ていると思ったが、姉妹だから似るのだと考えて、頁を閉じた。
十五日目、月見の座まで半分になったその日に、子墨さまが来た。聘礼の期日の相談、という名目だった。
帳場に通すと、机の上の帳に目を留めて、子墨さまは目を細めた。
「やはり、美しい」
詩のようだ、と言われた日と同じ声だった。わたしは算盤の珠から手を離した。
「妹君は、帳がご不得手のご様子」と子墨さまは言った。「姉君に、韓家の帳場へ通っていただけまいか。義姉上になるのですから、身内の務めとして」
身内の務め。報酬の話は出なかった。戸の内の仕事に、値は付かない。
「兄たちは、算を卑しい仕事として学びませぬ。嫁に預けるつもりでおりました」
子墨さまは少しも悪びれずに続けた。
「あなたの算なら、韓家の借財も、三年で見通しが立つでしょう」
悪意がないことは、よく分かった。この人は、秤に載せた銀の目方を言うように言っているのだ。
「考えさせてください」
「ええ。冬至までに」
帰り際、子墨さまは机の帳の背を、指でひと撫でした。撫でられたのは帳だった。わたしはその指を見ていた。
二十日目に、程雪茗さまが来た。河陽の茶行の長老のひとりで、西へ茶を出す四十の商人。女が当主だというだけで、この州ではよく噂に上る人だ。
帳場に通すと、雪茗さまは帳を所望して、霜梅の仕入れの載った三冊目を、半刻、黙って繰った。
「十年、算の合わなかった月がない」
顔を上げずに言った。
「こういう帳を、私は他に知らない」
「旦那様の店の帳です」
「そうだね」雪茗さまは頁をめくった。「守拙どのの店の帳だ」
それから、世間話のように、月見の座の話をした。
「月見の座には、長老が三人揃う。帳を付けた本人が検めを請い、三人が応じて、本人のものだと頷けば、女も自分の名で店を持てる。立名という。私が、そうだった」
わたしは珠から手を離したまま、動けなかった。
「条件が二つある。婚約が生きていないこと。それと、帳を携えて請うこと。持ち主が手放さないなら、写しでいい。私は写しで立った」
雪茗さまは、そこで少し間を置いた。
「あなたの聘書は、返されたそうだね。運のいいことだ」
「運と呼んでいいのでしょうか」
「さあ」雪茗さまは笑った。「私は、帳にしか分からない」
帰ったあと、わたしは算盤を弾いた。写しは三冊。一冊に三か月かかるとして、九か月。月見の座まで、あと十日。一頁も足りなかった。
その夜、帳を櫃に納める父の背に、訊いた。
「月見の座には、帳をお持ちになりますか」
「あれを持ち出す馬鹿がいるか」父は鍵の紐を握った。「櫃から出すのは、晦日の決算のときだけだ」
櫃の肩が、行灯の火を鈍く映していた。
それから九日、昼は帳を付け、夜は小部屋で、空で帳を書いてみた。日記帳の一頁目、十年前の春。三行で手が止まった。数は覚えている。覚えていないのは順番で、順番は帳にしかなかった。
最後の簪が消えたのは、月見の座の前々日だった。その朝、妹の頭は軽く、足音は、ただの足音になった。
前夜、小部屋で墨を磨った。数字は、受けろと言っていた。通えば、少なくとも帳には触れていられる。義姉の名で、戸の内で、値の付かない仕事を、一生。
お受けいたします、と書いた。筆を置いて、墨が乾くのを待った。
待つあいだ、荷に目が行った。ひと月近く、一度も触れなかった衣装箱だった。
◇
ここで暮らすのなら、箱のままにしておく理由は、もうなかった。墨の乾くのを待つあいだに、荷を解くことにした。
蓋を開けると、ひと月近く閉め切っていた箱から、わたしの衣の匂いが立った。四季に二枚ずつの衣、筆箱、硯、畳んだ手拭い。ひとつずつ抽斗に移したが、畳み直す必要はなく、わたしの詰めた上の段は、一枚も乱れていなかった。
母の本が出てきた。詩集が二冊、茶の本が一冊、帳の付け方を書いた本が三冊。全部出してしまうと、箱の底には布が張ってあった。外から見た箱の深さより、中が浅い。爪をかけると、底板が浮いた。
板の下に、藍の布で包んだものが、ひとつ。持ち上げると母の本よりずっと重く、結び目は固くて、ほどくのに指が痛んだ。
帳面が三冊、入っていた。
開くと、わたしの数字が並んでいた。日記帳の一頁目、十年前の春の最初の入金。ひとつひとつの数が、わたしの付けたとおりの場所にあった。字だけが違った。小さくて角ばったわたしの字ではなく、少し丸い、見覚えのある字だった。
総勘定の十六頁を開くと、七年前の秋、わたしが一度だけ桁を書き違えて細い線で消した箇所があった。写しにも、その線があって、曲がり方まで同じだった。
包みのあった底に、紙が一枚。瑞京、内廷六司、女官試、受験願書。州の役所の印が押してあった。
廊下で、音がしなかった。
戸口に、妹が立っていた。鈴は鳴らなかった。髪には何も挿していない。赤い衣ではなく、麻の生成りを着て、小さく見えた。
「ほどいてしまったのですね」
声が違った。大きくも高くもない、平らで短い声だった。家でいちばんうるさい人の声とは思えなかった。
「説明して」とわたしは言った。
「婚約が生きているうちは、姉様の名は立てられません」
妹は戸口から入らずに言った。
「月見の座は年に一度。だから、聘書を返させました。父が聘礼を捨ててでも受ける縁が、わたくしでした」
「写しは」
「半年。姉様が昼の膳に立つたびに、半刻ずつ。夜は、それを清書しました」
半年前から、帳場の墨が少し早く減っていた。昼から戻ると、硯の水が、わたしの置いたより濁っている日があった。数が合わないことは、気持ちが悪い。それでも、誰かを疑う気にはならなかった。
「立名のやり方は、雪茗さまに教わりました。わたくしの鼻を買ってくださる方です」
運のいいことだ、と言った人の顔が浮かんだ。
「言えば、姉様は、家が潰れると言って断るでしょう。だから、言いませんでした」
「わたしの返事を」
自分の声が低いことに気づいた。
「あなたは、先に決めたのね」
「はい」
「訊かずに」
「訊いたら、姉様は断るから」
算盤の珠をひとつ弾くと、乾いた音が部屋に落ちた。もうひとつ弾いた。
「九つのときも、そうだった」
「覚えていません」
妹はわたしの目を見なかった。
「怒ってください。怒られるほうが、楽です」
「行き詰まるまで、待ったのね。わたしが」
「はい。行き詰まらないと、姉様は動かないから」
わたしは机の端の、乾いた返事を見た。お受けいたします。
「……そのとおりだわ」
妹の口の端が動いた。笑いかけて、やめたのだと思う。
「冬至には、わたくしが韓家へ嫁ぎます。不出来な嫁になって、一年たったら、去り書をいただきます」
「去り書をもらった嫁がどうなるか、知っているの」
「知っています」妹は少し黙った。「勘定には、入れていません」
「入れなさい。それは、帳場の人間の仕事よ」
「そうしたら、姉様のお店の隅に、置いてください。霜梅は、わたくしが継ぎます」
言いにくそうでもなく、言い慣れた様子だった。何度もひとりで言ってみた言葉なのだと分かった。
「月見の座で立てなかったら」妹は紙のほうへあごを向けた。「卯の刻に、瑞京行きの船が出ます。宝司は、算のできる人を探しているそうです。姉様なら、大事にされます」
「年季は」
「十年」
「帰れるのは」
「年に、半日」
十年。わたしが帳場に座ってきた年と、同じ長さだ。また十年、誰かの帳場に座る。今度は、宮の名で。
妹は袖から小さな袋を出して、敷居の上に置いた。
「路銀です。簪は、全部」
それから、「どちらを選んでも、恨みません」と言って背を向けた。遠ざかる足音は、ただの足音だった。
袋を拾うと、まだ温かかった。口を開けて、掌に銀を出した。目方は、手が覚えている。三十五錘と少し。質屋の利率で割り戻せば、簪一本が五錘。七本で三十五。
数が合った。合ってほしくなかった数だった。
夜半の鐘が、遠くで鳴った。船の出る卯の刻まで、夜はまだ長い。
わたしは母の算盤を机に出し、珠をひとつずつ弾いた。借方に、わたしの自由。貸方に、妹の一年。一年では済まない。去り書をもらった嫁の三年先、五年先を、わたしは見積もれる。見積もりは、悪かった。
貸方に書けない借りがある、と思った。船に乗れば、自由は手に入る。借りを残したままで。残れば、父の前で、茶行の前で、わたしが立つ。立てなければ勘当され、妹の悪名は、そのまま残る。
珠を全部戻して、空になった盤を見ていた。どちらが得か、という問いは、もう数の形をしていなかった。
それから、藍の布を取って、三冊を包み直した。内側には、乾いた返事の紙を敷いた。お受けいたします、の字が、帳面の背に当たった。結び目は、前より固くした。ゆるまないように。
◇
月は、また丸かった。
茶行会所の中庭には桂の花の匂いが満ちていて、円卓に満月の菓子が並び、卓ごとの灯籠が客の顔を下から照らしている。長老の席は北に三つ。蔡老、銭老、程雪茗さま。その下に、各家の主が順に座る。葉家の卓には父と、韓家の三人。わたしは父の三歩うしろに立って、茶行の会費の帳を胸に抱えていた。
茶を注ぐ妹の手は、盆の上で少しも揺れなかった。髪には何も挿していない。わたしの前を通るとき、妹はこちらを見なかった。
父が立って、杯を上げた。
「このたび、次女の詠梅が、韓家の三男、子墨どのに嫁ぐこととなりました」
拍手が起きた。韓夫人が深く頭を下げ、子墨さまが静かに杯を傾けた。
拍手が引くのを、わたしは待った。
待って、前に出た。
膝が、自分のものでない気がした。十年、父の三歩うしろに立ってきた膝だ。一歩目は、思ったより軽かった。
円卓の端に、藍の布の包みを置いた。結び目は一度でほどけて、帳面が三冊、月の光を受けて表紙が白く見えた。
「帳を付けた者として」
声は張らなかった。広間の端まで届かせる必要はない。三人に届けばいい。
「検めを請います」
杯を置く音が、あちこちで続いた。
「葉家の帳は」と蔡老が言った。七十を過ぎた、痩せた人だ。「守拙どのが付けるものと、聞いておるが」
「清霜、下がれ」
父の声が裏返った。
「応じます」
雪茗さまだった。杯から目も上げずに。
「算の話なら、退屈しない。応じよう」と銭老が言った。
蔡老が長く黙った。
「女の名で帳を立てた例は、雪茗どの一人だ」
「二人になっても、茶行は潰れん」と銭老。
「……二人が応じるなら」蔡老は息をついた。「わしも応じる」
「家の帳は、家の――」と父が言いかけた。
「写しを携えた請いには、持ち主が原本を出して、突き合わせる」
蔡老は父のほうを見ずに言った。
「出さぬ家は、疚しい家と見なす。習わしだ、守拙どの」
父の口が閉じた。習わしの番人が習わしを守るのを、わたしは初めて、ありがたいと思った。
「……櫃を」
下男が二人がかりで運んできた櫃の前で、父の鍵は、鍵穴で三度滑った。
日記帳、総勘定、出入帳。原本の三冊が、写しの三冊と並んだ。
「三月九日、入金、茶代、銀二十四錘三分」蔡老が読み、銭老が写しの側を追う。「同じだ」
頁がめくられるたびに、同じだ、同じだ、と声が続いた。
「ここ」蔡老の指が止まった。「桁を直した線が、曲がり方まで同じだ」
「写し手は、よほど、この字に惚れていたと見える」と銭老が言った。
同じ数字が、二つの筆跡で並んでいた。わたしの字は小さく、妹の字は少し丸い。月の光が、その両方に同じように落ちていた。わたしは妹を見なかった。
「問おう」と銭老が出入帳を開いた。「五年前の秋。霜梅の仕入れが、三か月分、一度に動いている。何があった」
「長雨でした」とわたしは言った。「山の二番茶が傷む前に、三か月分を一度に買いました。一割高く買いましたが、翌春の高騰を避けられて、差し引き二百錘の得です。傷みが出る前の茶を、匂いで選んだのは、妹です」
広間が妹を見た。
盆の上で、茶碗が一度、小さく鳴った。
「守拙どの」と蔡老が言った。「五年前の秋、なぜ三か月分を一度に買われた」
「それは、わしが、機を見て」
「機を、何で見られた」
父は答えなかった。顔が、茶蔵の壁の色になった。蔡老は「なるほど」と言っただけだった。
三人が、一人ずつ口を開いた。
「本人のものと、認める」と蔡老。
「認める」と銭老。
雪茗さまが、最後に杯を置いた。
「清霜どのの数字と、認めます」
それで、立名が成った。
わたしは子墨さまのほうへ向き直った。
「あなたは、わたしの算を、詩のようだとおっしゃいました」
「ええ」
「あれは、わたしにでしたか。帳にでしたか」
「帳にです」
銀の音がした。今度は、嘘のない音だった。この人のよいところで、わたしにはもう要らないところだった。
「妹君に同じ算ができるなら、同じように褒めたでしょう。兄たちは、算を卑しい仕事として学びませぬ。誰かが預からねば、韓家の帳は、読む者がおりません」
座が冷えた。
「その卑しい仕事で」銭老が乾いた声で言った。「あなたの家の飛券を、私は数えている」
「何か、問題がありますか」
本気で訊いていた。この人は、最後まで本気だった。
「分かりました」とわたしは言った。「では、卑しい仕事の値段を、お伝えします」
子墨さまが瞬きをした。
「韓家の帳場は、外から請け負います。値段は、雪茗さまと決めます。ただ、詠梅の聘書は、お返しします。嫁ぐ者は、帳ではありません」
子墨さまは一拍考えて、外から請け負わせれば足りる、と計算の済んだ顔になった。わたしの顔も、勘定が合ったときは、きっとああなる。
「承知しました」
「子墨」と韓夫人が口を開いた。
「母上、聘礼は浮きます」
夫人は口を閉じた。
「詠梅の聘書は、明朝、お返しする」
父がかすれた声で言った。
蔡老が、笑いを含んだ声を出した。
「詠梅どのは、姉の婚約者の袖を引いたそうだな。州じゅうの噂だ」
「あの日、妹が袖を引かなければ」とわたしは言った。「わたしは、この方に何も訊けませんでした。妹は、わたしの代わりに、訊いてくれたのです」
そこで初めて、妹を見た。妹もわたしを見ていた。袖を引いた日、妹はまばたきもせずにわたしを見た。今度は、わたしがそらさなかった。
妹は笑おうとして、できなかった。盆の上の茶碗が、かたかたと鳴り続けた。簪のない頭では、それを隠す音が、どこにもなかった。
宴が引けて、帰り道。父は、わたしの三歩うしろを歩いた。
「清霜」
「はい」
「帳場料は、月にいくらだ」
謝る言葉はなかった。この人は、そういう言葉を持っていない。持っている中でいちばん正確な言葉を選んだのだ、と思う。
「これまでは、いただいたことがありませんでした。これからは、月に銀十錘を」
父は歩みを止めずに言った。
「安い」
商人の父が口にする、いちばん上等な褒め言葉だった。
月が、二人の影を石畳に同じ長さで伸ばしていた。背後で、父の帯の鍵は鳴らなかった。
ひと月後、葉家の隣の空き店に、小さな看板が掛かった。
霜梅。
母が二人の娘の名から付けた茶の名を、そのまま屋号にした。雪茗さまが、西回りの積荷の最初の一口を、この店に回してくださった。看板の前を通るとき、父は足を止めない。帯の鍵が鳴るので、通ったと分かる。
質屋の帳を見せてもらうと、七本の簪が、一本ずつ別の日付で並んでいた。質入れ人の欄は、どれも妹の名で、丸い字だった。積荷の口銭で、全部受け出した。利息を含めて四十一錘と二分。十年で、帳に付けなかった、最初の支払いだった。
その夜、妹が荷を持って、店の二階へ来た。風呂敷がひとつ。それだけだった。今度は、わたしが妹の荷造りを手伝った。手伝うことは、ほとんどなかった。
簪の箱を風呂敷の上に置いて蓋を開けると、七本が灯を受けた。
妹はすぐには何も言わず、やがて「重いです」と言った。
「重いくらいが、ちょうどいいの」
わたしは蓋を閉め、風呂敷の結び目をきつく結んだ。
「怒っているのよ。わたしの返事を、勝手に決めたこと」
「はい」
「それから、借りができたわ。貸方に書けない借りは、一生かけて、割賦で返すものなの。覚悟しなさい」
妹は少し笑った。大きすぎない声だった。
妹が風呂敷を抱え上げたとき、箱の中で、七本の簪が一度だけ鳴った。
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