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水面の記憶

掲載日:2026/02/01

 引っ越し先のマンションには、大きなプールがあった。


 五月の午後、新藤麻衣は七階の窓から、そのプールを見下ろしていた。水面は鏡のように静かで、誰も泳いでいない。


 三十一歳。離婚して半年。新しい生活を始めるために、都内のマンションに引っ越してきた。


 プールは、住民専用の施設だった。管理人の話では、一年中利用できるという。


「プール、か」


 麻衣は、水面を見つめた。


 子供の頃から、水が好きだった。泳ぐのも得意で、高校時代は水泳部に所属していた。


「久しぶりに泳いでみようかな」


 麻衣は、そう思った。


---


 翌日の夜、麻衣はプールに行った。


 利用時間は夜十時まで。仕事帰りでも十分間に合う。


 更衣室で水着に着替えた。誰もいない。プールサイドに出ると、やはり誰もいなかった。


 水面は、静かだった。


 麻衣は、プールに入った。


 水は冷たかった。でも、気持ちいい。


 久しぶりの感覚に、体が喜んでいた。


 麻衣は、ゆっくりと泳ぎ始めた。


 クロールで、25メートルプールを往復する。


 水を掻く音だけが、静かに響いた。


 十往復ほどした時、麻衣は息継ぎをした。


 その時、水面に何かが映った。


 人の顔。


 麻衣ではない、別の顔。


 麻衣は、驚いて立ち止まった。


 水面を見る。


 何も映っていなかった。


「気のせいか」


 麻衣は、泳ぎを続けた。


---


 次の日も、麻衣はプールに行った。


 やはり、誰もいなかった。


 麻衣は、泳ぎながら考えた。


 このマンション、入居者は多いはずなのに、なぜプールに誰も来ないのだろう。


 泳ぎ終わって、更衣室に戻った時、掃除のおばさんがいた。


「あら、泳いでたの」


 おばさんが、驚いた顔で言った。


「はい」


「久しぶりね、プールを使う人」


「そうなんですか」


「ええ。もう半年以上、誰も泳いでないわ」


 おばさんは、タオルを畳みながら言った。


「どうしてですか」


「さあ。みんな、何となく入らなくなったのよ」


 おばさんの表情が、少し曇った。


「何かあったんですか」


「いいえ、別に。ただ、プールって、ちょっと怖いでしょう」


「怖い?」


「深いし、広いし。一人で泳ぐのは、寂しいものよ」


 おばさんは、そう言って去っていった。


---


 三日目の夜。


 麻衣は、また泳いでいた。


 二十往復を終えて、プールサイドで休んでいた時、水面が揺れた。


 誰も入っていないのに。


 麻衣は、水面を見つめた。


 波紋が広がっている。


 まるで、誰かが水中から手を伸ばしたように。


 麻衣は、プールの底を見た。


 照明で、底まで見える。


 誰もいない。


「おかしい」


 麻衣は、プールから上がった。


 シャワーを浴びて、更衣室に戻った。


 鏡の前で髪を乾かしていた時、鏡に映った自分の目が、いつもと違った。


 何かを訴えているような、悲しい目。


 麻衣は、鏡から目を逸らした。


---


 四日目。


 麻衣は、管理人に聞いてみた。


「プールで、何か事故があったんですか」


 管理人は、少し躊躇した。


「どうして、そんなことを」


「いえ、誰も泳いでいないので」


「そうですね。実は、三年前に」


 管理人は、声を落とした。


「住民の方が、プールで亡くなったんです」


 麻衣の背筋が、冷えた。


「溺死ですか」


「いいえ。心臓発作だったようです。泳いでいる最中に」


「そうなんですか」


「それ以来、皆さん、プールを避けるようになって」


 管理人は、申し訳なさそうに言った。


「でも、プール自体に問題はないんですよね」


「ええ。安全点検も定期的にしています」


 麻衣は、安心した。


 心臓発作なら、プールのせいではない。


---


 その夜、麻衣はまたプールに行った。


 泳ぎ始めて、十往復したところで、また水面に顔が映った。


 今度ははっきりと見えた。


 女性の顔。


 年齢は、四十代くらい。


 目が、じっとこちらを見ている。


 麻衣は、立ち止まった。


 水面を見る。


 顔は、消えていた。


 麻衣の心臓が、早鐘を打った。


「誰」


 声が出た。


 プールの中は、麻衣だけ。


 しかし、確かに見た。


 女性の顔。


 麻衣は、急いでプールから上がった。


---


 更衣室で、麻衣は震えていた。


 幻覚だろうか。


 それとも。


 麻衣は、鏡を見た。


 鏡の中の自分が、笑っていた。


 麻衣は、笑っていないのに。


 鏡の中の自分だけが、微笑んでいた。


 麻衣は、悲鳴を上げた。


---


 家に戻った麻衣は、眠れなかった。


 水面の顔。


 鏡の中の笑顔。


 全て、自分ではない何かが、そこにいた。


 翌日、麻衣は管理人に再び聞いた。


「三年前に亡くなった方、どんな人だったんですか」


「四十代の女性でした。一人暮らしで」


「名前は」


「確か、田村さんという方でした」


「その人、よくプールで泳いでいたんですか」


「ええ。毎晩のように」


 管理人は、遠い目をした。


「一人で、黙々と泳いでいました」


 麻衣は、胸が詰まった。


 一人で泳ぐ女性。


 それは、今の自分と同じだった。


---


 その夜、麻衣は決意した。


 もう一度、プールに行く。


 そして、確かめる。


 水面に映ったのは、田村さんなのか。


 夜九時、麻衣はプールに入った。


 水は、いつもより冷たく感じた。


 泳ぎ始めた。


 五往復、十往復。


 何も起きない。


 十五往復目。


 息継ぎをした時、水面に顔が映った。


 田村さんだ。


 はっきりと見えた。


 そして、その顔が、口を開いた。


「一緒に」


 声が、水の中から聞こえた。


「一緒に、泳ぎましょう」


 麻衣は、恐怖で体が固まった。


 水面の田村さんが、手を伸ばしてきた。


 水中から、冷たい手が、麻衣の足を掴んだ。


「いやあ!」


 麻衣は、必死で泳いだ。


 プールサイドに這い上がった。


 振り返ると、プールの水面は静かだった。


 誰もいない。


 何もいない。


 ただ、水だけがそこにあった。


---


 麻衣は、それ以来プールに行かなくなった。


 しかし、夜になると、水の音が聞こえた。


 部屋の中に、誰もいないのに。


 シャワーから、水が滴る音。


 キッチンの蛇口から、水が流れる音。


 そして、バスルームの鏡に、田村さんの顔が映った。


「一緒に」


 田村さんが、また言った。


「一緒に、泳ぎましょう」


 麻衣は、鏡から目を逸らした。


 しかし、声は続いた。


「寂しいの」


「一人で泳ぐのは、寂しいの」


「だから、一緒に」


---


 麻衣は、管理人に相談した。


「部屋を変えてもらえませんか」


「どうしてですか」


「プールが、見えない部屋に」


 管理人は、困った顔をした。


「空室はありますが、引っ越したばかりですよね」


「お願いします」


 麻衣の目には、涙が浮かんでいた。


 管理人は、事情を察したのか、頷いた。


「分かりました」


---


 新しい部屋は、十二階だった。


 窓からは、プールが見えない。


 麻衣は、ほっとした。


 これで、もう大丈夫。


 そう思った。


 しかし、その夜。


 バスタブに水を張った時、水面に田村さんの顔が映った。


「どこに行っても、いるのよ」


 田村さんが、言った。


「水のある場所には、どこにでも」


 麻衣は、悲鳴を上げた。


---


 麻衣は、もう水を使わなくなった。


 シャワーも浴びない。


 料理もしない。


 ペットボトルの水だけで、生活した。


 しかし、それでも逃げられなかった。


 ペットボトルの水にも、田村さんの顔が映った。


 小さく、歪んで。


 でも、確かにそこにいた。


---


 麻衣は、精神科を受診した。


 医師は、幻覚の可能性を指摘した。


「ストレスで、幻覚を見ることがあります」


「でも、本当に見えるんです」


「薬を出しましょう」


 麻衣は、薬を飲んだ。


 しかし、田村さんは消えなかった。


---


 ある夜、麻衣は夢を見た。


 プールの中にいる夢。


 田村さんが、隣で泳いでいた。


「ほら、楽しいでしょう」


 田村さんが、笑った。


「一人じゃないって、こんなに楽しいの」


 麻衣は、答えなかった。


 ただ、泳ぎ続けた。


 永遠に、終わらない泳ぎを。


---


 目が覚めた時、麻衣はバスタブの中にいた。


 水が、首まで張られていた。


 麻衣は、自分で水を張った記憶がなかった。


 鏡を見ると、田村さんが映っていた。


 そして、田村さんの隣に、麻衣も映っていた。


 二人は、同じように笑っていた。


---


 翌朝、管理人が麻衣の部屋を訪れた。


 返事がない。


 鍵を開けて入ると、バスルームから水音が聞こえた。


 管理人が、ドアを開けた。


 バスタブの中に、麻衣がいた。


 水面に、顔を沈めて。


 動かなかった。


---


 検死の結果、溺死だった。


 自殺か、事故か。


 判断はつかなかった。


 ただ、麻衣の顔は、微笑んでいた。


 まるで、幸せそうに。


---


 それから、プールを使う住民はいなくなった。


 管理人も、プールの清掃をしなくなった。


 プールの水は、澱んでいった。


 しかし、時々、夜になると、水面が揺れた。


 誰もいないのに。


 二人の女性が、楽しそうに泳いでいるように。


 水面に、二つの笑顔が映った。


 田村さんと、麻衣。


 二人は、もう寂しくなかった。


 永遠に、一緒に泳ぎ続けることができた。


 水の中で。

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