水面の記憶
引っ越し先のマンションには、大きなプールがあった。
五月の午後、新藤麻衣は七階の窓から、そのプールを見下ろしていた。水面は鏡のように静かで、誰も泳いでいない。
三十一歳。離婚して半年。新しい生活を始めるために、都内のマンションに引っ越してきた。
プールは、住民専用の施設だった。管理人の話では、一年中利用できるという。
「プール、か」
麻衣は、水面を見つめた。
子供の頃から、水が好きだった。泳ぐのも得意で、高校時代は水泳部に所属していた。
「久しぶりに泳いでみようかな」
麻衣は、そう思った。
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翌日の夜、麻衣はプールに行った。
利用時間は夜十時まで。仕事帰りでも十分間に合う。
更衣室で水着に着替えた。誰もいない。プールサイドに出ると、やはり誰もいなかった。
水面は、静かだった。
麻衣は、プールに入った。
水は冷たかった。でも、気持ちいい。
久しぶりの感覚に、体が喜んでいた。
麻衣は、ゆっくりと泳ぎ始めた。
クロールで、25メートルプールを往復する。
水を掻く音だけが、静かに響いた。
十往復ほどした時、麻衣は息継ぎをした。
その時、水面に何かが映った。
人の顔。
麻衣ではない、別の顔。
麻衣は、驚いて立ち止まった。
水面を見る。
何も映っていなかった。
「気のせいか」
麻衣は、泳ぎを続けた。
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次の日も、麻衣はプールに行った。
やはり、誰もいなかった。
麻衣は、泳ぎながら考えた。
このマンション、入居者は多いはずなのに、なぜプールに誰も来ないのだろう。
泳ぎ終わって、更衣室に戻った時、掃除のおばさんがいた。
「あら、泳いでたの」
おばさんが、驚いた顔で言った。
「はい」
「久しぶりね、プールを使う人」
「そうなんですか」
「ええ。もう半年以上、誰も泳いでないわ」
おばさんは、タオルを畳みながら言った。
「どうしてですか」
「さあ。みんな、何となく入らなくなったのよ」
おばさんの表情が、少し曇った。
「何かあったんですか」
「いいえ、別に。ただ、プールって、ちょっと怖いでしょう」
「怖い?」
「深いし、広いし。一人で泳ぐのは、寂しいものよ」
おばさんは、そう言って去っていった。
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三日目の夜。
麻衣は、また泳いでいた。
二十往復を終えて、プールサイドで休んでいた時、水面が揺れた。
誰も入っていないのに。
麻衣は、水面を見つめた。
波紋が広がっている。
まるで、誰かが水中から手を伸ばしたように。
麻衣は、プールの底を見た。
照明で、底まで見える。
誰もいない。
「おかしい」
麻衣は、プールから上がった。
シャワーを浴びて、更衣室に戻った。
鏡の前で髪を乾かしていた時、鏡に映った自分の目が、いつもと違った。
何かを訴えているような、悲しい目。
麻衣は、鏡から目を逸らした。
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四日目。
麻衣は、管理人に聞いてみた。
「プールで、何か事故があったんですか」
管理人は、少し躊躇した。
「どうして、そんなことを」
「いえ、誰も泳いでいないので」
「そうですね。実は、三年前に」
管理人は、声を落とした。
「住民の方が、プールで亡くなったんです」
麻衣の背筋が、冷えた。
「溺死ですか」
「いいえ。心臓発作だったようです。泳いでいる最中に」
「そうなんですか」
「それ以来、皆さん、プールを避けるようになって」
管理人は、申し訳なさそうに言った。
「でも、プール自体に問題はないんですよね」
「ええ。安全点検も定期的にしています」
麻衣は、安心した。
心臓発作なら、プールのせいではない。
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その夜、麻衣はまたプールに行った。
泳ぎ始めて、十往復したところで、また水面に顔が映った。
今度ははっきりと見えた。
女性の顔。
年齢は、四十代くらい。
目が、じっとこちらを見ている。
麻衣は、立ち止まった。
水面を見る。
顔は、消えていた。
麻衣の心臓が、早鐘を打った。
「誰」
声が出た。
プールの中は、麻衣だけ。
しかし、確かに見た。
女性の顔。
麻衣は、急いでプールから上がった。
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更衣室で、麻衣は震えていた。
幻覚だろうか。
それとも。
麻衣は、鏡を見た。
鏡の中の自分が、笑っていた。
麻衣は、笑っていないのに。
鏡の中の自分だけが、微笑んでいた。
麻衣は、悲鳴を上げた。
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家に戻った麻衣は、眠れなかった。
水面の顔。
鏡の中の笑顔。
全て、自分ではない何かが、そこにいた。
翌日、麻衣は管理人に再び聞いた。
「三年前に亡くなった方、どんな人だったんですか」
「四十代の女性でした。一人暮らしで」
「名前は」
「確か、田村さんという方でした」
「その人、よくプールで泳いでいたんですか」
「ええ。毎晩のように」
管理人は、遠い目をした。
「一人で、黙々と泳いでいました」
麻衣は、胸が詰まった。
一人で泳ぐ女性。
それは、今の自分と同じだった。
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その夜、麻衣は決意した。
もう一度、プールに行く。
そして、確かめる。
水面に映ったのは、田村さんなのか。
夜九時、麻衣はプールに入った。
水は、いつもより冷たく感じた。
泳ぎ始めた。
五往復、十往復。
何も起きない。
十五往復目。
息継ぎをした時、水面に顔が映った。
田村さんだ。
はっきりと見えた。
そして、その顔が、口を開いた。
「一緒に」
声が、水の中から聞こえた。
「一緒に、泳ぎましょう」
麻衣は、恐怖で体が固まった。
水面の田村さんが、手を伸ばしてきた。
水中から、冷たい手が、麻衣の足を掴んだ。
「いやあ!」
麻衣は、必死で泳いだ。
プールサイドに這い上がった。
振り返ると、プールの水面は静かだった。
誰もいない。
何もいない。
ただ、水だけがそこにあった。
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麻衣は、それ以来プールに行かなくなった。
しかし、夜になると、水の音が聞こえた。
部屋の中に、誰もいないのに。
シャワーから、水が滴る音。
キッチンの蛇口から、水が流れる音。
そして、バスルームの鏡に、田村さんの顔が映った。
「一緒に」
田村さんが、また言った。
「一緒に、泳ぎましょう」
麻衣は、鏡から目を逸らした。
しかし、声は続いた。
「寂しいの」
「一人で泳ぐのは、寂しいの」
「だから、一緒に」
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麻衣は、管理人に相談した。
「部屋を変えてもらえませんか」
「どうしてですか」
「プールが、見えない部屋に」
管理人は、困った顔をした。
「空室はありますが、引っ越したばかりですよね」
「お願いします」
麻衣の目には、涙が浮かんでいた。
管理人は、事情を察したのか、頷いた。
「分かりました」
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新しい部屋は、十二階だった。
窓からは、プールが見えない。
麻衣は、ほっとした。
これで、もう大丈夫。
そう思った。
しかし、その夜。
バスタブに水を張った時、水面に田村さんの顔が映った。
「どこに行っても、いるのよ」
田村さんが、言った。
「水のある場所には、どこにでも」
麻衣は、悲鳴を上げた。
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麻衣は、もう水を使わなくなった。
シャワーも浴びない。
料理もしない。
ペットボトルの水だけで、生活した。
しかし、それでも逃げられなかった。
ペットボトルの水にも、田村さんの顔が映った。
小さく、歪んで。
でも、確かにそこにいた。
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麻衣は、精神科を受診した。
医師は、幻覚の可能性を指摘した。
「ストレスで、幻覚を見ることがあります」
「でも、本当に見えるんです」
「薬を出しましょう」
麻衣は、薬を飲んだ。
しかし、田村さんは消えなかった。
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ある夜、麻衣は夢を見た。
プールの中にいる夢。
田村さんが、隣で泳いでいた。
「ほら、楽しいでしょう」
田村さんが、笑った。
「一人じゃないって、こんなに楽しいの」
麻衣は、答えなかった。
ただ、泳ぎ続けた。
永遠に、終わらない泳ぎを。
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目が覚めた時、麻衣はバスタブの中にいた。
水が、首まで張られていた。
麻衣は、自分で水を張った記憶がなかった。
鏡を見ると、田村さんが映っていた。
そして、田村さんの隣に、麻衣も映っていた。
二人は、同じように笑っていた。
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翌朝、管理人が麻衣の部屋を訪れた。
返事がない。
鍵を開けて入ると、バスルームから水音が聞こえた。
管理人が、ドアを開けた。
バスタブの中に、麻衣がいた。
水面に、顔を沈めて。
動かなかった。
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検死の結果、溺死だった。
自殺か、事故か。
判断はつかなかった。
ただ、麻衣の顔は、微笑んでいた。
まるで、幸せそうに。
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それから、プールを使う住民はいなくなった。
管理人も、プールの清掃をしなくなった。
プールの水は、澱んでいった。
しかし、時々、夜になると、水面が揺れた。
誰もいないのに。
二人の女性が、楽しそうに泳いでいるように。
水面に、二つの笑顔が映った。
田村さんと、麻衣。
二人は、もう寂しくなかった。
永遠に、一緒に泳ぎ続けることができた。
水の中で。




