第8話 切られる側の声
無名地帯の朝は、静かだった。
静かすぎて、何かが欠けていることがはっきり分かる。
四歳のミルザがいた場所には、もう小さな靴は置かれていなかった。
テントの前に残るのは、踏み固められた土と、誰かが拭った跡だけだ。
「……ここが、あの子の場所です」
支援団体の女性が、小さく指を差した。
彼女は淡々としている。感情を出す余裕がない人間の顔だ。
「ありがとうございます」
私は短く礼を言い、その場に膝をついた。
政治的な意味はない。
儀式でもない。
ただ、ここに人がいたという事実を、体に刻むためだ。
背後で、ミハイルが息を呑むのが分かった。
首相が、地面に膝をつく。
それが何を意味するか、彼は理解している。
「……首相」
女性が戸惑いながら言う。
「そんなことをされても、
私たちの生活は、すぐには良くなりません」
「承知しています」
私は立ち上がった。
「だから、約束もしません。
ただ――」
私は彼女を見た。
「声を聞かせてください」
彼女は、一瞬だけ視線を逸らし、それから言った。
「……切られる側の声を?」
「はい」
彼女は、乾いた笑いを漏らした。
「珍しいですね。
いつもは、“代表”としか話してもらえません」
「代表は、便利ですから」
「ええ。
切るときも、楽です」
その言葉が、胸に刺さる。
即席の集会が開かれた。
大きな会場ではない。
壊れかけの倉庫の中、円にもならない形で人が集まる。
老人、母親、若者、子ども。
そして、怒り。
「どうせ、三十日なんだろ!」
「終わったら、また捨てられる!」
「名前を覚えるって言ったって、
結局、切るんだろ!」
声は荒れている。
だが、これは暴動ではない。
恐怖の発露だ。
私は、一切遮らなかった。
反論もしない。
正論も言わない。
全員が言い切るまで、立って聞いた。
十分ほど経って、声が途切れた。
「……以上ですか」
私は静かに確認した。
「それが、あなたたちの声ですね」
沈黙。
私は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「切られる側の人間が、
切られる理由を理解できない世界は、
遅かれ早かれ、壊れます」
誰かが、鼻で笑った。
「理解できたら、切られていいのかよ」
「いいえ」
私は即答した。
「理解できるなら、切る前に止められる」
倉庫の空気が、わずかに動いた。
「あなたたちは、
ここに置き去りにされたのではありません」
私は続ける。
「置き去りにされる仕組みの中に、押し込められた」
それは、責任の所在を個人から構造へ戻す言葉だった。
その夜。
私は官邸ではなく、無名地帯の簡易宿舎に泊まった。
「……危険です」
ミハイルが、最後まで反対した。
「危険だからです」
私は答えた。
「ここにいないと、
切られる判断が、簡単になります」
夜中、外で騒ぎが起きた。
小さな衝突。
物資の取り合い。
私は、警護を制して外に出た。
「……首相!」
「待ってください」
争っていた二人の若者が、こちらを見る。
「ここは、今、誰の場所ですか」
私は尋ねた。
「……俺たちの」
「そうです」
私は頷いた。
「なら、守るのも、壊すのも、あなたたちです」
二人は、何も言えなくなった。
問題は解決しない。
だが、責任が宙に浮くのを防いだ。
翌朝。
世界協定事務局に、一本の正式提案を送った。
《切断判断に関する補助原則案》
内容は、単純だった。
切断を検討する場合
必ず「切られる側の代表」から直接聴取する
聴取内容は、議事録に全文掲載
名前は、省略しない
当然、反発は強かった。
「非効率だ」
「感情論だ」
「危険だ」
ユリウスからも、短い返答が来た。
……それでは、間に合わない場面がある。
私は、すぐに返した。
ええ。
それでも、
間に合わなかった理由を、
誰かが説明できるようにします
その日の夕方。
ナディアが、私のところに来た。
「……ねえ」
「どうしました」
「きるって、どういうこと?」
私は、しばらく考えた。
「助けるのを、やめることです」
「……なんで?」
「間に合わないと思ったときです」
彼女は、眉をひそめた。
「じゃあ、きられないようにするには?」
私は答えた。
「ここにいるって、言い続けることです」
「……それ、つかれる?」
「ええ」
彼女は、少し考えて、言った。
「でも、いなくなるより、いい」
私は、思わず微笑んだ。
その瞬間、端末が震える。
世界協定事務局からの速報。
《一部地域において、
切断判断の再検討が始まった》
小さな変化だ。
遅い。
効率も悪い。
だが――
切られる側の声が、
初めて“議題になる世界”が、
ほんの一歩、近づいた。
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