第30話 奪われた人徳
招請は、
静かに届いた。
紙でもなく、
正式な通達でもない。
非公式回線。
簡潔な文面。
《顧問就任のご相談》
それだけだった。
男は、
無名地帯の簡易宿舎で、
その通知を眺めていた。
期限は書かれていない。
条件もない。
必要なのは、
彼の存在だけだ。
――象徴として。
――保証として。
――制度が正しいと示すための証明として。
男は、
端末を伏せた。
まだ、
返事はしない。
同じ頃。
エリアス・ノートンは、
現場連絡室の端で、
最後の業務を終えていた。
配置転換ではない。
異動でもない。
任期満了。
それが、
公式な理由だった。
「……お世話になりました」
形式的な挨拶。
形式的な返答。
誰も、
彼を引き止めない。
引き止める理由が、
制度上、存在しないからだ。
帰り際。
エリアスは、
建物の外で立ち止まった。
世界協定の高い壁。
中では、
判断が回り続けている。
安全に。
迅速に。
誰も引き受けないまま。
「……間違って、
いなかったはずだ」
彼は、
自分に言い聞かせるように呟いた。
だが、
胸の奥に残るのは、
肯定ではない。
空白だ。
無名地帯では、
夜の集会が、
いつもより早く終わっていた。
灯りが足りない。
声も、少ない。
「……説明は、
来てるからな」
誰かが言う。
それで、
話は終わる。
説明がある限り、
議論は生まれない。
男は、
焚き火のそばで、
紙を広げた。
名前が並んでいる。
消された名前。
切られた名前。
説明の外に落ちた名前。
彼は、
一つ一つを指でなぞる。
そして、
低く呟いた。
「……これは、
人徳じゃない」
焚き火が、
小さく弾ける。
「ただの、
免罪符だ」
制度は、
人徳を模倣した。
だが、
引き受ける覚悟だけは、
奪ってしまった。
世界協定・最上階。
ユリウス・グランフェルトは、
最終報告書に目を通していた。
安定。
効率。
成功。
どれも、
嘘ではない。
それでも、
彼は、
招請文の写しから、
目を離せずにいた。
「……象徴、か」
それは、
敗北ではない。
だが、
勝利でもない。
世界が、
自分だけでは足りないと、
認めた証だ。
夜明け前。
男は、
無名地帯を離れる準備をしていた。
誰にも、
告げない。
引き止める理由を、
与えないために。
彼は、
最後に、
灯りの消えた通りを振り返る。
ここでは、
まだ、
名前が呼ばれている。
制度の外で。
説明の外で。
それが、
彼の原点だった。
端末が、
もう一度、
震えた。
同じ招請。
同じ文面。
男は、
しばらく沈黙し、
短く入力した。
《検討します》
拒否でも、
承諾でもない。
だが、
世界は理解する。
これは、
戻るかどうかではない。
――奪われたものを、
取り戻すかどうかだ。
人徳は、
広げればいいものではない。
制度にすれば、
守れるものでもない。
引き受ける人間がいて、
初めて、
人徳になる。
それを、
世界は忘れた。
そして、
忘れたまま、
安全になった。
だから、
次に壊れるのは、
制度ではない。
世界そのものだ。
それを止めるために、
男は、
再び、
引き受ける場所へ向かう。
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