第29話 安全な世界
世界は、安定した。
少なくとも、
数字の上では。
世界協定の定例報告は、
これまでになく滑らかに進んだ。
「判断処理速度、平均十二%向上」
「再検討要求、前期比三割減」
「抗議件数、
想定値を大きく下回っています」
報告者の声には、
抑えきれない安堵が混じっていた。
誰もが、
長い緊張から解放された顔をしている。
――うまくいっている。
そう言っていい状況だった。
ユリウス・グランフェルトは、
議長席で静かに頷いた。
数字は、正直だ。
制度は、機能している。
一拍の遅れも、
ここ最近は見られない。
説明欄は定型化され、
確認は迅速に済む。
判断は、
再び即答に近づいていた。
――世界は、
元の速度を取り戻しつつある。
それが、
正しい姿のはずだった。
会議後。
若手職員たちが、
廊下で小声で話している。
「最近、
仕事が楽だよな」
「ああ。
迷わなくていい」
「判断理由、
考えなくて済むし」
笑い声が、短く弾んだ。
誰も、
悪意を持っていない。
ただ、
安心しているだけだ。
同じ時間。
現場連絡室では、
エリアス・ノートンが、
静かに端末を見つめていた。
彼の仕事は、
情報を受け取り、
定型文に当てはめ、
流すこと。
判断はしない。
責任も、取らない。
画面には、
彼が関与しない案件が、
次々と流れていく。
どれも、
適正。
妥当。
安全。
エリアスは、
拳を握りしめた。
だが、
何もできない。
ここでは、
彼の正しさは、
不要だからだ。
無名地帯では、
夜の灯りが、
一つ減っていた。
理由は、単純だ。
発電用部品の補充が、
行われなかった。
申請は出ていた。
却下もされていない。
ただ、
優先度が低かった。
それだけだ。
「……暗くなったな」
「まあ、
仕方ない」
「説明は、
来てたろ」
人々は、
それ以上、話さなかった。
説明がある以上、
納得しなければならない。
納得できない感情は、
持ち場を失う。
男は、
暗くなった通りを歩きながら、
周囲を見渡した。
誰も、騒いでいない。
怒ってもいない。
世界は、
静かに安全だ。
だが、
その安全は、
何かを前提にしている。
――声を上げないこと。
――期待しないこと。
――引き受けられないことを、
最初から諦めること。
男は、
ポケットの中の紙に触れた。
名前が、
いくつか並んでいる。
増えてはいない。
減ってもいない。
だが、
呼ばれる回数が、減っている。
世界協定の内部広報が、
簡潔な文書を公開した。
《切断判断透明化制度の定着により、
世界は安定段階に入りました》
祝福の言葉。
未来志向の文章。
どこにも、
犠牲という文字はない。
犠牲が、
見えなくなったからだ。
夜。
ユリウスは、
一人で資料を閉じた。
安定。
効率。
安全。
それらは、
すべて満たされている。
それでも、
彼は、
ある名前を思い出していた。
――エリアス・ノートン。
すでに、
判断卓にはいない名前。
だが、
消したはずの存在が、
なぜか、
思考に引っかかる。
「……問題は、
起きていない」
ユリウスは、
自分に言い聞かせる。
問題は、起きていない。
だから、
戻る理由もない。
それが、
世界の論理だ。
だが、
安全な世界には、
一つだけ、
致命的な欠陥がある。
誰も、
壊れたことに気づかない。
壊れているのは、
判断でも、
制度でもない。
――引き受ける人間だ。
そして、
引き受ける人間が、
完全に消えたとき。
世界は、
本当の意味で、
安全になる。
誰も、
声を上げない世界として。
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