第23話 孤立
エリアス・ノートンの机の周りだけ、音がなかった。
キーボードを叩く音も、
紙をめくる音も、
椅子を引く音さえも。
世界協定事務局の執務室は、いつも通り動いている。
だが、彼の周囲だけが、わずかに空白を帯びていた。
誰も露骨に避けているわけではない。
挨拶もある。
業務連絡も来る。
ただ――
余計な一言が、消えた。
「……ノートン君」
昼前、上司が書類を置いて言った。
「この案件、君の担当だが、
制度適用を前提に進めてくれ」
「現地は、
例外条件に該当します」
エリアスは即座に返した。
「支援団体が残る。
医療も継続中です」
「それでもだ」
上司の声は低い。
「制度は、
例外を減らすためにある」
「……例外が、
人なんです」
その言葉に、上司は返答しなかった。
返答しない、という判断。
それが、最近増えている。
午後。
エリアスは、制度文書を開きながら、
自分の過去の記述を探していた。
以前なら、
議事録の片隅に残っていたはずの文章。
切断後、
現地に残る人間の行動について――
見つからない。
削除されたわけではない。
置き換えられている。
同じ意味。
同じ結論。
同じ処理。
ただ、
誰がそう書いたのかが、
分からなくなっている。
「……」
エリアスは、端末から目を離した。
胸の奥に、
説明しきれない圧迫感が溜まる。
彼は、周囲を見渡した。
同僚たちは、それぞれの画面を見ている。
制度に従い、
迷わず、
速やかに。
誰も、悪くない。
誰も、逃げていない。
それが、
一番、苦しい。
休憩室。
エリアスがコーヒーを注いでいると、
後輩が入ってきた。
「……ノートンさん」
「どうした?」
「いえ、その……」
後輩は、言葉を探す。
「最近、
無理してませんか」
その問いに、
エリアスは一瞬、答えを失った。
「無理、とは」
「……制度、
ちゃんと回ってますし」
後輩は、視線を逸らした。
「ノートンさんが、
全部引き受けなくても」
全部。
その言葉が、
ゆっくりと刺さる。
「……君は、
ここまで来たことがあるか」
エリアスは、静かに聞いた。
「切断後の地域に、
一人で立ったことが」
後輩は、首を振った。
「ありません」
「そうだろう」
エリアスは、カップを置いた。
「なら、
“全部”が何か、
知らない」
後輩は、何も言えなかった。
その沈黙は、
拒絶ではない。
距離だ。
夜。
エリアスは、
世界協定の建物を出たあと、
少しだけ遠回りをした。
無名地帯へ向かうわけではない。
そこに行く資格が、
自分にあるのか分からなかったからだ。
代わりに、
街の外れで立ち止まる。
薄暗い通り。
灯りは少ない。
彼は、ポケットから、
古い議事録の写しを取り出した。
匿名。
署名なし。
それでも、
文体で分かる。
ここに、
誰かが立っていた。
「……どうして、
耐えられたんですか」
エリアスは、
誰に向けるでもなく、
呟いた。
「どうして、
あんなやり方で、
壊れなかった」
答えは、来ない。
来ないから、
彼は考え続ける。
そして、
少しずつ、
間違った結論に近づいていく。
――全部、引き受ければいい。
そうすれば、
誰も切られない。
誰も、消えない。
その考えが、
どれほど危ういかを、
彼は、まだ知らない。
深夜。
無名地帯では、
男が、静かに荷を運んでいた。
名前を呼ばれることもなく、
指示を出すこともなく。
ただ、
そこにいる。
遠くで、
誰かが名前を呼ぶ声がする。
男は、一瞬だけ手を止め、
その声を聞いた。
そして、
何も言わず、
また歩き出す。
近づきすぎると、
同じ場所に立ってしまう。
それを、
彼は知っている。
だから、
何もしない。
だが――
誰かが、
そこに立とうとしていることも。
エリアス・ノートンという名前が、
世界の中で、
ゆっくりと孤立していく。
それは、
排除ではない。
切られる前の、
最も静かな段階だった。
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