第2話 議長国、凍結
会議場は、静かだった。
静かすぎて、逆に騒音のように耳を刺す。
世界協定再編会議――通称「アコード会議」は、国際協定事務局の最上階、円卓ホールで行われる。壁一面のガラス窓の向こうに、灰色の冬空と、遠くの海が見えた。
透明な景色の中にだけ、ここが現実ではない場所のように浮いている。
「議長国リュミエル小邦、首相アレクシス・ヴァルディーン。着席いたします」
事務局スタッフの声が、儀礼の輪郭を作る。
私は席に着き、資料を整えた。左手に議事進行、右手に追加議題――“議長権限凍結案”。
ミハイルは私の背後、半歩下がった位置に立つ。
彼は若いが、今この二時間で十歳くらい年を取った顔をしている。
「……本当に、ここで受けて立つんですか」
小声が震えていた。
「受けないと、こちらの声が永久に届かなくなる」
私は正直に答えた。慰めではない。事実だ。
円卓の向こう側が、わずかにざわめく。
扉が開き、各国代表が入室してきた。
最初に歩いてきたのは、アークレイン連合代表――レオナード・クロウフォード。
長身。肩幅が広く、軍服の名残を残した濃紺のスーツが似合いすぎる男だ。軽く手を上げ、まるで旧友に会うみたいに笑った。
「久しぶりだな、アレクシス。……いや、“首相閣下”か? 似合わないな」
軽口。だが、笑っている目が笑っていない。
彼は相手の弱さを測る癖がある。
「久しぶりですね、クロウフォード代表。席へどうぞ」
「もちろん。今日は穏便に頼むよ。君の国が“爆発”すると、周囲が迷惑する」
冗談の形をした宣告だった。
次いで、ユエン=ファン帝国宰相――リン・シャオユン。
装飾の多い官服を現代風に落としたような衣装。背筋が真っ直ぐで、歩く速度まで制御されている。
私を一瞥し、必要最小限に頷いた。
「就任、おめでとうございます。短い在任になるでしょうが」
言葉に毒がないぶん、冷たい。
「ありがとうございます。短いかどうかは、私一人で決められません」
「事実は、誰にも決められません。起きます」
会話はそこで切れた。
彼は切った。私の心を切るためではない。時間を切るためだ。無駄を嫌う。
三人目――ノルグラード最高司令官、イーサン・ヴォルグ。
大柄で、目が鋭い。軍服ではないのに、軍人の圧が抜けない。
椅子を引く音が、わざとらしいほど大きかった。
「……議長国が変わったと聞いた」
「はい。私です」
「信用はしていない」
彼はそれだけ言って、座った。
信用しない宣言は、ノルグラード流の挨拶だ。信用する前提で話を進めるのが弱さになる国。
四人目――カイザル聖国代行執政官、サミュエル・オルフェ。
若い。目が燃えている。
彼は席に着く前から怒っていた。怒りを携えてここに来た。
「議長国が不安定だと聞いた。神の裁きだ。世界は、偽りの秩序を許さない」
「ようこそ。オルフェ執政官」
私は短く返す。彼の熱に巻き込まれないように。
最後に――エルディア連邦評議長、マリアンヌ・ヴァイス。
上品な微笑みを携え、椅子を引く所作すら演技みたいに美しい。
彼女は私を見ると、やわらかく首を傾げた。
「お久しぶりです、ヴァルディーンさん。……今日のあなたは、とても疲れて見えます」
「ありがとうございます。疲れていることに気づいていただける方が、ここにいるのは助かります」
「まあ」
笑う。だが、その笑みの奥にあるのは警戒だ。
エルディアは優しさで包む。包んで、相手の動きを止める。
全員が座り、円卓が閉じる。
ここから先、逃げ場はない。
事務局長が立ち上がり、儀礼を開始する。
「世界協定再編会議を開会します。本会議の議長国はリュミエル小邦――」
その瞬間、レオナードが手を挙げた。
「議題の前に、手続きの確認を。――議長国の安定性について、追加議題が提出されている」
空気が、氷の膜を張った。
私は資料を一枚めくり、淡々と言う。
「提出されています。議長国権限の一時凍結案。提案者は……国際協定事務局となっていますが、実質は諸国の共同提案でしょう」
レオナードが肩をすくめる。
「察しが良くて助かる。君の国の首相が月に三回辞めるとなれば、議長の権威が揺らぐ。会議の信用が落ちる。――世界は待ってくれない」
リン宰相が続けて短く言う。
「不確実性は、コストです」
マリアンヌがやさしく言葉を添える。
「議長国が揺らぐと、合意形成に影響します。残念ですが、手続きとしては正当です」
イーサンは腕を組んだまま、低い声で吐く。
「凍結すれば、混乱は減る。合理的だ」
サミュエルは拳を握り、机に軽く叩きつけた。
「当然だ! 不安定な国に世界の舵を取らせるな。神は秩序を望む!」
私は、一人ずつ見た。
全員の言い分は理解できる。理解できるからこそ、腹の底が冷える。
彼らは“世界”を守っているのではない。
“自分の国の安全”を守っている。
それが国家だ。
だから私は、国家に人徳を求めない。
求めるのは――人間だ。
「議長権限凍結案の討議に入る前に」
私は穏やかに言った。声の高さは変えない。
変えた瞬間、相手の土俵になる。
「確認します。凍結とは、議長国リュミエルが議事進行と採決管理を行えない、という意味でよろしいですか」
レオナードが頷く。
「そうだ。代行は事務局。中立だ」
私は一拍置いて聞いた。
「事務局が中立だと、なぜ言えるんです?」
空気が微かに揺れた。
質問の刃は、相手に向けたようで、実は“構造”に向けている。
リン宰相が微かに眉を動かす。
「事務局は手続き機関です」
「手続き機関にも、判断が必要な場面がある。議題の採択順、発言時間、休憩のタイミング。――それは、政治です」
マリアンヌが微笑みを崩さずに言う。
「では、あなたが議長であれば政治ではないと?」
「いいえ。私が議長でも政治です。だからこそ、政治の責任者は“選ばれた者”であるべきです」
サミュエルが噛みつく。
「選ばれた? あなたは国の混乱の産物だ!」
「その通りです」
私は即座に認めた。否定しない。
否定すると議論が感情に落ちる。
「混乱の産物である私が、議長として不適切だと言うのなら――私はそれを受け入れます」
ミハイルが息を呑む。
だが私は続けた。
「ただし、その場合。議長国を凍結する前に、世界協定再編案にある“穴埋め条項”も凍結してください」
レオナードが目を細めた。
「……何の話だ」
「議長国が不安定だから権限を凍結する。論理は分かります。なら同じ論理で、議長国に過大な負担を押し付ける条項も、協定全体の安定性を損なうはずです」
リン宰相の声が鋭くなる。
「それは、再編案の核心です」
「核心だからこそです。核心のまま押し付ければ、議長国が崩れる。崩れれば再編案は成立しても機能しない。世界は待ってくれないのですよね?」
レオナードが笑った。
笑いながら、刺してくる。
「君、首相になって二時間でずいぶん偉くなったな。世界の仕組みを語るのか」
「語っていません。確認しています。――再編案は“成立”が目的ですか? それとも“機能”が目的ですか?」
沈黙が落ちた。
会議というものは、正しい言葉ほど嫌われる。正しい言葉は、逃げ道を塞ぐからだ。
マリアンヌが、柔らかく介入する。
「ヴァルディーンさん。あなたの言いたいことは分かります。ですが、会議は時間が限られています。凍結案は手続き上、先に処理すべきです」
「同意します。だから、凍結案の“条件”を提案します」
私は一枚、資料を出した。
昨夜作ったものだ。眠れない夜にしか出てこない、冷静な文字。
「凍結するなら、凍結期間は“本日中”に限定。かつ、議長国の負担条項は本日中の協議対象から外す。代わりに、各国の負担配分を再設計する小委員会を設ける。議長国はその小委員会の“議事録管理者”に戻る」
レオナードが口笛を吹く。
「うまい。君の権限は減るが、存在は消えない」
リン宰相が資料を読み、短く吐く。
「時間稼ぎ」
「はい。時間が必要です。世界が壊れるのは一瞬ですが、直すには時間がかかる」
イーサンが低く言った。
「条件を飲めば、今日の火種は消える。だが、次は?」
「次の火種は、次に消します」
私は言い切った。
誇張でも虚勢でもなく、ただの宣言だ。
サミュエルが叫ぶ。
「甘い! 世界は血で決まる! あなたの優しさで、我々の国民が死ねと言うのか!」
私は彼を見る。
彼の怒りは演技ではない。恐怖だ。孤立国家の恐怖。
「あなたの国民が死ぬのは、私の望みではありません。――だからこそ、ここで誰かを犠牲にする仕組みを固定化してはいけない」
「固定化? 弱者が犠牲になるのは自然だ!」
「自然なら、あなたは怒らない」
言った瞬間、サミュエルが固まった。
その怒りは、自然を否定している。つまり彼の中にも“違和感”がある。
マリアンヌが小さく息を吐き、微笑みを消した。
「……あなたは、意外と容赦がありませんね」
「容赦がないのは、犠牲が顔を持っているからです」
私は言った。
そして、最後の一枚を出した。
――無名地帯の現況報告。
難民キャンプの医療崩壊、食料不足、寒波。
写真は載せない。写真は武器になる。私は武器にしたくない。
ただ、数字と事実だけ。
「凍結案の議論は、あなた方の国の安全を守るためでしょう。理解します。ですが、その安全の外側で、すでに崩れている場所があります。そこは協定の“外”だから、責任がないことになっている」
レオナードの目が、ほんの少しだけ曇った。
「……君は、そこを持ち出すのか」
「持ち出しません。確認します。協定の目的は何ですか?」
リン宰相が答える。冷たい声で。
「安定です」
「その安定が、誰の安定かを問うています」
沈黙。
沈黙の中で、事務局長が喉を鳴らし、手続きを促す。
「では、議長権限凍結案。条件付き採決に移ります」
採決は早かった。
条件付き凍結――“本日中のみ”、負担条項は棚上げ、小委員会設置。
全会一致ではない。サミュエルは反対した。だが多数で可決された。
議長席の権限は、一時的に事務局へ移る。
私の椅子は、文字通り、凍結された。
……なのに。
私は少しだけ楽になっていた。
権限を奪われたからではない。
“世界が逃げたかった責任”の輪郭が、今ここで少しだけ露わになったからだ。
会議が休憩に入り、各国代表が席を立つ。
レオナードが、通りすがりに私の机を指で叩いた。
「君、面白いな。首相になった初日に、世界の首を絞めに来るとは」
「首を絞めていません。転落を止めています」
「同じことだよ。止められた側は苦しい」
去り際、彼は小さく言った。
「――今夜、少し話せ。非公式で」
リン宰相は一言もなく通り過ぎたが、私の資料の一枚を持っていった。
コピーではない。原本だ。つまり、“読む”という意思表示。
イーサンは足を止め、短く吐く。
「……お前は、逃げないのか」
「逃げません」
「そうか」
それだけで去った。
彼にとって、言葉は契約だ。
サミュエルは私を睨み、吐き捨てた。
「あなたは偽善だ。世界を救うふりをして、世界を縛る」
私は言い返さない。
彼は今、縛られているのは自分の恐怖だと気づいていない。
マリアンヌは最後に近づき、低い声で囁いた。
「ヴァルディーンさん。あなたは“穴埋め”を拒否しましたね」
「拒否しました」
「素敵です。……そして危険です」
彼女は微笑まないまま、言った。
「あなたは今、世界にとって“便利な人”から、“必要な人”へ変わりました。必要な人は、消されます」
ぞくりとしたのは、寒さではない。
休憩が終わる直前。
ミハイルが端末を見て、青ざめた。
「首相……事務局から緊急連絡です。無名地帯で、食料倉庫が襲撃されました。死者が出ています」
私は端末の画面を見る。
そこには、冷たい文字が並んでいた。
《会議の混乱に乗じた武装勢力の動き。協定外圏の治安崩壊》
《各国は内政問題として介入を拒否》
会議が揺れた瞬間、落ちるのは――いつも外側だ。
私は息を吸い、吐いた。
怒りは簡単だ。だが怒りは、世界を変えない。怒りは世界を燃やす。
「……ミハイル。難民キャンプの責任者に繋いでください。音声でいい。会議に戻る前に、私が直接話します」
「え、今から? 会議が――」
「会議は止められない。だから、外側を止める」
私は立ち上がり、円卓ホールへ戻る扉の前で、もう一度端末を開いた。
画面の隅に、小さな名前が表示されている。
――ナディア。12歳。
あの子の顔が、脳裏に浮かんだ。
空っぽの手。
それでも、生きようとした手。
私は扉を開けた。
「議長国の権限は凍結されました」
事務局長が淡々と言う。
「よって、次の議題に入ります。――協定外圏への支援は、議題に含まれていません」
私は、静かに笑った。
笑いは武器になる。だから、武器として使う。
「含まれていないなら」
私は席に着き、議事録の紙を一枚、机に置いた。
「今ここで、議題にします」
円卓の空気が、はっきりと割れた。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




