第15話 残る理由
朝の官邸は、驚くほど静かだった。
電話は鳴らない。
緊急会議の通知もない。
昨日まで溢れていた「確認したい」「見解を聞きたい」という声が、嘘のように消えている。
――切られる側になった人間への、最初の配慮。
「……分かりやすいですね」
ミハイルが、苦笑混じりに言った。
「ええ」
私は頷いた。
「世界は、
終わると決めたものには、
もう期待しません」
それは、責任を取らないための優しさだ。
午前。
無名地帯への定例連絡。
以前なら、各国の担当者が同席していた。
今日は、現地の代表者と、私たちだけだ。
『……三十日、終わるんですよね』
通信の向こうで、年配の女性が言った。
「はい」
私は否定しなかった。
『それでも……
学校は、続けます』
「ええ」
『支援が減っても、
名前は、残りますよね』
「残ります」
私は、はっきり答えた。
「あなたたちが、
そう決めたなら」
通信が切れる。
私は、しばらく端末を見つめていた。
世界は、私を切ろうとしている。
だが、現場は、私を必要としていない。
それは、矛盾ではない。
午後。
官邸の廊下で、ミハイルが立ち止まった。
「……首相」
「はい」
「正直に言っていいですか」
「どうぞ」
「あなたは、
もうここにいる必要がない」
彼は、視線を逸らさずに言った。
「仕組みは回り始めた。
現場も、自立している。
――十分です」
私は、少しだけ考えた。
「ええ」
そして、頷いた。
「その通りです」
ミハイルの目が、わずかに揺れる。
「なら、なぜ――」
「なぜ、残るのか」
私は、言葉を引き取った。
窓の外を見る。
空は、今日も変わらない。
「残る理由は、
成果ではありません」
私は、静かに言った。
「成果が出たなら、
去るべきです」
「では……」
「成果が出なかった場所が、
まだあるからです」
ミハイルは、言葉を失った。
夕方。
世界協定事務局から、非公式の連絡。
《暫定措置終了後、
個人的な関与を控えるよう要請する》
丁寧な言葉。
拒否権はない。
私は、返信しなかった。
拒否する理由も、
同意する理由も、
書面にはできなかったからだ。
夜。
官邸を離れ、無名地帯へ向かう車中。
「……本当に、行くんですね」
ミハイルが、確認するように言う。
「ええ」
「もう、首相としての役割は――」
「首相としてではありません」
私は答えた。
「一人の人間として、です」
車は、境界線を越える。
警備は最小限。
公式記録も残らない。
それでも、私はここに来た。
キャンプの明かりが見える。
ナディアが、先に気づいて走ってきた。
「……あ!」
「こんばんは」
私が言うと、彼女は息を切らしながら言った。
「ねえ、きょうね、
せんせいが、
みんなのなまえ、よんだよ」
「そうですか」
「それでね」
彼女は、少しだけ声を落とした。
「……また、いなくなる?」
私は、その問いから目を逸らさなかった。
「ええ」
「……いつ」
「もうすぐです」
ナディアは、しばらく黙っていた。
「……じゃあ」
彼女は、意を決したように言う。
「きょう、ここにいたって、
おぼえてる?」
私は、即答した。
「忘れません」
「ほんと?」
「ええ」
私は、しゃがんで彼女の目線に合わせる。
「忘れない人間が、
一人でも残れば、
切られたことにはなりません」
彼女は、少し考えてから、頷いた。
夜更け。
簡易宿舎の外で、私は一人、空を見上げた。
三十日が終われば、
私は、世界の中心から外される。
だが――。
世界の中心とは、
会議室ではない。
誰かが、
切られるかもしれない場所だ。
そこに立つ理由は、
もう、十分すぎるほどある。
机も、肩書きも、
権限もいらない。
ただ――
ここにいる。
それだけで、
世界は、
まだ完全には壊れていないと、
言える。
カレンダーは、
もう見なかった。
三十日が終わることは、
恐れる理由にならない。
恐れるべきなのは、
誰も残らなくなることだ。
私は、静かに息を吸った。
終わりが近づくほど、
理由は、
はっきりしてくる。
――だから、私は、ここにいる。
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