第1話 使い捨ての椅子
この世界では、
「正しい判断」がすべてだった。
被害が少なければ正しい。
効率が良ければ正しい。
誰が切られたかは、重要ではない。
だから俺は、追放された。
戦えない。
役に立たない。
世界にとって、不要だったから。
――それでも、
一つだけ、俺にはできることがあった。
名前を呼ぶこと。
理由を話すこと。
そして、判断を引き受けること。
それだけで、
世界は少しずつ、
動かなくなっていった。
これは、
力を持たない男が、
人徳だけで世界を歪ませてしまった話だ。
首相官邸の廊下は、いつも同じ匂いがした。
磨きすぎた床のワックス、冷えた空調、そして――人が責任を置いていった後の、空っぽの匂い。
「……また、ですか」
秘書官のミハイルが、紙の束を抱えたまま立ち止まった。目の下に薄い隈がある。昨夜も帰れなかったのだろう。
「辞任届。署名済み。日付は空欄。ここまで様式が整うと、もはや伝統だね」
私――アレクシス・ヴァルディーンは、差し出された封筒を受け取って重さを確かめた。薄い。あまりにも薄い。
たった数枚の紙が、国家の舵を放り投げる重さを持つ。
今月で三人目だった。
この国、リュミエル小邦は小さかった。海と山の間に挟まれ、資源も軍も誇れるほどではない。
ただ、かつては「調停役」として名を残したことがある。誰にも勝てない国は、誰にも勝たないことができる。誰にも勝てない国は、誰にも負けることもできる。――そんな皮肉で生き延びてきた。
けれど近年、世界は私たちの皮肉を笑わなくなった。笑う余裕がなくなった。
大国同士の摩擦が増え、協定は穴だらけになり、誰かがその穴を塞がなければならない。
そして、その“誰か”は、たいてい小国だった。
「本日午後、世界協定再編会議。議長国は我が国。代理は……首相が必要です」
ミハイルが言い切った瞬間、廊下の空気がまた少し冷えた気がした。
首相という言葉が、呪いのように床を這う。
「首相が必要なのに、首相が辞めた。美しい循環だ」
「笑えません。アレクシスさん」
「分かってる。――で、次の候補は?」
ミハイルは視線を逸らし、咳払いをした。
「議会は揉めています。各派閥が責任を押し付け合い、誰も手を挙げません。……海外からは、今朝から催促が来ています」
私は封筒を机の上に置いた。手のひらに残る紙の感触が、妙に生々しい。
辞める、という行為が簡単であればあるほど、残る者の足元は沈む。
窓の外で、冬の雲がゆっくり流れていく。
私は、その雲よりも遅い速度で、答えを探した。
――逃げる人が悪いわけじゃない。
人間は疲れる。国も疲れる。正しさだって疲れる。
ただ、疲れた結果、誰かが必ず落ちる構造があるなら。
その構造自体が、もう限界なのだ。
官邸の奥から足音が近づいた。
議会運営委員長のセルジュ議員が、数人を引き連れて現れる。顔色が良くない。酒で誤魔化すタイプの疲労ではない。胃を削る疲労だ。
「ヴァルディーン。いるか」
「ここに。ご用件は?」
「用件も何も……決まった」
セルジュは言いながら、私の机に視線を落とした。辞任届の封筒を見て、眉間の皺が深くなる。
「……またか」
「はい。今月三度目です」
「分かっている。だから、決まったと言った」
彼は周囲の人間を振り返り、短く頷いた。補佐官たちが黙って扉を閉める。密室の空気になる。
私は嫌な予感を、きれいな形のまま胸の奥で受け止めた。
こういうときの“決まった”は、だいたい良くない。
「本日午後の会議、我が国は議長国だ。欠席はできない。延期も通らない」
「当然ですね」
「そこでだ。議会は……新首相を指名した」
言い淀むセルジュを見て、私は先回りした。
「候補が決まったのなら、良かった。私は資料の引き継ぎを――」
「お前だ」
空気が止まった。
ミハイルの書類が、手の中でわずかに揺れた。
「……私、ですか」
「お前以外がいない」
セルジュの声は、怒りでも懇願でもなく、乾いた現実そのものだった。
「お前は国際協定事務局で調整官をやっていた。会議の空気も、相手の癖も、何より“破綻の後始末”を知っている。――今ここで首相になれるのは、お前しかいない」
「調整官と首相は別物です。私は決定権を持ったことがありません」
「だからいい。誰も権力を握りたくないんだ」
セルジュが吐き捨てるように言った。
ここにいる全員が、同じことを思っている顔だった。
ああ、そうか。
この椅子は、勝者の椅子ではない。
“責任を引き受ける人間を縛りつける椅子”だ。
「使い捨てだと思っているんでしょう。私を」
誰かが息を呑んだ。だがセルジュは否定しない。否定できない。
「……違うと言えば嘘になる。だが、お前なら“角が立たない”。大国の連中も、お前のことは知っている。嫌いではないはずだ」
「嫌いではない、で国が救えますか」
「救えなくても、燃え広がる前に火種を抱えてくれる」
言葉が重い。重すぎて笑えない。
私は机の端に置いていたペンを握った。
指先に馴染む、使い込んだ金属の冷たさ。かつて調整官だった頃、条文の隙間に人が落ちないよう、夜通しで議事録を直したペンだ。
「……私が首相になったとして」
声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「今日の会議で、何をさせたいんです?」
セルジュは短く答えた。
「世界協定再編案に署名させたい。相手は五大国家圏の代表が揃う。議長国の署名がないと成立しない。だが成立すれば、我が国は“穴埋め条項”を飲まされる」
ミハイルが小さく言った。
「……要するに、負担を全部こちらに」
セルジュは頷いた。
「拒否すれば、制裁の口実を与える。飲めば、国内が死ぬ。どちらも地獄だ。――だから、短命でいい。今日だけでもいい。会議を終えてくれ」
言外に、こう続いている。
終えたら、辞めろ。
そして、責任だけ置いていけ。
私は窓の外を見た。
冬の雲はまだ、ゆっくり流れている。
雲は責任を取らない。取れない。だから美しい。
人間は違う。
取れるのに、取らない。取るべきなのに、押し付ける。
――世界は、そういう構造になってしまった。
「ひとつ、条件があります」
セルジュが目を細める。「条件を言える立場か?」と顔が言っている。
だが私は続けた。
「今日の会議、私は“誰かを切り捨てる前提”で署名しません。交渉はします。妥協もします。けれど、負担の押し付けだけは受けません」
「理想論だ」
セルジュが即座に切る。
「ええ。理想論です。でも、現実論だけでここまで来た結果が、今ですよ」
誰も返せなかった。
返せないということは、否定できないということだ。
ミハイルが、机の上に新しい封筒を置いた。
辞任届と同じ色の封筒。だが中身は違う。
「首相任命の承諾書です。署名だけ……」
私は承諾書を開いた。
そこには、私の名前が印字されている。黒々と。逃げ道を潰す字で。
ペン先が紙に触れる直前、私はふと、昔見た光景を思い出した。
協定が破綻した国境。難民キャンプ。名前も番号もないテント。
小さな少女が、配給列の最後尾で眠っていた。
彼女の手は、空っぽだった。
空っぽの手で、それでも生きようとしていた。
世界がどう壊れるかを私は知っている。
そして、壊れた後に誰が落ちるかも。
だから――ここで逃げるのは、できない。
私は署名した。
自分の名前を書いただけなのに、紙が重くなった気がした。
「……本日より、アレクシス・ヴァルディーンが首相を拝命する」
セルジュが儀礼的に宣言し、すぐに現実に戻る。
「時間がない。午後の会議まで二時間だ。代表団の資料は――」
「全部、読んであります」
私は言った。ミハイルが目を見開く。
「え……いつ」
「昨夜、首相が辞任する可能性が高いと判断した時点で。準備しておくのは調整官の癖です」
セルジュは苦い顔で笑った。
「さすがだな。……だが覚悟しろ。今日の会議は、善意では終わらない。各国代表は――」
私の机の上の端末が震え、通知が走った。
世界協定事務局からの緊急共有。件名は短い。
《議長国リュミエルへ。会議開始前に“追加議題”を提案する》
添付の出席者リストを開いた瞬間、喉が一瞬だけ乾いた。
そこに並んでいた名前は、ただの「代表」ではない。
大陸連合アークレイン代表――レオナード・クロウフォード。
巨大官僚帝国ユエン=ファン宰相――リン・シャオユン。
氷原国家ノルグラード最高司令官――イーサン・ヴォルグ。
孤立思想国家カイザル聖国――サミュエル・オルフェ。
理想連邦エルディア評議長――マリアンヌ・ヴァイス。
そして、追加議題の本文は、たった一行だった。
《議長国の国内統治の不安定化に伴い、議長権限を一時凍結する案を討議する》
――つまり。
首相になった瞬間、首相としての権限を奪われる会議が始まる。
ミハイルが掠れた声で言った。
「……最初から、殺しに来てます」
私は端末を閉じた。
静かに、深く息を吸う。
怒りを燃やせば簡単だ。だが怒りは相手の土俵だ。
「殺しに来るなら」
私はペンを置き、立ち上がった。
「こちらは、死なない準備をするだけです」
首相官邸の廊下の空っぽの匂いが、少しだけ変わった気がした。
逃げた後の匂いではない。
――立つ者の匂いだ。
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