第一章 第一話:追放と邂逅
その日、リゼット・アストルティアの人生は、まるで張り詰めた弦が断ち切られるように、音を立てて崩れ去った。
「リゼット・アストルティア! 貴様を、王命により公爵令嬢の地位から追放する! 辺境伯令息との婚約も、これにて破棄とする!」
響き渡ったのは、王城の謁見の間に集った貴族たちのざわめきを切り裂くような、公爵の声だった。
場所は、華やかな夜会の中央。シャンデリアのきらめきが、リゼットの頭上で残酷なまでに輝き、彼女の薄い水色のドレスを照らし出す。
その光は、まるで彼女の存在を、この場に相応しくないとでも言うかのように、鋭く、そして冷徹だった。
リゼットは、その場で凍り付いた。無実の罪を押し付けられたのだ。確かに、辺境伯令息の妹君が倒れた際に、彼女の側付きの侍女が不手際を犯したことは認める。
しかし、それは決してリゼットの指示によるものではなく、むしろ彼女自身がその侍女を丁寧に指導し、侍女とともに謝罪の品を持って見舞いにも行ったはずだった。
にもかかわらず、公爵家は、まるで最初からそう決まっていたかのように、彼女に全ての責任を押し付けた。
顔を上げれば、かつて彼女を称賛し、愛らしく微笑んでいたはずの貴族たちの顔が、今や冷たい視線と軽蔑に満ちている。
王女は、見下すような目でリゼットを眺め、元婚約者は、眉一つ動かさず、まるでそこに存在しないかのように目を背けていた。
長年、公爵家の名誉のために尽くし、社交界の華として振る舞ってきた日々が、まるで砂上の楼閣のように音を立てて崩れ去っていく。
「異議は認めぬ! すぐにこの場を去れ!」
公爵の怒鳴り声に、二人の護衛兵がリゼットの両腕を掴んだ。
その腕力は容赦なく、彼女の細い腕に食い込む。
薄手のドレスの下から、肌が擦れる感覚と、鈍い痛みが走った。彼女は反論しようと口を開いたが、言い返す言葉が見つからない。
屈辱と、裏切りと、そして深い絶望が、彼女の全身を支配し、言葉を奪った。
護衛兵に引きずられるように、リゼットは夜会の会場から引き離された。
きらびやかな装飾が施された大理石の廊下を、その場に不釣り合いな粗暴さで進む。
彼女の足元から、ハイヒールが脱げ落ちたが、誰もそれを拾い上げる者はいなかった。
ただ、冷たい石の床に転がるハイヒールだけが、彼女がこの場から追放されることを告げていた。
王城の門をくぐると、星の瞬く夜空が、彼女の絶望を嘲笑うかのように輝いていた。そのあまりの美しさが、リゼットの惨めさを際立たせる。
外に停められた、公爵家の紋章が消された粗末な馬車が、彼女の行き先を物語っていた。
それは、貴族が使うような豪華な馬車ではなく、荷物運搬用の、飾り気のない質素なものだった。
「行け! 二度とこの王都に足を踏み入れるな!」
無慈悲な声とともに、リゼットは馬車の座席へと突き飛ばされた。着の身着のまま、薄い夜会用のドレス一枚。
冷たい夜風が、露出した肩を容赦なく叩き、鳥肌が立つ。彼女の手には、公爵家から与えられた最低限の金銭と、粗末な革袋が握られているだけだった。
金貨が数枚と、古くなったパンがいくつか。それが、彼女のこれからの全てだった。
馬車は、荒々しく発進した。ガタゴトと揺れる車内で、リゼットは膝を抱え、ただ窓の外を眺めるしかなかった。
煌びやかな王都の灯りが、次第に遠ざかっていく。一つ、また一つと、希望の光が消えていくように。やがて灯りは見えなくなり、馬車はひたすら暗い道を、ガタゴトと、まるで彼女の絶望を乗せて進んでいく。
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
意識は朦朧とし、思考は停止していた。眠っていたのか、気絶していたのかも定かではない。
ただ、永遠にも思えるような揺れが続き、ようやく馬車が急停止し、扉が乱暴に開け放たれた時、リゼットはゆっくりと顔を上げた。
「ここで降りろ! ここはもう、王都の管轄ではない。好きにするがいい! 二度と、人間の住む土地へ戻ってくるな!」
無慈悲な男の声と共に、リゼットは馬車から冷たい土の上に放り出された。そして、何事もなかったかのように、馬車は帰っていった。
着の身着のままで、放り出された体。ドレスの薄い生地一枚では、地面の冷たさを防ぎきれない。
彼女は息を呑んだ。あたりは深い森の入り口。
夜闇に溶け込む木々のシルエットが、まるで巨大な獣のように見えた。凍えるような夜風が吹き荒れ、リゼットの薄いドレスを揺らす。
「ひどい……なんで私、こんな目に……」
震える唇から、か細い声が漏れた。その声は、森の暗闇に吸い込まれて消えた。誰もいない。誰も助けてくれない。
人間社会に絶望したリゼットの目に、森の奥から不気味な光がちらつくのが見えた。同時に、鼻を突く獣臭。獣の唸り声のようなものが、かすかに聞こえる。
その瞬間、ガサガサと茂みが大きく揺れ、低い唸り声が響いた。反射的に顔を上げると、そこに立っていたのは――
リゼットが、おとぎ話や冒険譚でしか知らなかった、しかし世界ではありふれた魔物だった。
――ゴブリン。
緑色の肌、歪んだ顔、鋭い牙と爪を持つ、醜悪な姿。その目は、闇夜の中で鈍く光り、リゼットの心臓を鷲掴みにした。
一体、二体、三体……。あっという間に、十数体のゴブリンがリゼットを取り囲んだ。彼らの瞳には、明確な敵意と、獲物を見つけた獣のような飢えが宿っているように見えた。
リゼットは恐怖で体が金縛りにあったように動けなかった。手足が、鉛のように重い。全身の震えが止まらない。
逃げなければ。そう頭では理解しているのに、足がすくんで動かない。ドレスの裾が、冷たい土の上で震えている。食べられる? 殺される? それとも――
いずれにしろ、もう、終わりだ。
そう覚悟した時だった。ゴブリンの群れの中から、別のゴブリンが、一歩前に出た。
それは、他のゴブリンたちよりも一回り大きく、その体格は威圧的だが、どこか落ち着いた雰囲気を纏っていた。
そのゴブリンは、威嚇する仲間たちを制するように、低い、しかし響く声で何かを呟いた。その声には、他のゴブリンたちの獣のような唸りとは異なる、どこか理性的な響きがあった。
すると、そのゴブリンは、ゆっくりとリゼットに手を差し伸べた。その手は、ゴツゴツとして太く、爪は鋭く、お世辞にも美しいとは言えない。しかし、彼の目に宿る光は、明確な敵意とは異なる、何か別の感情のように思えた。好奇心か、それとも……同情? 憐憫?
「……え?」
困惑するリゼットの前で、ゴブリンはもう一度、手を差し出した。差し出された手と、その奥に見えるゴブリンの真剣な瞳。
その瞳の奥には、彼が放つ獣臭や、醜悪な外見とは裏腹に、ある種の静かな知性と、迷いが宿っているように感じられた。
追放され、見知らぬ森の奥に置き去りにされたリゼットにとって、それはあまりにも予想外の、そして唯一の「手」だった。
人間社会に見捨てられ、絶望の淵にあった彼女にとって、この手は、どんな存在のものであれ、差し伸べられた温もりそのものだった。
彼女は、もはや人間社会には何の期待も抱けなかった。
この、異形の存在の手が、私を救ってくれるかもしれない。リゼットは震える指先を伸ばし、そのゴツゴツとした、しかし温かい掌に、そっと触れた。