鋼鉄の心と目に見えない傷跡
追跡装置が破壊された後、世界は一瞬にして変わった。
音もなく、風も止まり、あたりには絶対的な静寂が広がる。
それは、まるで空間そのものが呼吸を止めたかのような、重く圧し掛かる沈黙だった。
リッサンドラの視線が私を貫いた。
その目には恐怖も怒りもなく、ただ一つの疑念——
目の前の存在が、理に適わぬ異質なものだという認識だけがあった。
それは、ただの旅人に向けるものではない。世界の理を壊す可能性を孕んだ、災厄への眼差しだった。
私の手に宿っていた黒い球体は、もうそこにはなかった。
煙のように風へと消えたその痕跡は、しかし熱として、いまだ胸の奥に残っていた。
灼けつくような記憶の残滓として。
そして——
この異世界での、私の「運命」が静かに動き始めた。
追跡装置が破壊された後、あたりには絶対的な静寂が広がった。
重く、空気を震わせるような沈黙だった。
リッサンドラは、まるで目の前の存在が理解不能な何か——ただの異邦人ではなく、存在そのものが間違っているかのように、脅威として——私を見つめていた。
私の手に現れた黒い球体はすでに消えていた。風に溶ける煙のように。しかしその熱だけは、まだ胸の奥に残っていた。焼けつくように。
「……今のは、何だ?」
そう尋ねた私に、彼女はすぐには答えなかった。
剣の柄に添えていた手はまだそこにあったが、握りはわずかに緩んでいた。
「これは……魔法じゃない」
彼女はようやく、小さな声で言った。
「高位の魔術ですらない。あなたが使ったものは……本来、ありえないはずの力よ」
「ようこそ、俺の人生へ」
冗談のつもりだったが、声が途中でかすれた。
彼女はしばらく私を観察していた。
まるで今ここで首を落とすべきかどうかを見極めているように。
やがて彼女はくるりと背を向け、肩にマントをかけ直した。
「行くわよ。これ以上奴らが現れる前に、この森を抜ける」
「わかった……」
歩き出しながら、私はまだ自分に何が起きたのかを理解しようとしていた。
「で、どこに向かってるんだ?」
「アストリア。王国の首都よ。この大陸で最も安全な場所……少なくとも今はね」
アストリアまでの道のりは長かった。
何時間も歩いたかもしれない。ときどき短い休憩を挟みながら。
エルセリアの空は徐々に色を変えていった。
柔らかな藤色から、あたたかな金色へ。蒼白い青の太陽が、地平線の向こうに沈んでいく。
「……この世界、綺麗だな」
私はつぶやいた。ほとんど独り言のように。
リッサンドラはちらりとこちらを見たが、何も言わなかった。
歩きながら、彼女の動きを観察し始めた。
一つ一つの動きが洗練されていて、いつでも即応できるように構えられていた。
でも、その瞳の奥には何かがあった。
疲れたような影。
見すぎた者の眼差し。失いすぎた者の沈黙。
それは、昔の自分が鏡に見ていた顔と同じだった。
「……いつもそんな感じなのか?」
彼女は眉をひとつ上げた。
「どんな感じ?」
「ピリピリしてて、堅くて、呼吸ひとつ間違えただけで切り捨てられそうな感じ」
彼女はしばし考え込んでから、こう言った。
「エルセリアでは、気を抜いた者が死ぬのよ」
沈黙。返す言葉はなかった。
ようやく、私たちはアストリアの姿を遠くに捉えた。
その都市は巨大だった。
魔晶でできた塔が天を突くようにそびえ、空中には浮遊橋が張り巡らされていた。
城壁には魔法陣が輝き、数千の光点——まるで魔法のホタルのような——が空に浮かんでいた。
まるでテクノロジーと魔法が融合した世界。
サイバーパンクと中世ファンタジーの交差点。
不可能でありながら、確かに現実にあった。
都市の入口では、衛兵たちがリッサンドラを止めた。
彼女は一本の金のメダリオンを見せた。槍と星が交差する紋章。
門はすぐに開いた。
「ようこそ、アストリアへ」
彼女は横目で言った。
「迷わないで。あと、何にも触らないこと」
「それは……約束できないかも」
私たちは磨かれた石畳の道を進んだ。
見たこともない言語で叫ぶ商人たち。
浮かぶ果物や、実体化したエネルギーでできた剣を売っている。
人間だけでなく、トカゲのような種族、翼を持った人々、そして二メートル半もある巨人までが、新聞を読みながら歩いていた。
頭が混乱していた。
「で、これから何が起こるわけ?」
「まずはアストレア神殿に連れていく。あなたの魂を調べる必要がある」
「もし俺の魂が……呪われてたら?」
彼女は立ち止まり、真剣な顔で私を見た。
「……その場合、厄介なことになるわね」
……最高だな。
神殿は都市の中心、巨大な階段の先にあった。
白い大理石で作られ、ステンドグラスはリアルタイムで星座を映し出していた。
青白い光が建物全体を包み、空気は別世界のように澄んでいた。
中に入ると、穏やかな表情の女性が私たちを出迎えた。
金色のマントに身を包み、瞳は完全に白く、まるで生きた彫像のようだった。
「この方が……転生者?」
「はい」
リッサンドラは答えた。
「でも、彼は……少し違うの」
巫女はうなずき、私に手を差し出した。
「黒鉄 暁——あなたの魂を導く光を、私に見せてください」
ごくりと唾を飲み込みながら、私は手を差し出した。
彼女が私に触れた瞬間——叫び声をあげた。
黒い閃光が部屋を包み、巫女は膝をつき、肩で息をしていた。
その白い瞳が震え、何か見てはならないものを見たかのように。
「彼は……虚無を宿している。真なる虚無を」
リッサンドラは肩を支え、彼女を意識の淵から引き戻そうとした。
「どういう意味?」
「彼には……限界がない。封印も、結界も。もしこの力が成長すれば……」
彼女は恐怖に満ちた目で私を見た。
「……エルセリアそのものを消し去るでしょう」
沈黙。
長く、冷たい沈黙だった。
私は後ずさりしながら、地面が遠ざかっていくのを感じた。
「……こんなの、望んだわけじゃない」
リッサンドラは私を見た。
初めてだった——憎しみも、疑いもないまなざし。
そこにあったのは、思いもよらなかったものだった。
……慈しみ。
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その夜、私は神殿の塔のひとつに案内された。
簡素な部屋。ベッドと、大きな窓。
そこからは三つの月に照らされたアストリアの夜景が見渡せた。
リッサンドラは少しの間、窓辺に座っていた。
腕を組み、視線は外の闇に向けられていた。
「あなたはここに来た最初の転生者じゃない」
彼女は言った。私を見ずに。
「でも……こんな力を持った者は、初めてよ」
「俺は……こんなふうになるつもりじゃなかった。ただ、目が覚めたらここにいた」
彼女はゆっくりうなずいた。
「運命は……許可なんて求めないのよ」
しばらくの間、沈黙が流れた。風の音だけが聞こえていた。
「あなたの名前、強い響きね」
私は言った。
「リッサンドラ・ヴェルキュリア。まるで主人公みたいだ」
彼女は小さく笑った。短く、でも本物の笑い。
「そしてあなたは……黒鉄 暁。災厄の名ね」
「……ありがとう?」
彼女は立ち上がった。
「休みなさい。明日から……あなた自身を知る旅が始まるわ」
そう言って、星の音だけを残して、彼女は出て行った。
私は天井を見上げた。
あの力の熱はまだ、胸の奥で静かに燃えていた。
でも、もう一つあった。
目には見えない細い糸が、自分をこの世界に——この人々に——つなぎとめている。
そして、不思議なことに……
……彼女にも。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます!
今回の章では、「黒鉄 暁」という存在の中に眠っていた“虚無”が、ついにその姿を見せ始めました。そしてリッサンドラとの距離も、ほんの少しですが近づいてきた…かもしれません。いや、気のせいかもしれませんけど(笑)。
この物語は異世界転生をテーマにしつつ、単なる冒険ではなく、「過去」と「選択」、そして「記憶」に焦点を当てた作品です。アカツキは一人の“男”として、自分の存在にどう向き合うのか。その旅路を、皆さんと一緒に追っていけたら嬉しいです。
僕自身、この作品を書きながら、アカツキというキャラクターに何度も驚かされ、そして学ばされました。彼は、決して完璧ではないけれど、だからこそ強くなれる主人公です。
さて、次の章では「影に隠された真実」と「第二の断片」をめぐる激動の展開が待っています。彼を待ち受ける運命は、果たして希望か、それとも絶望か——。
最後に。
この物語を読んでくださったすべての方に、心からの感謝を。
次回作「影の中の誓い(仮)」でまたお会いできれば幸いです。
異世界のどこかでまた会いましょう。
—— ケルビンより(作者)