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第8話 愚者

 6日目の夕方に悲劇は起きた。薔薇園でフレデリックと過ごす30分はかけがえのない時間だった。毎日彼と会ううちにいつでも彼と会えるようになりたいと思うようになった。ようするに私は彼と結婚したかったんだ。この6日間それとなく結婚をほのめかしたがはぐらかされてしまった。彼が私の愛の告白を受け入れるまでずっと待っていようと思った。例えそれが何週間、何ヶ月、何年かかろうと。だけど結論は早いに越したことはない。本当は薔薇園でコソコソ会うのをやめて人前で堂々と付き合いたかったが彼はそれを望まなかった。


「あっ。フレデリック!待っていたのよ。今日は遅かったわね。どうしたの?」


 その日の彼は表情が暗かった。うつむいてばかりで私の顔を見ようともしない。


「え?ああ。いや……仕事が忙しくって……」


 ルプトーブ家は子爵になったとはいえ芸術家の家系だ。子爵になったあとも絵画の依頼を受けていた。お金に困っていないのに描き続けるのはおそらく彼らの性分だろう。2日目にフレデリック自身も1日2、3時間は筆を握っていないと落ち着かないと言っていた。彼が私の元に会いにくるときはいつも油の匂いがした。私に会う直前まで油絵を描いていたせいだ。彼の匂いは油絵の匂い。いつのまにか貴族たちが身に付ける香水より油のほうが良い匂いだと思うようになってしまった。


「今は何を書いているの?」

「天使と悪魔の肖像を……」

「まあ。大胆ね」


 そのあと2人でしばらく絵画について語り合ったが、彼はあまりうれしそうではなかった。いつものようにときおり笑ったけど何かを誤魔化しているみたいだった。昨日までの会話と違って楽しくないと感じた私は彼を問いただした。


「一体何を隠しているの?言いたいことがあるならはっきり言って」


 フレデリックはあいまいに笑った。何秒続いたかわからない静寂を破ったのはフレデリックのほうだった。


「……申し訳ございません。父に5時以降の外出を禁じられたのです……」


 一瞬思考が止まった。5時以降に家を出てはいけないということはもうこの時間に会えなくなるということだった。確かに夕方の外出はリスクが高い。城内は私の命令一つで思い通りになっても外で何が起こるかわからない。日が落ちれば暗闇が世界を支配するので人目につきにくいが犯罪に巻き込まれてもおかしくはない。ルプトーヴ子爵が大事な跡取り息子に夜に単独で外出するのを禁じるのは当たり前のことだった。


「さっき出かけるとき父さ……父上に見つかってしまいまして……。今日はなんとか誤魔化せましたが明日以降は夕方に外出してはならないと言われました」

「そ、そう……」


 なぜ今までこうなることを予想しなかったのだろう。彼といる時間が楽しすぎてそれ以外のことを考える時間が減ってしまったせいだ。いつだって私の頭の中にあるのはフレデリックのことだった。うかつだった。もっとよく状況を考えるべきだった。


「でも他の時間帯に会えばいいよね。」

「……仕事で忙しいのでできません」


 フレデリックにあっさり答えられてしまい私は落胆した。芸術家は常に忙しい。彼らは生きるために描くのではなく描くために生きているのかもしれない。


「あっ!いっそのことこれを機に私と婚約したらどうかしら?そうすればあなたのお父さまも私と会うことを許しくれるわ。それにこうやって密会するよりも人前で堂々とあなたのそばに……」

「あなたとは婚約できません」


(え?)


 するどい痛みが胸を通り過ぎた。フレデリックが何を言おうとしているのかわからなかった。知りたいけど知りたくない。嫌な予感がする。


「それは……それはなぜですか?わ、わ、私のことが好きじゃないからですか……?」


 声が震えていた。口が思い通りに動かせない。何か言わないと好きな人が目の前からいなくなってしまいそうで仕方なく疑問を口にした。彼が私のことが好きじゃないなんてことありえないのに。


「…………好きではありません」


 さっきより大きな痛みが私の胸の中を走った。まるでナイフで胸を斜めに斬られたみたいな感覚だった。


「姫のことは好きではありません」


―オレも姫のことが好き。


 フレデリックの生の声と心の声が同時に聞こえた。動揺しすぎて心を読む力を制御できなくなったのだ。


「父に恋愛する暇があったら絵の腕を磨けと怒られました」


―絵を描くのは好きだけど姫といる時間はもっと好き。


「それではわたしは仕事が残っているのでこれで……」


―新しい絵の下絵を描かなきゃ。


 彼の思考が私の中に流れ込んでくる。彼にとっても私といる時間はとても楽しかったのだ。なのに彼は嘘をついた。彼の父に関することは事実だったが私を好きだという事実を隠した。なぜ彼が嘘をついたのかわからなかった。


「待って!行かないで!」


 遠くなっていく彼の背中に私の手が届くうちに抱きしめた。彼の背中は温かかった。こんなに温かくて気持ちいいのに彼は冷たいことを言う。


―姫……。


 本当はフレデリックも会えなくなるのが辛い。だからなおさら彼を止めようとした。


「……やだ」

「姫?」


 フレデリックに私の顔が見えなくてよかったと心底思った。きっととてもひどい顔をしたいただろうから。


「やだやだやだやだ!フレデリックと一緒にいたい!だって好きなんだもん。フレデリックも好きって言ってよ!」


 涙が溢れて止まらなかったけど拭かなかった。手をほどいたら彼が逃げるかもしれなかったからだ。しゃっくりのような嗚咽と格闘しながらなんとか思いを言葉にした。


「……私の……私の性格がいけないの?好みじゃないの?」

「えっ?あ~……いや。姫はかわいいですけど……オレかわいい女の子より優しい女の子が好きなんですよ」


―姫はとっても優しくてかわいいよ。


(嘘つき!)


 彼が思っていることを言っていることは全く違った。悔しくて私は彼の衣服の上から爪を立てた。なぜそんなひどいことを言うのだろう。心を読めるのに彼を理解できない。


「なら優しくなるから……だから私のことを好きになって!」


―姫…………姫と一緒にいたい。でも姫は王家の一人娘だ。オレとは釣り合わない。仮に結婚したとしたらオレが王になるのか?そんなこと想像できない。どうすればいいかわからない。オレは何をしたいんだろう?


 フレデリック自身何をすればいいか迷っていた。私はほんの数秒間でフレデリックと結ばれる方法を考えた。


「私の身分が高すぎるのがいけないの?王になるのが嫌なら私は身分を捨てるわ。王国を抜け出して私たちを知る者がいない国で2人で暮らしましょう。お金なら十分あるしなんとかなるわ。贅沢な暮らしはできないけどあなたと一緒なら……」


―えええええええっ!?


 必死でフレデリックを説得しようとしたけど彼を引かせてしまった。フレデリックと一緒にいられるならなんでもするけど彼はそこまで覚悟してないようだった。


「申し訳ございません!やっぱりオレには無理です!」


 彼は私の腕を振りほどいた。彼が離れたとたん急に寒くなった。


「さようなら。姫」

「フレデリック!」


 私は彼を追いかけようとして転んでしまった。足が動かない。早く追いかけないと永遠に会えなくなる気がするのに立てなかった。何もできないのが悔しくて私は彼を言葉で攻めた。


「嘘つき!」


 フレデリックは足を止めた。少しは効き目があったみたいだ。


「フレデリックの嘘つき!私のこと……私のこと好きなくせに!」


―なっ……。


 彼は振り返った。目が見開いている。何も言わなかったけど内心とても動揺していたる。私はざまあみろと思いながら彼を攻め続けた。


「私のことっ…………初めて会ったときから好きだったくせにっ!」


―なんでそのことを知っているんだ!?


 既に目は見開いていたのにさらに大きく開いた。もし第3者がこの現場を目撃していたら彼のあまりの動揺振りに彼が嘘をついているとわかっただろう。


―姫のことが好きだということは誰にも言ってないのに……。鎌をかけているのか?


「……なんのことですか?わたしは姫のことが好きじゃありませんよ」


―あれは一目惚れだった。


「嘘つきっ!」


 心の声が聞こえた。彼の生の声も、心の声も、同じくらいはっきり聞こえるのに彼には私の心の叫びが聞こえない。私の心はところどころ傷だらけで悲鳴を上げているのに気づいてくれない。私の顔も心もぐちゃぐちゃになっていた。


―…………ごめん。姫。


「嘘なんてついていませんよ」


 彼の顔が見えない。なにもかもがぼやけている。自分の手の輪郭もはっきりしない。聞こえるのは彼が遠ざかる足音と戸惑う彼の心の声だけ。


―姫のことは好きだ。だけど…………姫のそばにいると自分がわからなくなる。思考が上手く働かない。なにをすればいいのか、なにをしたいのか考えられない。姫のことが好きすぎて恥ずかしくて言えない。君のことが好きだなんて口が裂けても言えない…………。


(フレデリックの馬鹿……嘘つき……)


 唇を動かしても声は出ない。私は絶望した。あれは私の人生の中で最も屈辱的な出来事だった。

私は嘘つきが大嫌いです。

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