第47話 失恋
私は幸せの絶頂にいた。好きな人に求婚されたのだ。愛し合う私たちを誰も引き離せないと信じていた。私とロバートが結ばれることを自分の幸せのように喜ぶ者もいれば、自分は不幸だと嘆く者もいるということは知っていた。それでも私は彼と結ばれたかった。普通の幸せがほしかった。
ロバートが私にプロポーズして数日後……。私が知らないところで不幸になった者がまた一人、酒場にいた。
「うえ~~~~~ん。姫さま~~~~~。」
そばかすの少年はしくしく泣きながらビールジョッキの中見を飲み干す。カウンターには空になったジョッキが六杯あった。少年はひっくひっくと嗚咽しながらおかわりを求める。
「マスター……もう一杯追加!」
「はいよ。」
新たなジョッキがすべるように少年の前へ移動する。彫刻家の少年――マシューは顔を赤くしてジョッキをつかんだ。べろんべろんに酔っている。
「おいおい……飲みすぎだろ。」
髪をオールバックにした青年が忠告する。画家のディーンだ。生誕祭を目前になんとか仕事の納期を終えた二人は近くの酒場へ飲みに来たのだ。サリーが働く酒場とは別の酒場で夜は酒場、昼はカフェをやっている。トランプ、ルーレット、ダーツなどのゲームを揃えており娯楽が充実している。
「それにしてもお前……はちみつミルクでよくそこまで酔えるな。」
「うるひゃい!」
マシューは両手でジョッキを抱えぐびぐびとはちみつミルクを飲む。ミルクにがっつく子猫みたいだなとディーンは思ったが口には出さなかった。かける言葉が見つからなかったディーンはコーヒーを飲む。
数日前……ロバートは姫にプロポーズという無謀なことをしたのだが、なんと姫はそれを受け入れてしまった。そのため幼いころから姫に片思いをしていたマシューは自動的に失恋した。彼の顔は涙と鼻水にまみれていたが彼は拭こうとすらしなかった。仕方ないのでディーンはタオルでマシューの顔を拭いた。
「うっ。うっ。うっ。……ロバートなんて大っきらいだ。」
「ああ。」
「あのヘンタイ修道士。」
「ああ。」
「身のほど知らず。」
「ああ。」
家族同然の幼なじみの悪口を言われたがディーンは否定はしなかった。マシューがロバートを嫌うのは彼の勝手だし、ロバートが姫に恋する身の程知らずの修道士であることは事実だった。難しい恋とは思いつつ応援していたらなんと成就してしまった。この先もっと大変なことになりそうだが最後まで味方でいようとディーンは誓った。
姫さま姫さまとわめくマシューを周りの人々は気にしなかった。みんな自分たちの会話に夢中だし、少年の戯言に興味はなかったからだ。真ん中のテーブルでは中年の男たちがうるさかった。ポーカーをやったり、ルーレットで遊んだりしている。マスターは目の前の少年は姫というニックネームの少女にフラれたと解釈したのだろう。黙って水の入ったコップをマシューの前に置くと空になったジョッキを洗い始めた。ディーンはどうマシューを慰めようか考えた。
「とりあえずこれ飲んで水分補給しろ。」
マシューはカウンターに顔を預けてうなだれていた。視点が定まっていなかったが左手でコップをがしっと掴み口に放り込む。無意識に生存本能が働いたのかもしれない。水を飲んだあともまだぼーっとしていた。しばらく放っておいたら酔いから醒めたのか浮かない顔をしながらも起き上がった。マシューが彼なりに立ち直ろうとしているとディーンは感じた。
「……で、なんでダーツなんだ?」
はちみつミルクを頼む前のことだ。マシューはしきりに「ダーツをやるんだ!」と言ってダーツができるカウンター席に陣取った。やけ酒ならぬやけミルクで気を紛らわせたマシューは遅れながらも黄色いダーツの矢を手に取る。的に狙いを定めヒュンと投げる。矢はまっすぐ飛びトンと音がした。シングルの4に当たった。
「ボクは姫さまに告白できなかった……。」
彼は二本目の矢を手に取り投げる。ダブルの7に当たった。
「自分に自信がないから……姫さまを幸せにできる自信がなかったから。」
またシングルに当たった。当たった。今度は1だ。ルールを気にせず適当に投げているようだ。
「仮に有名な彫刻家になったとしても姫さまと暮らすにはお金が足りない。ボクの身分も変わらない……。」
マシューとディーンが座るカウンターはどんよりした空気なのに後ろのテーブルは盛り上がっていた。マシューは力なく矢を投げる。今度は刺さらず矢は虚しく床に落ちた。後ろから「よっしゃー!」「ちきしょう!」と言う声が聞こえたが気にならなかった。ルーレットかポーカーの試合に決着が着いたのだろう。ディーンはマシューの言ったことを考える。
「う~ん……。お前、お姫さまが何を求めているか訊いたことあるか?」
マシューはふるふると首を横に振る。
「ううん。でも姫さまは高貴で賢くて優しくて美しいから……最高級のものを身に付けて、最高級のものを食べて、最高級な生活を今まで通り続けるべきだと思う。そして身分も背も高くて教養のある逞しい美青年と結婚して女王になると思った。」
そう言っている間も彼は矢を飛ばす。的はたちまち矢でまばらに埋め尽くされた。腕は可もなく不可もなくといった感じだ。ディーンはため息をついた。黄色の矢がなくなったのを見計らって指摘した。
「それ……ただの思いこみっつーかお前の願望だろう?」
「うっ……!」
どうやら図星のようだ。マシューは酸っぱいものを食べたように口をすぼめる。
「完璧なお姫さまが完璧な王子さまと結婚するなら諦めがつく。だけど姫さまが自分とそう身分が違わないロバートと結婚することになったから悔しいんだろ?だからロバートを恨む。……恨むというか羨むか?だけどなにもしなかった自分が情けなくて、そんな自分を許せない。」
マシューは手を膝に置いたまま固まった。怯えた目で口を開けたまま硬直している。顔がひくひく動いた数秒後に両目から滝のように涙がどばっと出た。
「うわあああああああああああああん!!!!」
哀れな少年は両腕に顔をうずめて泣いてしまった。火に油を注いでしまったとディーンは少し後悔する。皮肉屋の彼はもともと慰めるのが苦手だった。
「そうだよ~~!姫さまにアタックしなかったボクが悪いんだよ~~~!」
ディーンが気まずそうにコーヒーとレモネードを注文する。ゆっくりとコーヒーを飲みながらマシューが泣き疲れて静かになるのを待った。
「まあまあ……。ロバートはいいやつだぜ?あいつなら姫さまを幸せにできる。オレたち芸術家は結婚できるかわからないが、あいつらの間に子どもが生まれたらかわいがってやろうぜ。」
「うん……。」
「だから飲め。このレモネードはオレの奢りだ。」
マシューはレモネードを一口飲んだ。甘酸っぱい味が口に広がる。
「初恋の味がする……。」
「今のお前にピッタリだな。」
マシューは深いため息をついた。そろそろかと思いディーンはさっきから気になっていることを質問した。
「……で、なんでダーツなんだ?」
レモネードは半分くらい減ったところでマシューは答える。
「姫さまを守る術を身に付けようと思って……。」
未だに姫を思う少年にディーンは「ほう」と感心した。
「世の中は一芸に秀でただけじゃ生き辛いもんな。いいと思うぞ!」
ディーンはマシューの背中を思いっきりバンバン叩いた。その直後、「おえっ」という声とともにカウンターとマシューの膝は白い液体で汚れた。ディーンは悲鳴を上げた。