第35話 些細な事件
「姫様の紅茶にジュースを勝手に入れるとは何事ですか!?司教様の弟子とはいえ許しませんよ!」
メイド長はかんかんに怒っていた。無理もない。私にこんな失礼なことをする者など前代未聞だ。しかしロバートは反省していなかった。自分が悪いと思ってないから謝るつもりはないのだろう。
「まあまあ。いいじゃないですか別に~。」
「良くありません!」
40代のメイド長は頑固だ。私が何か言ったところで彼女の怒りは治まらないだろう。どうしたものかと見守りながら私はクランベリージュース入り紅茶を飲んだ。私がロバート特性ブレンドの紅茶を飲み干したことに気づいたロバートはワゴンへ向かった。
「ロバート!私の話を聞いているのですか!?」
メイド長のヒステリックな声を無視し、ロバートはティーポットとクランベリージュースの容器を持って私の元へ来た。
「姫様。おかわりはいかがですか?」
「ええ。お願いするわ。」
「……っ!?」
私たちのやりとりにメイド長は言葉を失った。私が怒っていないどころかロバートブレンドを歓迎しているのだ。彼女はこれ以上怒る理由をなくしたので考えるのをやめた。
ロバートはニコニコしながら訊ねた。
「おいしいですか?」
「けっこうなお味です。」
帰り際、司教はロバートの代わりにメイド長に謝った。
「さっきはロバートがすみませんね~。姫様があまりにも表情豊かだったのでどうなるか知りたくて…………あえてロバートを止めず見守っていました。」
「はあ……。」
メイド長は脱力していて生返事だった。
「この2カ月で姫様はずいぶん表情豊かになったと思いませんか?」
司教の言葉にメイド長は少し考え込む。
「……そうですね。」
「このあとロバートには私から注意しておきますので今回は私の顔に免じてどうか許してやって下さい。」
「はあ……。」
そう言って2人は帰っていった。彼らの姿が遠ざかるのを見ながらメイド長が話しかけてきた。
「今度からクランベリージュース入りの紅茶を用意いたしましょうか?」
もちろん私は頷いた。
***
それは司教・ロバート・私の3人の聖書の授業に慣れてきたころに起こった。クランベリージュース事件のときはバタバタしたがそれ以外のときは真面目に授業を受けていたので気が緩んでいた。12月になったある日のこと……。いつものように司教様とロバートが城に来たので聖書の授業を始めようとした。しかし書斎に入ろうとした司教をメイド長が止めた。
「司教様。申し訳ありません。王が生誕祭のパレードについて至急相談したいことがあると言っております。」
「おや。それは大事な用件ですね。」
聖書の授業は延期か中止になると思われた。しかし司教の口から出た言葉は意外なものだった。
「私はこれから王と謁見に参ります。いつ終わるかわかりません。ロバート……姫様と2人で聖書の授業を進めなさい。」
「は?」
まぬけな声を出したのは私だ。しかしロバートはいつも通り爽やかな返事をした。
「はい。わかりました!」
ロバートはちゃっかり書斎に入り、もともと書斎にいた私はぽかんと立ちつくしていた。
―私がロバートと二人きりで…………聖書の授業??
嫌な予感しかない。
「それは行ってまいります。」
「行ってらっしゃ~い。」
ドアが閉まり、メイド長と司教の足音が遠くなっていく。足音が聞こえなくなったころ私は我に返った。
―私がロバートと二人きりで聖書の授業?冗談じゃないわ!私がロザリーの正体だとバレてしまうわ!!
私は慌ててドアを開けた。廊下を走りだす私を見てロバートは驚く。
「姫!?」
「司教様っ!お待ちください!!私は若い殿方と二人きりで部屋にいるわけにはいきません!!」
髪を振り乱して走りながら裏返った声で叫ぶ自分をみっともないと思う余裕なんてなかった。黄色いドレスで赤いカーペットの上を駆けた。しかし勢いあまって私は何もない場所で転んでしまった。
うつ伏せで倒れる私を滑らかなベルベットのカーペットが優しく受け止める。室内履きで歩くエリアで比較的清潔なカーペットとはいえ気休めにならなかった。幸いロバート以外の人は誰もいなかったが、私がロバートの前で大恥をかいたことは確かだった。
「姫様!大丈夫ですか?!」
転ばなかったロバートはすぐに追い付いた。私の前へ回り込むロバートをキッと睨む。両手をぶるぶる震わせて私は上半身を起こした。
「当たり前よ!私を誰だと思っているの!?」
「女の子。」
―えっ?
予想外の言葉に私の頭は真っ白になる。
「お姫様でも町娘でも……女の子は女の子だよ。転んだら心配する。」
彼の言うことは当たり前で正しかった。私は姫である前に女の子であり、人間だ。きれいなものは好きだし人並みに恋もしたい。そもそも転んだ人の性別・年齢・身分は気にすることなのだろうか。誰かが転んだら人は男より女、若者より子どもと年寄り、平民より貴族を心配しがちである。しかし誰が転ぼうか相手を思いやり心配するのは当然のことだ。痛いこと・悲しいことは誰だって嫌だ。ロバートならきっと誰が転ぼうが平等に心配してくれる。私が姫であろうが花屋の娘であろうが受け入れてくれる気がする。
ロバートが私の顔を覗き込む。
「立てる……?」
目の前に手が差し出された。私は彼の顔と手を交互に見たあと、手を取った。