閑話 昇華
皆様御機嫌よう。 私は上流階級の中でも名門中の名門である蝶我院家の当主をしております蝶我院雅代と申します。
今少し困った事があります。
「いつまで落ち込んでいるの咲彩、いい加減になさい」
「ですがお母様、春人様は私のお婿様には……」
そう、市原春人が上流階級の人間と婚姻はしないと宣言した事で咲彩が落ち込んでいるのです。
「咲彩、もし貴女が本気で市原春人と婚姻したいと思うのなら蝶我院から籍を抜きなさい。市原春人は上流階級の人間であっても籍を抜けば婚姻すると言っていたでしょう?」
勿論、市原春人が婚姻したいと思えばの話ではあります。上流階級の家の籍を抜けたから婚姻するとは言っていません。
あれはあくまで市原春人が婚姻したいと思った相手が上流階級の人間であったらどうするかの話です。
「宜しいんですか!?」
咲彩が心底驚いた声を出す。
「構いません。ですが、蝶我院の籍を抜けたからと言って市原春人と必ず婚姻できる訳ではありません。それはあくまで前提条件だと言う事は分かっていますね?」
「それは……」
はぁ~そこまでは理解していなかったのですね。
「今のやり取りで少しは頭が冷えましたか?」
「はい。ですがお母様、私はもう春人様をお婿様として迎える事は出来ないのでしょうか?」
咲彩は目をウルウルさせながら私にそんな事を言う。
「現状では難しいでしょうね。何しろ市原春人は京條家に対して完勝したのですから……しかし、我々上流階級に対して宣戦布告の様な事をした事でまた流れが変わるかもしれません」
私はあくまで希望的観測など入れず淡々と言う。
「そうでしょうか?接触をしないで欲しいと言われた以上、もう我々に出来る事は無いのではありませんか?」
咲彩はまんまと市原春人の思惑に乗せられている事に気付いていない。
「そこなのです咲彩――あれはあくまで市原春人が勝手に宣言した事に過ぎません。そこに法の強制力等は無いのです」
「いえ…それはそうですが、春人様に接触しようとすれば『僕は接触しないで下さいと言いましたよね?』と言われてしまいます。それに、世論はこれまでの上流階級の行いもあって、我々に対して非常に厳しいですよ?」
「えぇ、咲彩が言っている事は間違っていません。ですが、市原春人は致命的とは言えないものの大きなミスをしました。勝ち過ぎた事です」
市原春人は京條家相手に完勝した。これは良い。だが、我々上流階級全てに対してのあの宣言はミスだったと言える。
「京條家の事とあの宣言の事ですね?ですが、大きなミスだとはとても思えません」
「いいえ、市原春人はあそこでこう言えば良かったのです。『もし婚姻しろと言うのなら全ての上流階級の家と婚姻する』と……」
「っっ!?ですが、八条院玲央の悲劇を再び繰り返す気か!!となりませんか?」
咲彩も一瞬何かが頭を過ぎったと思ったが過ぎっただけで終わった様だ。
「なるでしょう。しかし、市原春人はこう言えば良いのです。『これはあくまで自分がどこかの家とだけ婚姻する問題の解決策だ。それ以外の問題は自分には関係が無い。上流階級のどの家とも婚姻しないか全ての家と婚姻するか選べ』と……」
「……」
私の発言に咲彩は黙り込んでしまった。
「市原春人にそこまで言われてしまえばどちらかを選ぶしかありません。そして、恐らくどの家も婚姻しないという結論が出るでしょう。所謂触らぬ神に祟りなしというやつです」
勿論、全ての家と婚姻が選ばれる可能性はゼロでは無い。が、利害調整はともかく感情の方が非常に難しい。何せ何代にも渡って対立している上流階級の家もあるのだ。
もし、上手く出来ると言うのなら八条院玲央の悲劇は起こらなかっただろう。
つまり、負けより勝ちの可能性が高い賭けがあったのにそれをしなかったのだ。
「咲彩、市原春人はあくまで自分が選んだ相手と婚姻する事に固執したのです。男はロマンチストで女はリアリストと言う性差なのでしょうかね?どうあれ中途半端な完勝と言う歪な事象が発生しました。それに、蝶我院家がどうするかはともかく他の家がこのまま黙ったままとは思えません。面子や対面を気にしますからね。何かが起こればまた流れが変わるでしょう」
だから、いい加減立ち直ってその機会を待ちなさいと言外に言う。
「お母様、私は春人様の上流階級から押し付けられる婚姻に抗い自分が選んだ女と婚姻したいと言うそのあり様が美しいと思います」
咲彩は私の目を真っ直ぐ見て言う。
「貴女が選ばれなくても良いと言うの?」
「構いません。元から私は出遅れている身です。ここからの逆転はまずあり得ないでしょう。だからこそ、春人様には己を貫いて欲しいですし、その先を見てみたいと思うのです」
咲彩の目は何かを決意した人間がする目だった。
「分かりました。それでは、蝶我院家はどうするのが良いと思いますか?」
「春人様の事は静観致しましょう。それよりも、私の婿について春人様程などと高望みはしませんから比較的マシな男性をお願いしたいと思います。皆の目が春人様に向いている内にと言うのはどうでしょう?」
「咲彩……」
咲彩は思わず私がハッとするような事を言った。娘は一瞬で私が驚く程成長した。初恋が失恋なのはこのご時世では当然だ。そして、この失恋を受け入れ――昇華した事で咲彩は強く成長したのだ。
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