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ただこの手を引いてくれたなら

 バス停を抜けた先の先、重い荷物が入った袋を二つ下げて、茅乃は後ろを振り返る。

 青いワンピースの裾が揺れて、頼りなく足にまとわりついていた。

 もうじき夕焼けが混じり出してきそうな通りは、住宅街の中のせいか、人通りはない。

 少し前に振り返った時には幸喜の後ろ姿が見えていたけれど、それももう見えなくなってしまった。

 彼はいつも振り返ったりしない。

 正しく前を向いて、しっかりした足取りで歩き出して行ってしまう。

 私がこんなふうに何度も振り返っている事を、きっと彼は知らないだろう、と茅乃は俯きながら前を向き、小さく息を吐き出した。

 幸喜の答えがどんなものなのかは想定通りで、想定通りだと思ったからこそ、咄嗟に言葉として出てしまっていた。

 だからこそ、その答えが悲しいとは思いはしないものの、不思議と少しの淋しさを感じている。

 年齢が年齢だからどうしたってそう答えるしかないのは理解していたし、そもそもそんな事を深く考えないような人だったら、きっとここまで固執しなかっただろう、と茅乃は思う。

 年齢に関してはどうしようもない事なのだし、どうしようもない事なんて世の中にはたくさんある。

 茅乃は指先で頰に触れると、そのまま皮膚に爪を立てた。

 ぐぐ、と爪が皮膚に食い込んでいき、骨の感触がわかる程に深く押し当てていくと、ようやくじわりと痛みを感じてくる。

 顔に傷がつく事に、ほんの少しも躊躇いなんて起きやしない。

 そう。だって、こんな事すら、どうしようもないのだから。

 もしもこのまま顔に傷がついたなら、彼は怒るだろうか。

 ふと考えて、茅乃は頰から指先を離した。

 怒るまではいかないかもしれないけれど、きっと止めてはくれる、気がする。

 そう考えると少しばかり気分が晴れていくようで、茅乃は腕にかけていた荷物を手に持ち直し、のろのろと道を歩き出した。

 これを純粋に恋と呼べるのか否かはわからない。

 けれど、あのベランダから見えたのが彼でなければ決して声はかけなかっただろう、と茅乃は思う。

 あの時、あの瞬間、見つけてもらえたような気がしたのだ。

 ぼんやりとしてどこにもいない、曖昧だった自分の輪郭が見えたような、そんな錯覚をしていた。

 知らない人、それも年上の男性に声をかけるのは確かに無謀で向こうみずな行動なのは茅乃自身十分理解していたけれど、目が合った瞬間、驚いて洗濯物の影に隠れた様子が可愛かったから、結局はきっと大丈夫だろう、と思えたのだ。

 そう言ったなら、彼は怒るだろうか……、考えて、茅乃は小さく笑みを溢した。

 流石に暫くは口を聞いてくれないかも。

 この手を引いてくれたから、その内側の微かな隙間に入る権利くらいは貰えたような、許されているような気がして期待をしてしまったのは、仕方のない事だ、と茅乃は思う。

 許されている、という事が、どれだけの救いなのか。

 きっと彼は知らないし、知らなくていい。

 荷物の重さにふうと息を吐き出し、取手を握り直すと、不意に茅乃は眼を大きく瞬かせ、立ち止まった。

 じりじりと足元から体温が抜け落ちていくのを感じて、その場に縫い止められたかのように動く事が出来ない。

 五秒、十秒……、もうどれ程そのままでいたかもわからないけれど、その間、ポケットに入れていた携帯電話は、途切れる事なくずっと震えている。

 自身を責め立てるようなその震えに、茅乃はぎしぎしと軋む腕を動かし、ポケットからそれを取り出して、画面を見つめた。

 そこには登録されていない電話番号だけが、無機質に並んでいる。

 誰からの連絡なのかは、わかっていた。

 わかってはいたけれど、どうしてもそこに名前をつける事が躊躇われて、その番号をずっと、登録出来ずにいるのだ。

 その関係性に、名前をつけ、目の当たりにするのが、怖い。

 その繋がりを、引き離せないのが、怖い。

 乾いた唇を噛み、通話ボタンを押せば、茅乃は恐る恐る口を開いた。


「……はい、茅乃です」


 掠れて聞こえているかもわからない声で言った言葉は、直ぐに大きな声に掻き消されてしまった。

 電話越しに伝わる言葉はただの音の羅列で、これは、それが伝える用件を抽出しているだけの作業なのだ、と、眉を顰めて唇を噛み締める、茅乃は思う。

 こちらからは一切口にはしない。

 従順に話を聞いている演技をすれば、大人しくして通り過ぎる事だけに集中していれば、これ以上に話が長くならないからだ。

 言葉を飲み込んで頷く度に、自分の中身が薄れてどんどん消えていってしまいそうで、手にしていた荷物が少しずつ指に食い込んで痛いと思える事が、いっそ救いのようにすら感じられていた。


「わかりました。すぐ向かいます。……、おばあさん」


 一方的に言うだけ言って切られた電話は、茅乃のその言葉さえ聞かずに途切れてしまい、虚しい音を鳴らしている。

 溜息を一つ零し、茅乃はのろのろと道の端に寄って荷物を地面に置くと、その場にしゃがみ込んだ。

 夕焼けの赤が深くなっていて、通りに影が細く長く伸びている。

 ひりひりと痛む手のひらを見れば、くっきりと赤い跡がついている。


「……、大丈夫」


 大丈夫、大丈夫、大丈夫大丈夫。

 言い聞かせて、震える両手で耳を押さえる。

 大丈夫。だって、ずっと一人で我慢出来たのだから。

 その為に、ここまできたのだから。

 もう平気、何も聞こえないし、誰も見ていない。大丈夫、一人でも大丈夫。

 呟いた言葉に、すぐさま自分の中から声が返ってくる。


 (……本当に?)


 は、と震える息を吐き出し、立ち上がって振り返るけれど、其処には誰もいない。

 だって、いつも絶対に彼は振り向いたりしないから。

 正しく前を向いて、しっかりした足取りで歩き出して行ってしまう。

 私がこんなふうに何度も振り返っている事を、きっと彼は知らないだろう。

 知らなくていい、と思っている筈なのに、どうして気づいてくれないのか、と理不尽に自分勝手に思っている自分が存在している事が、みっともなくて恥ずかしくて、消えてしまいたかった。

 ぐらぐらと水分を含んだ視界が揺れている。

 泣いちゃだめ。

 泣いても鳴いても、誰も来ないんだから。

 言い聞かせて、乾いた唇を噛み締めたら、瞼に手のひらを押し付ける。

 ただこの手を引いてくれたなら、それだけで。

 それだけでよかったのに。

 掠れて音にならない言葉が、空気になって溶けて消えていく。

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