ディーネの怒り
翌朝。枕元からシャクシャクと子気味のいい咀嚼音が聞こえてきた。
最近ではこの音にもすっかり慣れてしまったな。
朝の日差しと、小鳥の合唱団が再度の眠りを妨げる。テシテシするアサガオちゃんに挨拶をするため、柔らかなまどろみの中で大きく伸びをした。
「アサガオちゃんおはよう」
「う!」
俺が手のひらを差し出すと、応じるようにテシテシしてくるからとても可愛い。このやり取りは起床のルーティンに組み込みたい程度には気に入っている。
いつものようにおでこに触れるが、ミニトマトの茎がどこにもない。なのに枕元は収穫されたミニトマトがたくさん転がっていて、起き抜けの頭に突き付けられた難題に眉をひそめた。
「おでこの茎は掃除したのか?」
「うー」
「え、胸?」
アサガオちゃんの指先をたどっていくと、両方の乳首からミニトマトが生えていた。
「おい」
「う!」
「おいしいのはいいんだが、どうして乳首で栽培しやがったわけ?」
「う~」
「……いいかアサガオちゃん。部位によって土壌が変わるわけがないんだ。だって人間なんだもの。せめて片方の乳首で我慢しなさいよ」
「うー!」
「おぉそうだ、仲間外れはよくない。でもな? この乳首は単体生物じゃあないんだ。俺の一部に仲間もクソもねーのよ!」
「うー!!」
「怒るに決まってんだろバカチンが! もしこんな姿を誰かに見られでもしたら、明日から変態トマト乳首なんて呼ばれるかもしれ――」
「まぁ……!」
……メイドさんが見ている。
両乳首にトマトを生やし、朝の生理現象で股間をもっこりさせた俺の姿を見られている。
じっくりと、舐めるように見られている。
「うふふ……」
「…………」
静かにドアを閉められ、アサガオちゃんのマイペースな咀嚼音だけが客室に響いた。
「……どうしてくれるんだ?」
「う?」
「今日から乳首にミニトマトを搭載した変態もっこり野郎として生きていかなくてはならなくなった。どうしてくれる?」
「うー!」
「黙れ! これはアサガオちゃんが生み出した地獄だ。その曇りなき眼でもう一度見てみろ。この無様な俺の姿をな!」
しかもご丁寧に上半身は脱がされて裸だし……糸目だから見えないなんてぬかしたらぶん投げるからな。
そういえば、漫画とかの糸目キャラってかっこいいよな。いざって時には目を見開いて、実はめっちゃ強いんですって感じの描写されることが多いと思うんだ。
まぁそんなことは至極どうでもいいが。
でもこの、茎をプチって取る瞬間だけはちょっとだけ気持ちいいかも。
「シルバー様、おはようございます」
「……おはようございます」
メイドさんたちが俺を嘲笑っているのではないかと疑心暗鬼になっている。
この程度で何を言っているんだと言われるかもしれないが、あそこまで感謝された次の日に醜態を晒すなんて恥ずかしすぎるわ。地竜狩りのトマト乳首とか呼ばれたら三日は寝込む自信があるぞ。
俺だって多少は見栄を気にすることもあるさ。どうせ無双紛いのことができるのも今だけだろうしな……。
システムに縛られ、ボス格を倒せないことは遺跡の最深部で既に判明している。先月までゴーレム君に何千発と羅刹掌をぶち込んできたが、未だにピンピンしているのが何よりの証拠だ。
地竜で効率よく鍛える計画もポシャってしまったし……最近は何も上手くいかない。
そんな風に歩いていたらピンときた。
この気持ちは、友人からムチムチの裸を見たくないかと言われ、ホイホイついていったら大相撲を見せられた時の気分によく似ている。
扉を開き、エリーゼさんに挨拶をしながらそう思っていた。
「おはようございます。昨日はちゃんと眠れましたか?」
「そりゃもう快適でしたよ。ベッドもふっかふかで気持ちよかったです」
「ふふ。どうかここを我が家とお考えください。私たちは家族なのですから」
「き、恐縮です。そこまで言ってもらえるなんて夢にも――オッホァッ!?」
「シルバー。神さま。おはようだゴブー!」
「二人ともおはよう。今日も元気そうでなによりだ」
「う!」
「おはようございます! えと、姉さまがすみません……」
あくまで他人の子だから可愛く感じるだけで、本当の妹だったら絶対ケンカになっているだろうな。
見た感じ二人の仲はかなりよさそうだけど、フィーネには闇を感じる部分もあるような……ってのは余計なお世話か。
しかし、朝食がちゃんとしていて涙が出そうだ。
里の近くには豊富な水源がある。川だけではなく、地下からの湧き水は冷たくて清涼。高所でありながら作物も育ち、食に関しては困ることがないらしい。
というのも……魔獣の襲撃は苛烈であったため、総人口が百名を割ってしまったとのことだ。破壊された家屋が多かったり、男の姿がやけに少ないなとは思っていたが。
その分、備蓄に余裕ができてしまうという嬉しくない誤算。本当に危機的状況だったんだな……。
朝食が名残惜しいと感じたのは、この世界で初めての経験だ。
準備を済ませて屋敷を出る際、お弁当まで用意してくれたエリーゼさんに無意識でオギャりそうになった。
これがバブみってやつか。幼児退行には気をつけたいと思う。
さて、今日はディーネと一緒に黒鳩を狩る。
アサガオちゃんには念のために待機してもらい、地竜の監視をお願いしておいた。なんたって昨日の今日だ、さすがに不安が残る。
「キュウ……キューン!」
「…………」
「またいじめてるゴブ」
行きがけにメンチ切っておくのも忘れない。子供たちが落書きに使っていたチョークのようなものを借りて、地竜の顔に眉毛を書いてやった。子供に好評だった。
今日はこれくらいで勘弁してやるか。里の復興作業にも後ろ髪を引かれるが、そろそろ目的地である北西の森へ向かうとしよう。
数時間後。目的地に到着はしたのだが、今度は別の問題に直面していた。
本来ならここにはいない男の姿が見える。
そいつを一言で表すなら、盗賊業を営む冒険者だ。主なターゲットはソロで活動する同業者であったり、活動を始めて間もない新人を狙うことも多い。
そして最も厄介な点は、原作のメインストーリーに登場する人物であるということ。
名前はオズという。清々しいまでに卑怯で悪辣。無駄に高い実力とカリスマを持った面倒な相手だな。さらに言えばボス格でもあるため、俺では倒すことができないのだ。
で、そのオズが森の中で数名の部下と共に、少年と少女の二人を取り囲んでいる。どう見ても穏やかではない現場に居合わせてしまい、ディーネと顔を並べて悩んでいるところだった。
「見損なったぞ! あんたらは最初からこうするつもりだったんだな」
「気づくのが遅すぎたなぁジークさんよ。さっさと諦めて武器を捨てな。そうすりゃ女の命だけは助けてやるよ」
「ふざけやがって……!」
オズは強い。少なくとも、能力だけは本当に高いんだ。
鬼崩しという名の斧を獲物とし、剛腕から繰り出される一撃の火力は目を見張るものがある。しかし、なんでこんなところにいるんだコイツは……。
見た目は筋骨隆々で二メートルを超える巨体。手入れ不足なライオンヘアーが威圧感を増し、中途半端に高級なマント付きプレートメイルを装備していた。
対するジークと呼ばれた青年は、金髪ホストヘアーのイケメンだ。軽々と持っている大剣を見るに腕力もありそうだった。ロングコート風の黒いジャケットがよく似合っており、自分との格差に腹立たしさが抑えられない。
そして、彼が守ろうとしている少女もやたらと綺麗な子だった。手に持った弓が獲物のようだが、なぜ魔術師が好みそうな白いローブを着ているのだろうか?
いや、別にそれはどうでもいいことか。
「シルバー。どうするゴブ?」
「お前は手を出さなくていい。絶対ロクなことにならんからな」
「……うん」
それでいい。人族の争いにゴブリン族が絡むとグチャグチャになる。
ここは見捨てるしかないか? 俺が出て行っても殺せないんだから。
よしんば殺せたとしても、どこかにいるであろう主人公にどんな影響を与えるかもわからない。
別に知らない他人を見捨てるくらいどうってことはないはずだ……。
前世を含めれば、今までどれだけ見て見ぬふりをしてきたと思っている。ディーネの場合は止むを得ずだったが、そうでないのなら関わらないのがベストだろう。
そして、後ろから投げられたナイフがジークの左腕に突き刺さった。
「ぐぅッ!?」
「ジーク!」
「おっと、こりゃ痛ぇ。ほぼ徹夜だもんなぁ? もう諦めちまえよ」
「……逃げろリンデ。時間は俺が作る」
「…………イヤだよジーク。そんなの、イヤだよ……」
囲んでいた五人の男たちが武器を構えた。
ここまでだな――ディーネを抱きかかえようと手を伸ばすと、そこには怒りの形相で大量の魔術を待機させたディーネの姿があった。
なにゆえでござるか。
「くたばれゴブ」
待機状態にあった無数の水の槍が、オズたちに向けて超高速で放たれた。