悪魔
――やはり、竜は偉大である。
四足歩行でありながら見上げるほどの巨体。年月を感じさせる茶色がかった強靭な鱗は芸術的ですらある。
特別な力は持たないが、その大きなアギトで全てを砕き、太くて長い尻尾は一撃で小隊をも壊滅させる。
まさに歩く災害! 犬耳族の最後を飾るにふさわしい。
主様も言っていたが、狂犬は随分と丸くなったようだ。レクセンがやられたからといって、犬耳族から手を引くなどバカげている。こんな千載一遇のチャンスを見逃すなど愚鈍にも程があるな。
「陽炎様。これ以上の投薬は危険かと思われます」
「ご苦労。これより地竜を犬耳族の里へ誘導し、乱戦の中で始祖の一族を手に入れる。総員、抜かりはないな?」
「は!」
「よろしい。では行動開始」
まさかこうも上手くいくとは思わなんだ。狂犬を出し抜けるチャンスに恵まれた今日この日を神に感謝しよう。ようやく、私の時代がやってきたのだ。
ウェーブのかかった美しい私の髪がパサついている。
これだから遠征は嫌だ。むさ苦しい男たちから漂う汗臭さは筆舌にし難い。
主様にも見目麗しい女性の部下を求めたが返答はなかった。
まぁ構わない。少なくとも今は。
地竜を里へ誘導するのに三日もかかった。予定は大幅に遅れたが、何の問題もない。
「陽炎様。少々問題が」
「簡潔に」
「は。地竜が動きを完全に止めました。どこか怯えているようにも……」
「そう見えたのなら君の目は腐っている。このまま計画を遂行せよ」
「……では、危険ですがもう一度投薬を行いましょう」
「愚かな。これ以上は許可できない」
「で、ですが地竜の様子をご覧ください。本日も狂力薬を限界まで投与しましたが、あの有様で……」
どんな敵にも果敢に喰らいつくことで有名な地竜が怯えているだと? バカげている。そんなことあるはずがない。
「陽炎様。もう一つご報告が」
「……簡潔に」
「は。昨日の夜、犬耳族の里に人族が入ったそうです」
「見間違いでは?」
「いえ、自分も確認しております。麓の村にいるような探索者に見えました」
「探索者を犬耳族が受け入れる? なんだそれは……」
理解できない。何が起こっているというのか。
ようやく主様の片腕となるチャンスが訪れたというのに……なぜここにきて想定外の事態ばかり起きるのだ! く、こうなったら最後の手段で。
覚悟を決めようとしたその時。里の方角から若い男が地竜の元へと歩いてきた。
「思ったより小さいな」
「ヒッ、シルバーさま! 危ないですぅ!」
「無理だゴブ……こんなの倒せないゴブ!!」
「地竜にしては小さいって言っただろ? 可愛いもんだ」
あの男は狂っているのか? この巨大な地竜のどこが小さいというのだ。
それにシルバー? そのような名前は一度も聞いたことがないな。安物の皮鎧にフード付きのマント。太めの黒いズボンをはいた、どこにでもいそうな茶髪の若い男だった。
顔は……まぁたいしたことはない。私の方がイケてる。
「グゥオオオオオオッ!!」
「ヒィ!」
ッ、強烈な地竜の大咆哮だ。そのあまりの迫力に、男の後ろにいた褐色のゴブリン姉妹が身を震わせ――って始祖の一族ではないか!? 私の悲願がすぐそこにぃッ!!
だ、だめだ落ち着かなければ……。地竜の前に躍り出るなど愚か者のすることだ。
即座に部下へ待機命令を出し、男が喰われた瞬間を狙うことに決めた。
「まずお前たちは下がっていろ。合図をしたら予定通り訓練を始めるからな」
「シルバー」
「ん、なんだ?」
「絶対に死なないで」
「……まぁそう思うよな。ちょうどいい、訓練の前に地竜との戦い方を教えておく。二人とも参考がてらに見ていてくれ」
「ガァアアア!!」
くだらん。女の前で見栄を張るタイプの愚図か。
限界まで狂力薬を投与した地竜など、国の一個大隊が派遣されるような災害級の有事だぞ? おそらくは、かの剣聖でも簡単には倒せない化け物。それを前にしてなお、見栄を張れる気概だけは認めてやるがな。
「地竜の攻撃は大きく分けて三つだ。今回は口を開けての突進だから、左右のどちらかに噛みついてくる」
至近距離まで近づいた地竜が、大きく口を開いた。
「ここで踏み出した足を見ろ。俺たちから見て、左の足を前に出した。だから――」
終わったな。
頃合いと見て部下に突撃命令を出そうとするが、男は地竜の噛み付き攻撃をなぞるように後方へと回避していた。
「――右に押し込むように噛みついてくる。こうして左後ろへ避ければ反撃のチャンスだな」
「…………」
姉妹が呆然と固まっている。私たちも固まっている。
さらに地竜は連続で喰らい付こうとするが、それらも全て紙一重で回避されてしまう。私は、横から真顔でこちらを見てくる部下に何も言えなかった。
「こんなふうに片足を上げた時は真下に噛みついてくる。左右に避ければ、また反撃のチャンスでもあるんだが――」
今度は真上からの噛み付き。これなら回避が間に合わず圧し潰せるかもしれん。
握りしめた拳にグッと力が入った。
そう思った矢先、男は喰らい付こうとした地竜の鼻先に手を添え、矛先をずらして地面へと激突させてしまった。鼻先を半分ほど埋めた地竜が苦しそうにもがいている。
いや、今のはおかしい。人の成せる技ではないだろう……。
「――という具合に受け流しも可能だ。ただ、これはちょっと難しいからマネはしなくていい」
「……シルバー。ちょっとじゃないゴブ」
「慣れるまでは誰だってそう思う。俺もそうだったよ」
地竜の攻撃に慣れるだと? どうやら奴のご近所には住めそうにないな。
だがこれで終わりではなかった。男は懐から魔石を取り出し、地竜の口の中にポンポンと放り込み始めた。
「地竜は竜の中でも特にしぶとい。外からの斬撃や打撃は効果が薄く、魔力耐性もすこぶる高いんだ。だから訓練にも適しているわけだが、効率よく稼ぐにはこうする――雷撃」
「グオオオオオ!?」
「シ、シルバーさま。なにをなさっているのですか?」
「こうして口の中に雷撃をぶち込んでやれば、耐性の高い地竜でもマヒ状態になる。人族が相手でも有効だから覚えておくといい」
なるほど、これは拷問のセミナーだったのか。
しかし、あの偉大なる地竜が子供扱いとは。
これでレクセンと狂犬が当てにならんことがよくわかった。こんな怪物のような男を見逃していたのだからな。
今日、私がシルバーという男の存在を知ることができたのは僥倖だった。今回のように奴の存在が今後の計画に支障をきたす恐れがある。
道楽で商売しているような竜の姫よりも、誰も気にしない普通の姿をした怪物の方がよほど脅威ではないか! 地竜を素手であしらうなど、一体誰が予想できるというのか。
「よし、これで準備ができた。二人ともありったけの魔術をコイツの背中に撃ちまくれ。死にそうになっても大丈夫だ。回復薬はたくさん用意してある」
シルバーはジャラジャラと大量のビンを取り出して笑っていた。
それはもう、とても楽しそうに笑っていた。
あ、悪魔だ……あの男は悪魔だ!!
「……シルバーさま」
「どうしたんだ二人とも。地竜が怖いのかもしれないが、危険と判断した時はすぐに始末するから安心していい。俺には秘密兵器の猛毒が――」
「シルバー。地竜が泣いてるゴブ」
「……グゥウウオオ」
「さっき教えただろ? 地竜が怯えて見えるのも、里を襲わないのも、全てアサガオちゃんが近くにいるからだ。大人しくしている今こそ、お前たちが強くなれる絶好の機会なんだぞ? ほら、早く全力で魔術を撃ちまくれ」
「うー!!」
「今の地竜はシルバーに怯えてるって言ってるゴブ」
「お、おい。アサガオちゃんがいると訓練にならないって言っただろ? おとなしく里で待っていなさい」
「う!」
「あ、あの。アサガオさまがそれくらいで許してあげてはとおっしゃっていますが……」
「……こいつを野放しにしろって言うつもりか? この凶悪そうな顔を見ろ! 見逃した瞬間にゴブリンの踊り食いを始めそうなツラしてやがる。だからギリギリまで訓練に使って、血の一滴まで大事に使ってやればいいじゃないか。命に感謝しよう」
「うー!!」
「こ、こいつはロゼにケンカを売るようなアホだぞ? 甘い顔を見せたらダメだって!」
なんだ仲間割れか?
会話をしばらく聞いていると、小さな緑の……植物の妖精? らしき生物とシルバーが言い争いを続けていた。片方が何を言っているのかさっぱりわからないが、シルバーはどうしても地竜を拷問したがっている。対して、姉妹と妖精は地竜を見逃せと主張しているらしい。
……信じたくはないが、確かに今の地竜は完全に無抵抗で伏せたままだ。巨体が小さく小刻みに震えているあたり、本当に怯えているのだ。
「お前たちは甘すぎる。どうしてもというのなら、悪さができないように片足ぐらいは切り落とさせてもらう。里の安全のためにもこれ以上は譲れない」
「う~?」
「……地竜を土地や人と繋げれば意思疎通ができるかも? え、そんなことできるの?」
「う」
「…………そう、か。う~ん、いい訓練になるんだがなぁ」
不承不承ながら、シルバーは拷問を取りやめたようだ。
あの不満そうな顔を見ろ、きっと奴の自宅には臓器のコレクションが並んでいるに違いない。
奴らが地竜を連れて里へ帰るのを見届けると、私は力が抜けるように地べたに座り込んでしまった。控えていた部下たちも似たようなもので、生きた心地がしなかったと口々に語り出した。
この認識阻害の護符を発動していなければ、我々は既に死んでいただろうな。
……この情報は意地でも持ち帰る。主様、我らが悲願はまだまだ遠いようです。