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転生先は序盤の王女攫いでした

作者: 日陰

§§1日目§§


 俺は前世ではまぁ、よくある名前のよくある人生を歩むしがない男だった。


 前世――というのはそう、俺はついさっき運転していた自動車でガードレールに突っ込みそのまま崖に落ちた。おそらく死んだだろう。記憶は曖昧だ。なにせ差し迫った仕事に睡眠時間を奪われ、ウトウトとしてしまったが故に起きてしまった事故。つまりは自業自得。


 だから後悔はあれど、今はまぁ仕方がないかと思っている。両親共に先立っているし、結婚もしていないから、それほど未練も残っていない。あるとすれば、俺が死んだことで止まってしまったプロジェクトを、引継ぎもなく会社の誰かに押し付けることになるであろう罪悪感。けっこう大変なプロジェクトなだけに、引き継いだ奴はかなりの苦労を強いられることだろう。


 ……っと、別に俺の前世のこととかもはやどうでもいい。問題は今、俺の前で起きていることだ。


「――ハイセの旦那? どうしちまったんだ、ボーっとしてよ」

「いや、ちょっとな……」


 ハイセ。それが今の俺の名前。いや、元々俺はハイセだ。今しがた、前世のことを思いだしたせいで、頭の中にある記憶ががぐちゃぐちゃで、自分を見失いかけている。落ち着け、俺!


「それにしても、流石は噂に名高い人攫いのハイセ! 今日の仕事は随分と楽勝だったぜ。それにターゲットはガキ一人だが、セットでべっぴんの女が2人も。依頼主は他の奴がいた場合は始末しろって言ってたしよ。今夜は楽しめそうだ。ハイセの旦那もどうだい?」


「いや、俺は……」


 俺よりも二回りくらい大きな大男が、隣で下卑た笑みを滴らせている。俺と大男――名前は確かルドム、だったか? の目の前には頑丈な鉄格子があり、その中には鎖につながれた手錠で拘束された平民服に身を纏った美女二人と美少女一人。


 前世の俺はこのうちの美少女一人にとても見覚えがあった。ついでに隣に立つ筋骨隆々なルドムの下品な髭面にも。


 俺は前世では『エルデメント・ストーリー』というゲームにドハマりしていた。爽快なアクションと重厚なストーリーが特徴的なRPGで、オープンワールドになった広大な世界で魔帝という巨悪を打倒するべく冒険するといったものだ。豊富なスキルやアイテム、なにより爽快さがありながらも難しいテクニックを度々要求してくるアクション面は、コアなゲーマーも虜にするほどに完成度が高い。


 俺もそんな『エルデメント・ストーリー』に惚れた一人なのだが、今目の前にいる美少女はゲームの主人公がまず最初に拠点とする光の王国"ルクス王国"の第3王女――通称男嫌いのルミナ。本名は確か……ルミナ・レイテス・オーラ・エルデ・ルクスだったか。


 『エルデメント・ストーリー』におけるメインヒロインであり、多くの男性ファンが彼女のあまりにふり幅の大きすぎるツンとデレの間に圧し潰されて尊死した、ヒロインオブヒロイン。一度として人気ヒロインアンケート第1位の座を譲らなかった最強のキャラである。


 つまり俺は、前世でハマっていたゲームの中の世界に転生したことになる。


 今、俺は目の前のリアルルミナたんを凝視しながら、冷静に自分の状況を分析している……嘘である。頭の中は大パニック。ルミナは俺のことを屈辱と憎悪に滾らせた瞳で睨みつけており、俺は完全にその殺気に気圧されて視線を逸らせずにいる。もしも彼女の視線に人を殺す力があるのなら、今頃俺は跡形も残っていまい。


 ゲームの中の世界に転生……まぁ、俺の読んでいたラノベにも似たようなものはあった。死後の世界なんて誰にも分からないのだし、こんなことが起こることもあるいは不思議じゃないのかもしれない。


 ただ、問題は――


「……まぁ、ハイセの旦那はエルフだからな。人族の女には、興味がないか」


 そう、俺がハイセに転生してしまったということだ。ハイセというキャラクターは小柄なハーフエルフで珍しい闇属性の影魔法を操る盗賊団のまとめ役、というのが公式の表設定。それ以外は特に言及されていない、ゲームではサブキャラに位置するキャラだ。しかもハイセは顔を常に黒い布で覆っており、耳と目しか露出しておらず、色々と謎も多い。


 隣にいる大男のルドムもまた、盗賊でありザ・悪役キャラ。そしてハイセとルドムは、エルストの序盤クエスト【王女誘拐】の主犯であり、主人公に討伐される運命のキャラクター達……つまりは序盤のやられ役である。


 クエスト【王女誘拐】はエルストにおける、人型エネミーとの戦闘チュートリアルでもある。近接のルドムに、魔法を使い遠隔で戦うハイセ。対極的なこの二人と戦うことで、エルストプレイヤー達は人型の相手との立ち回りを学んでいくことになる。


 そしてこのクエストを経て、メインヒロインであるルミナは無事超絶男嫌いキャラになるわけで、彼女を助けた主人公が、ストーリーを進行していく中で少しずつ閉ざされた心の扉を開いていく。つまり今から行われるのは、ルミナが男嫌いになるきっかけとなるトラウマの再現。


 隣に立つルドムのギンギンに滾らせた目を見れば、何が起ころうとしているかなんて一目瞭然。ルミナ達が収容されている檻と手錠は特別製で、魔力を抑制させる効果を持つ。ルミナはもちろんのこと、他の二人も強力な魔力を持っている可能性があるため、ここに入れておかなければならない。つまり、ルミナの目の前で、ルドムは他の二人を襲おうとしているわけだ。


「なんてこった……」

「ん? なんか言ったか」


 今にも服を抜き出して檻の中に突っ込んでいきそうなルドムが俺の声を耳にしてこちらを向いた。なんとかしてこの巨漢を止めなければ。一瞬ゲームの世界に転生した自分が、ゲームストーリーの正規の流れを無視した行動を取ってもいいのか――なんて禁忌的なことを侵すことへの忌避感が過るものの、今の状況でそんなくだらないことを考えている場合じゃない。


 そもそもストーリー通り進むのなら、俺は近いうちに王国の騎士団に捕らえられる。捕まったハイセがどうなったかはゲーム内で詳しく言及されていないものの、この世界のハイセとしての常識に照らし合わせれば、まず間違いなく極刑は免れない。


 ストーリーをひっくり返さなければ、俺は生き残ることはできない。そして今、目の前で起きようとしていることも当然見逃すことはできない。


「ルドム、ガキにはもちろんのこと、その二人にも手は出すな」


 俺がそう言うと、ルドムはあからさまに不機嫌に眉間に深い皴を寄せ、


「おい、今手を出すなっつったのか旦那?こんな上玉を目の前にして?冗談だろおい。俺ァ、ここ数日この仕事のせいで女買えてねぇんだよ。もう爆発寸前だぜ!?」

「知るか、ケダモノが。いいから手は出すな。そこの二人はいい商品になるんだ」


「はぁ!? 何言ってんだよ旦那ァ。この二人は始末するのが依頼主の意向じゃねぇか」


 確かに依頼主からはルミナ以外に捕らえたなら、その者は始末しろと言われている。外道の言葉を認めたくはないけれど、この場ではルドムの方が正しい。


 しかし俺にはまだルドムを説き伏せるための手札はある。


「ルドム、こいつらが何者か分かってるのか?」

「あァん? まぁ、こんな檻と手錠まで用意させられて、ただの平民ではねぇな。それに服装で誤魔化してるつもりだろうが……こんな生地のいい服装をたかが平民が着てるわけもねぇ。つまるところ、平民に扮したどっかの貴族ってとこか?」


「ほう、いい線はいってるな」


 頭の中も筋肉と性欲でできているのかと思えば、意外と鋭いルドムに俺は少しだけ驚く。なにせルドムの出した答えは、前世の記憶を持つハイセと同じだったからだ。


 原作ではルミナと一緒に捕まった二人は死亡している。ゲームでは描かれていなかったものの、おそらくハイセはルミナ以外の二人を価値無しと判断し、ルドムを止めなかったのだろう。


 しかしゲームのエルストを知る俺は、ルミナが王族であることを知っている。


「いい線って……ハイセの旦那はこいつらのこと何か知ってるのかよ?」

「あぁ、俺はあのガキの顔に見覚えがあってな。確か……王国の第三王女のルミナ姫、だったか?」


「なッ……貴様、なぜ!」


 俺がルミナの名前を口にすると、檻に入った美女の一人が声をあげる。彼女が驚くのも無理はない。ルミナはあまり公の場には出てこないし、盗賊風情が彼女の顔を知るわけがない。ハイセもどうやら色々と情報を集めていたようではあるが、流石にルミナの名前は知っていても、顔は知らなかった。


 そして美女の反応で、ルドムが俺の言葉が真実であることを悟る。


「おいおい、まじかよ……マジで王族なのか。つまりなんだこの仕事を依頼してきたやつは、国家転覆でも考えてるってのか?」

「……そこまでは知らん。ただ、王族の傍にいたってことは、そこの二人も相当格の高い出自の女なんだろう」


「いや待てよ旦那。それこそ、売るのはまずいんじゃねぇか?」


 まぁ、問題はあるだろう。俺達は既にこの三人には顔が割れている。それを生きたまま、開放するのはリスクでしかない。しかし何もしなくても結局主人公は来て俺もルドムも捕まる。それをルドムに話すわけにもいかないけれど。


「問題ない。俺には外の国とのルートもある。王族に仕えていた女ともなれば、相当な金になるだろう」


「大丈夫なのかよ、本当に」

「……そもそも、王族の誘拐なんて相当危ない橋を渡らされているんだぞ。受け取る報酬だけで割に合うわけがない」


「そりゃあ、違ェねェが……分け前は当然高くつけてくれるんだろうな?」

「そうだな……お前とその部下共がこいつらにキズ一つ付けず運ぶなら、俺が四でお前らに六はくれてやる」


 実際にそうはさせないようにするつもりなので、俺は怪しまれない程度でかつルドム側に得があるような割合を適当に提示する。


「本当かよっ!? だったら仕方がねェ……ここは旦那の話に乗ろうじゃねェか。せいぜい高額で売りさばいてくれよ」


「ああ。お前の方こそ、部下共が手を出さないように釘さしとけよ」


「了解了解。まァ俺を差し置いてあいつらが手を出すなんてことするわけもねェがな。がははッ!」


 ルドムは汚い笑い声をあげながら、牢の部屋を出ていく。ひとまず差し迫った事態は回避することができたみたいだ。転生した直後だというのに、我ながら上手く捌けたと思う。ハイセとしての記憶や自我を引き継いでいるのが大きかった。


 俺はほっと胸を撫でおろしつつ、檻に入れられた三人の方を見る。絶望と憎悪、そしてどこか諦観も含まれた表情。


「――さて、お前らの移送は明日だ。大人しくしておくのが身のためだ」


 俺は冷酷なハイセとして振る舞いながら、三人にそう告げる。本当は自分が味方で、あなた達を助け出したい――そう言いたかった。しかし今目の前であんな会話をされて、いきなり態度豹変しては無用に疑われるだけ。彼女達を助けるのなら、ギリギリまで仇敵と思わせたままの方が逆に都合がいいだろう。


 とりあえずルミナ達を移送までの約一日分の時間は稼いだ。その間にあの三人を助ける方法を考えなくて……


 そのためにはまず状況と情報の整理だ。いきなりあんな状況に転生されて、俺はまだ色々と整理できていない。俺はルドムにあてがわれたボロ布で仕切られただけの自分の部屋に戻りながら、記憶を探る。まずはエルストではなく、ハイセとしての記憶だ。


 ハイセはハーフエルフとして生まれたが、間もなくして親に捨てられて孤児になった。その後は貴族の奴隷となり、思い出そうとすると吐き気がするくらい嫌な経験をしてきた。そのせいで人間の貴族や王族に対する恨みは強い。


「色々苦労してたんだな……ハイセ」


 奴隷としての期間は五年以上。しかしある日ハイセは影魔法に目覚めることになる。その影魔法を駆使して、貴族から逃げ出し、スラムで生活するようになった。そこでハイセは影魔法を鍛え、生きる術を磨いた。


 やがて影魔法を利用した商売も始めた。それが人攫いだ。


「なるほど……それで人攫いのハイセなんて呼ばれてるのね。まぁ、でも結構義賊的なんだな。意外だ……」


 次々と浮かぶ、ゲームでは描かれていなかったハイセの半生。そこには間違いなく人を攫っている場面も多々あるけれど、ほとんどが不当な扱いを受けている奴隷や違法取引されている奴隷の解放が目的となっている。


 ルクス王国では奴隷法が認められているものの、それは厳重な奴隷契約のもとで認められているものであり、過度な暴力や契約にはない奉仕を強制させることは犯罪になる。ハイセは奴隷商人と手を組み、契約を破り奴隷に不当な扱いをする者から奴隷を攫っていたのだ。


 たまに条件によっては貴族の誘拐などもあったけれど。まぁ、過去に自分が奴隷の時に貴族に嫌なことをされてきた故の理念なのだろう。


 そして今回のルミナ誘拐の依頼でハイセが聞かされてい彼女の素性は、とある悪徳貴族の関係者、である。まぁ、どこかの貴族が交渉事で強行的に手札を増やすために関係者を攫うことは稀にある。今回は相手がハイセもよくしる貴族の関係者ということで依頼を受け、そしてまんまと騙された。


 ハイセ自身は依頼主の背景などの情報も精査した上で依頼を受けたのだけれど、今回は相手が悪すぎる。なにせ今回のルミナ誘拐の背後には他国と王族関係者が関わっているからだ。


 これはゲーム終盤までストーリーを進めると判明する事実だ。ルミナの持つ特別な力を欲した他国が、王族関係者であるある公爵家を通じてルミナを攫った。この公爵家の当主はやがてステージボスとして主人公の前に立ちはだかるのだが、今この時点でその公爵家の裏切りは明らかになっていない。主人公がその真実を突き止めるまで、ルミナ誘拐の背景にはどこかの国が関与していたのだろう、くらいしか分からないままだった。


 とはいえゲームのハイセはそんなことなど露知らず、ルミナ誘拐という大犯罪の片棒を担がされたことに気付かぬまま主人公と邂逅し、主人公に魔法使いとの戦いを教え退場する。


 このまま何もせず明日になれば、俺もおそらく同じ未来を辿ることだろう。


「ルミナ救出は主人公がいるから問題ない……あの二人もここで死ななければきっと大丈夫な、はず。いや、もう既にゲームストーリーからずれているなら、あまり過信するべきじゃないか……?」


 ルミナと他の二人を助け、なおかつ俺自身も捕まらない方法……あるのか? そんな方法が。


 俺は部屋の中を見渡す。ここはルドムが率いる盗賊団のアジト。横穴の洞窟を改造し、地下にも空間がある設計となっているけれど、俺は全容を詳しくは知らない。というのも、ゲームでのハイセの立ち位置は盗賊のまとめ役だったけれど、実際はそうじゃないのだ。


 ハイセは元々ソロでの活動であり、ルドム率いる盗賊団とは、今回の依頼に関して業務提携をしただけなのだ。これは確か公式の裏設定でも説明されていた。前世ではこんな設定に意味はないと思っていたけれど、今こうしてハイセになってみると、かなり面倒な状況だ。


 地の利もなく、ルドムには多くの部下もいる。この中で地下の檻の中にいる三人を力尽くで救出して逃げ出す、という方法は不可能だ。


「何か、ないか……? 他に、ヒントは……」


 元々ハイセが得ていた情報、そして前世の俺が持つゲームの知識。それらをあてにしてしばらく思索に耽るものの、いっこうに良いアイデアは生まれない。時間だけが過ぎていく。カタカタと、無意識にしていた貧乏ゆすりで軋む床の板の音だけが聴覚を満たしている。


「――ハイセの旦那! あんたも飲もうぜッ」


 どれほど時間が経ったのだろう。思考に没頭していた俺を引き戻したのは、突然部屋の中に入ってきて大声をあげたルドムだった。ごつごつとしたひげ面に僅かに覗く素肌が僅かに赤らんでいる。もう既に随分と酔っているようだ。


 ハイセは元々酒を嗜まない。それに今はそんな状況でもないため、俺は適当に追い払おうとしたけれど、既に酒を入れて晩餐に浸っているルドムを見て、ふと気になることがあった。


「あの三人のメシはどうしているんだ?」

「あァん? ンだよそりゃあ……そんなもん適当にその辺にある食い物投げ入れときゃァいいだろーが」


 ルドムは気分よく酔っていたところに水を差されたことに表情を不機嫌に歪ませる。こいつは本当に相手が王族だと理解してるのかよ……


「馬鹿か。変な食べ物を食べさせて腹でも壊したり、面倒な病気になったらどうするんだ。丁重にもてなせとはいわんが、最低限の扱いはしろ。価値が落ちるだろうが」


「……っチ。あァ、そういうことか」


 呆れた俺の物言いに、ルドムは若干苛立ちを浮かばせるものの、納得はした。しかし酒の入っている絶好の状態で、捕まえた三人の世話をするのは面倒くさいと、その態度で明確に物語っていた。


「……もういい。地下の三人の飯は俺が用意する」

「ハイセの旦那がァ? 料理なんてできンのかよ」


「簡単ものでもいいんだよ。とにかく、道具は適当に借りていくぞ」

「あァーはいはい。勝手にしてくれ。俺はまだまだ飲んでくるぜー!」


 ルドムは面倒事を俺に押し付けることができて、大分機嫌が戻ったのだろう。また酒を飲みに戻っていった。


 俺もすぐに立ち上がり、食材と道具の調達をするために部屋を後にした。


 やはりというか、まぁむさ苦しいゴロツキの集まった強盗団の穴ぐらにまともな道具などなく、散々探し回って集まったのは粗末な食材と汚い鍋と食器、そして火をつけるための道具。包丁は俺が使っている短刀で代用するとして、問題は水。


「……確か近くに川があったな」


 アジトを出ると外はすっかり日が落ちて、月の透き通る青い光が周囲の輪郭を微かに浮かび上がらせている。もう残されている時間はそうない。しかし今はあの三人への食事をしっかり用意しなくては。どのみち明日は俺にとってもあの三人にとってもタフな一日になるだろうから。


「さて……やるか!」


 俺は人気のない川の側にくると、ずっと顔を覆っていた黒布を脱ぎ、袖をまくり上げる。人がいないせいか、ハイセというよりも前世の自分が出てしまっていた。とはいえ、転生してからずっと張り詰めっぱなしだったこともあってか、呑気なことながら開放感を感じていた。


「まずは火をつけて、食材も洗わないとな……洗うのは流水でいいとして、調理に使う水は煮沸くらいはしとくか。うーん……ちゃんとしたものってなるとけっこう手間がかかるな。よし、せっかくだし魔法使ってみるか。影魔法――"宵"」


 俺は食事作りの手順を頭の中で整理しながら、俺はハイセの代表的な影魔法の一つを発動する。前世の俺としては初めての魔法だったけれど、ハイセと同一化しているためか、魔法の発動にはなんの問題もなかった。


 影魔法"宵"は自分の影を実体化させ、分身として使役する魔法だ。ゲームでの戦闘チュートリアルとしては、少々特殊な感じもするけれど、ハイセは主人公との戦闘時は影を飛ばして攻撃を加えるという方法で"宵"を使用していた。


 ただ分身として使役できる"宵"にはもっと器用なこともできる。これはゲームにはなかった仕様だ。ハイセ自信もまさかこの魔法を料理に使うとは思わなかっただろうな……とハイセになった俺は思いつつ、月の光に照らされた漆黒の"宵"に念で命じて、早速作業に取り掛からせる。


 それにしてもハイセという器はとても便利だ。夜目もかなり効くし、"宵"を使えば一人では不足している部分も補える。ソロで活動するにはうってつけなスペックだろう。


 調理作業は"宵"に任せて、俺はハイセの夜目を利用して川の方を観察していた。小さな魚が見える。俺はナイフを手に持ち、静かに近寄り、鍛えられた身体能力に物を言わせたスピードでナイフを投げつけるた。


 結果、俺は二匹の小魚を仕留めることに成功。同じ種類の魚で、念のため毒見もしたうえで、俺は"宵"の作った野菜スープの中に一口サイズに刻んだ魚の身を投入した。


「ふぅ……完成っと。なかなか美味しくできたな。喜んでくれるかなぁ」


 あんな状況で、喜ぶはずもないかと自分に突っ込みつつ、俺は出来上がった川魚の身入り野菜スープの入った鍋を持ち、"宵"に食器を持たせ、アジト地下へと向かった。ルドムの部下たちが数人匂いにつられて近づいてきたが、ささっと追い払った。スープは温かいうちに食べてもらわないといけないからな。


 緩い階段状になっている通路を降り、俺は牢のある地下室へと向かう。地下室には誰もいない様子だった。通常は数名の見張りがいるけれど、今は明日の移送任務の英気を養うためにもれなく全員が上で酒を飲み交わしている。


「……今、襲撃とかされたらどうするんだろうな」


 しかし俺のそんな問いかけに応えてくれる声はない。地下の牢は上と比べると、まるでここだけ別世界のように温度差があった。凍えるような静寂の中、俺の足音だけが響き、スープから立つ湯気が空気に溶け込んでいく。


 牢の前に立つと、かちゃりと冷えた鉄の擦れる音が微かに聴こえてくる。ルミナとそのお付きであろう美女二人が俺のことを見上げている。昼間見た時とは圧がいくらか抜けている。流石にお腹が空いてきて、元気が失せいているのか。しかしその瞳に映る敵意は健在だった。


 三人はしばらく鉄格子のこちら側を見渡して、やがて俺の持つ鍋に注目する。三人のうちの誰かの腹が鳴った。


「……飯だ。腹が減っただろう」

「私が、あなたのような人の出したものを口にするとでも?」


 気丈にそう言ったのはルミナだった。そういえば、初めて声を聞いた。主人公と話す時も、彼女は人を寄せ付けないような強い意志をいつもその声に乗せていた。しかし今は、ゲームで聞いていたその声よりもずっと冷淡だ。


「そう言うな。わざわざ作ってやったんだ。お姫様の口に合うとは思わんが、まぁ多少はマシだろう。明日になればしばらく何も食えなくなるだろうからな。今のうちに入れれるものは入れておいたほうがいい。もたなくなるぞ」


「もたない……? そんなものを食べてまで生き永らえようとするほど、私は落ちぶれていないわ。こんなものさえなければ……いっそのこと」

「姫様……っ」


 両手を拘束している頑強な手錠を忌々しく見つめるルミナの言葉を、お付きの女一人が悲痛な声で遮った。ルミナの顔が屈辱に歪んだ。


「なるほど。それが王族の矜持というやつか。随分と立派なものだ……」


 しかし俺とて引き下がる気はない。この世界がエルストなら、明日ルミナが助かるのは確定事項だ。とはいえ、お付きの二人が無事である時点で、ゲームとは流れが若干ずれていることもまた事実であり、明日に予期せぬ事態が起こる可能性だって考えられる。


 そんな時にお腹が空いて動けない、なんてことにさせるわけにはいかない。だから俺はルミナの言葉など全く無視して、スープを椀によそっていく。


「俺はこれまでずっと独りで生きてきたが、掃いて捨てられても自分から命だけは投げ出さなかった。王族サマの大層なお考えは愚民には到底分からないが、こんなところで捨てられる命とは、随分と軽いものだな」


 そう言いながら、俺はスープの椀を鉄格子の間から中に入れた。


 こんな台詞がすらすらと言えたのは、ゲーム内で主人公が似たようなことをルミナにも言っていたからだ。まぁ、主人公の言葉はもっとかっこよくて感動的だったのだが。確か『君の命は君一人だけの物じゃない。君は君自身を軽んじるべきじゃない』だったか。とあるチャプターでルミナが自分を犠牲にして問題を解決しようとした時に主人公が言った台詞。


 それをハイセという人物に沿って変換してみたのだが、なんとも侮辱的に聞こえる。生まれ育った環境で、こうも変わってしまうものなのか。


 ルミナは少し放心したような瞳で少しの間こちらを見つめた後、鼻先をスープの香りに刺激されたか、やがてその視線をスープの方へと落とした。しかしルミナはもちろん、他の二人も動く気配はない。鎖につながれているとはいえ、出されたスープを取りに来ることくらいはできるはずだ。


 俺は湯気立つスープとルミナを交互に見てはたと気が付く。そうか。敵の俺が目の前にいては、食えるものも食えないか……


「……とりあえず今日は食って早く寝ろ。一応念のために言っておくが、毒とかの心配はいらない。これは俺が作ったものだからな。大事な商品を駄目にするようなことはしない。まぁ、せいぜい味わってくれ……俺は上に戻るから、こちらの目を気にすることもない」


 俺は立ち上がり、階段の方へ戻っていく。


 その時、微かではあるけれど、ルミナが鼻をすする音と涙の気配を感じた。


「ルミナの……涙」


 階段を上がりながらふと呟く。何か……引っ掛かりを感じる。ゲームをやっていた時と、現状に生じる違和感のようなもの。俺はほんの指先かすめたその糸を手繰り寄せるように、前世の記憶を呼び起こす。


 散々周回してきたエルストの物語。メインヒロインであるルミナは誰よりも強い心を持つキャラクターだった。どんなにくじけることがあっても、彼女は俯かず、涙を見せない。時にはその強さが、主人公の弱い部分を支えたこともあった。


 ルミナが涙を流すシーンはとても少ない。はっきりと描写されているのは主人公と結ばれ、ハッピーエンドを迎えたその時を除けばたった一つだけ。それはこの【王女誘拐】クエストの牢獄内で絶望に打ちひしがれたという場面。


 しかしゲームではこの牢獄内で涙を流したという事実は序盤には明かされず、もっと終盤での回想シーンとして判明する。それは、終盤のステージボスとなる【王女誘拐】を裏で手引きした王国の公爵家当主と戦う前のイベントシーンだ。


『――やはり実に姫様の力は厄介だ。正直私はあなたを見くびっておりました。こんなことになるなら中途半端に遠ざけるのではなく、あの日牢の中で無様に泣いているあの時に殺しておくべきでしたね』


 そのシーンでボスである公爵家の当主――ゼノン・エル・スペンデルドがそう言った。その後に、獄中で涙を流すルミナのグラフィックが挿し込まれる。


 ゲームをプレイしていた時は、ただ単に回想シーンだと受け取っていたものの、今になってそのシーンに引っ掛かりを感じる。

 そもそもどうして公爵は、牢の中でルミナが泣いたことを知っていたのだろう。ルドムとハイセが率いる盗賊団は主人公によって壊滅している。もしかしたら騎士団に捕らえられ、その捕らえられた誰かから聞いた、ということなのか。


 わざわざ牢獄内でのルミナの様子を訊ねるものだろうか? 一体、何のために?


 それに回想シーンで使われたグラフィックも、よくよく思い出してみるとおかしな構図だった。涙するルミナをアップにした構図ではなく、彼女の前には鉄格子も描かれており、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を描いたようだった。


「まさか、ゼノンがここにいるわけはないし……」


 ただのゲーム上での表現で、そこに因果はなくただの思い過ごしかもしれないというのは重々承知している。ただ、もしもそこに何か意図があって、この世界にもそれが反映されているのだとしたら――


「もしかしたら、スペンデルド公爵家の間者が盗賊団にいる?」


 これはあくまでも可能性であり、仮説……思い付きのようなものだ。


 しかし考えてみると案外あるかもしれない設定だ。ゼノンにとってルミナは目の上のたんこぶ。必ず王都から離しておきたい人物の一人で、今回の【王女誘拐】は彼にとって重要度の高いものだったはずだ。だとしたら、そんな重要な任務をそこそこ名は知れているとはいえ、ハイセとその盗賊団に全てを委ねるだろうか。


 万が一にも公爵家の仕業であることが露見するわけにはいかないとはいえ、せめて状況を時折知らせるくらいの間者はいてもなんらおかしくない。


「……だとしたら、どうにかなるかも」


 もし公爵家の間者がいて、それを突き止められたなら、あるいは現状の流れを大きく変えられるかもしれない――


 天啓が降りた俺は、さっそく階段を駆け上がってルドムのいる場所へと向かった。あいつなら団員のことも分かるはずだ。


 ルドムはほどなくして見つかった。流石に明日に重要な仕事を控えているために泥酔はしていない様子だったけれど、かなり機嫌よく酒を飲んでいた。


「おう、どうしたよハイセの旦那? やっぱり飲む気になったのか? ただ残念だがもうねェぜ!!がはははッ」


「違う。ルドムに聞きたいことがあってな」

「聞きたいことォ?」


 酒クサッ!

 わざとらしく大きく息を吐いてくるルドムから咄嗟に顔を逸らしそうになるのをこらえながら、俺は続ける。


「この仕事をする前に入った新人は何人くらいいる?」


 早くもこの空間から脱したい俺は、単刀直入に聞いた。


「新人ン? 知らねー。覚えてねェー」


 こいつ、酔っ払ってるのをいいことに適当に答えてんな。一回ぶん殴ったろうかコイツ。


「……なら、今夜の地下の見張りは誰にやらせるんだ?」

「見張りなんぞ、適当に誰かにやらしゃーいーだろうがよ」

「はぁ……話にならんな」


 俺は早々にルドムに問いかけるのを諦める。そして次に視線を向けたのはルドムと一緒に隣で飲んでいた団員の一人。おそらく古株の団員だろう。そこまで深く酔っている気配はない。


「お前は、今夜の見張りについて知っているか?」

「今夜はみんな酒がはいってまさぁ。誰も面倒な見張りなんてやりたくないってんで、下の奴らは賭け勝負で決めてたようですぜ……っと、そういえば一人見張りに名乗り上げてたやつがいたような」


「……そいつはどんなやつだ?」


 俺は手ごたえの気配に跳ね上がる感情を抑えながら続けて訊ねる。これは……当たりなのかもしれない。


「さぁ、顔はどんなんだったでしょうかねぇ……多分新人だったと思いますが」

「そうか。分かった。聞きたいことはそれだけだ……あんまり飲ませすぎるなよ」


 俺は目でルドムを指しながらその団員に忠告した。


「へへ……分かってますって。俺達も慣れてるんで、明日の仕事には影響しませんよ」

「それならいいが……俺はもう休ませてもらう」


 聞きたいことは聞けた俺は早々に席を立ってルドム達から離れて、自分の部屋へと戻っていく。すっかり酒の匂いが染みついてしまった服を脱いでしまいたかったけれど、替えの服なんてこの場に持ってきていない。アジト内には団員の来ている粗雑な服もあるにはあるけれど、流石にそれを着る気にもなれず、俺はそのままの恰好へ部屋で一人座り込む。


「さて、やるか……"宵"」


 体内の魔力を練り上げ、自分の影を実体化させる。今夜はこいつを使って張り込みだ。


「張り込みといえばあんパンだよなぁ……まぁ、あるわけないんだけど」


 ふと連想したせいで、急に前世での食事が恋しくなってきた。先ほどのスープも前世の食事と比べれば遥かに味気なく、濃い味のファストフードが脳裏を過って涎が出そうになる。


 ……っと、いかんいかん。今は張り込みの方に集中しなければ。


 確信があるわけではないけれど、【王女誘拐】の前に入った新人であり、自らルミナのいる牢の見張り役に買って出た人物――もしも盗賊団に公爵家の手の者がいるのだとしたら、きっとその人物こそがそうだ。見張り役をするのは、おそらく連れ去ったルミナが本人かどうかの確認だろう。


 この盗賊団でルミナの姿をはっきり見たのは俺とルドムと数人の団員だけだ。というのも、このアジトに運んでくるまで、ルミナや他の二人の顔は麻袋で隠されていたからだ。団員の全員が全員彼女の顔は確認できていないはず。


 まずは公爵家から派遣されたその人物を見つける。そのための張り込みだ。


 影魔法"宵"は本当に色々なことができる。たとえば"宵"は影の中に潜み、移動することが可能だ。アジト内は灯りが多くないために暗い個所が多い。そこを伝っていけば"宵"は誰にも悟られずに地下の牢の部屋までいけるだろう。


 それに離れた"宵"視界の共有もできる。条件として俺自身の視界も塞ぐ必要があるのだけれど、片目だけを塞げば両方の視界が得られる。この二つの能力を使えば、部屋にいながら地下の牢の様子も見ることができるだろう。ハイセというキャラクターも、この力を使って様々な場面で情報を収集していた。


 俺は片目を手で覆い"宵"を地下に向かわせる。騒がしさもそろそろ落ち着いてきて、明日の仕事に備えて団員は自分の寝床に着くか、酒を飲んだ勢いのままその場に倒れている。ルドムもあのあと部屋に戻ったのか、道中で見かけることはなかった。


 地下に向かう通路の前まで来ると、ちょうど二人の見張り役であろう団員が階段を降りていくところだった。俺は万が一にも悟られぬように、慎重に後を追って地下に向かった。


「……よし、ここからは耐久戦だな」


 牢と見張り役の団員の様子がよく見えるポジションに"宵"を配置し、監視態勢に入る。騒いでいる間は見張りなんてつけないいい加減さだったけれど、流石に団員が眠っている時間には二人の交代制で見張っている。ルドムからわざわざ命令されずともそうしている様子から、普段もそれくらいの警戒はしているらしい。


 最初の二人はどうも中堅どころの団員のようで、少し酔っているせいか顔は紅潮していた。おそらくこの二人ではないだろう。とはいえ、今のところ見張り役の団員は全員が容疑者ではあるため監視は続行。次の交代までは3時間ほど先になる。


 なんとか朝になるまでには見つけたいところだけれど……


「っと、時間は有効活用しないとな」


 交代役が来るまでにはまだ時間がある。見張り役に怪しい動きはなく、牢に閉じ込められているルミナ達も今は大人しくしている。暗がりの中にいるために起きているか寝ているかは少し分からないけれど、とにかく無事であることは確かだ。


 明日はハイセにとって生き残るか破滅かの重要な分岐点。俺も明日を乗り越えるために今から出来ること、考えられることは全うしなければならない。そのために俺は今日、各所で少しでも使えそうだなと感じたものをくすねてきた。


 使う場面が来るかどうかも分からないけれど、俺はとにかく手を動かした。転生してきて早々に訪れようとしている破滅の未来。それを思うと心が落ち着かない。今はとにかく何かをして、思考を埋めたかった。


 ハイセの中にある知識も総動員し、俺はルミナ達に出すスープ作りをしている間に見つけて採取しておいたいくつかの薬草の加工を行う。もしどうにもならなくなって逃げようって時に役に立つかもしれないと思ったのだ。睡眠効果に麻痺効果……効力はそこまで強くないけれど、武器に塗れば追われた時に少しでも隙を作れるかもしれない。


 俺は現状、ハイセが破滅する未来を回避するのに必要なことは大きく二つあると思っている。


 一つは主人公と接敵しないこと。これはゲームストーリーから考えれば、明らかに回避しなければならないことだ。ハイセにとって主人公は破滅フラグそのもの。戦闘になんかになればハイセの未来はそこで終わり。逆に言えば主人公との接敵さえどうにかすることができれば、明日を乗り越えられる可能性はぐっと上がる。


 そしてもう一つは、出来ればルミナ達に取り入ることだ。ハイセは【王女誘拐】というとんでもない大罪を犯してしまった。たとえ明日を生き延びたとしても俺の死亡フラグが消えるわけじゃない。国際的な指名手配犯として一生追われる恐怖を味わうことになる。


 国外逃亡はできるだけしたくなかった。前世で得たゲーム知識を持っている俺にとって、エルストの主な舞台となるこの国からの脱出は、自ら大きなアドバンテージを捨て、全く未知の危険に身を投じることであるからだ。


 前者はともかく、後者についてはどれだけ考えても光明なんてものは見えず絶望的だった。しかしそこに裏切り者である公爵家の手の者がこの盗賊団にいるかもしれないという可能性が出てきた。もしも事が想像通りに進めば、或いは取り入ることもできるかもしれない。


 まぁ、もっともそれは誘拐犯が詐欺師になるようなものだけれど、バレなければハイセの犯行がまるまる消えることになる。それは今の俺にとって、とんでもない奇跡だ。


 そして俺は、そんな極細の奇跡の糸をついに掴む――


「……来た」


 すっかり時間は過ぎて、見張り役の交代の時間。酔っ払ってほとんど意識を手放しかけている団員と交代しにきたのは、同じく酔っぱらっている中年の団員と、そしてもう一人は酔っている様子のない若い団員だった。


 こいつがわざわざ見張り役なんて面倒な業務に立候補した新人。


 俺は"宵"に意識を集中させる。本体の俺が無防備になるほど神経を研ぎ澄ませば、視界だけではなく音も拾うことができる。


「――おぅ、そんじゃまぁ、あとはよろしくな」

「はい。わかりました」


 軽く引き継ぎの会話を済ませた後、前の見張り役はふらつく足取りで地下を出ていく。その後見張り役用に置いてある椅子に二人は向かい合って座り、酔っ払っている方の中年男は腰を下ろすや否や、二つの椅子の間にあるボロ木のテーブルに突っ伏した。


「オイ、新人。しっかり見張っとけよ。俺様は昼間に働いて疲れてんだ」

「え、あの……はい」


 顔をうつぶせたままの中年男の有無を言わさぬ命令に、新人は弱々しく返事をするのみだった。そんなやり取りに怪しい部分はなく、脳裏には落胆が過った。


 ほどなくして突っ伏した中年男からいびきが聞こえ始めた。どうやら初めから面倒な仕事を新人に押し付けるつもりだったみたいだ。新人は黙ったまま、中年男の方を見つめている。


 やっぱりただの勘違いだったのだろうか。この切羽詰まった余裕のない状況で、ありもしない妄想にとり憑かれてしまっただけ――


「……あの、寝てますか?」


 ふと新人の男が寝ている中年男にそう声を掛けた。もちろん返事は威勢の良いいびきだけ。間違いなく中年男は眠っている。新人はその後も数回ほど、中年男に声を掛け、そしておもむろに立ち上がる。


 思わず息を呑んだ。新人が向かったのは牢の手前、覗き込むように鉄格子に顔を近づけさせ、


「"ライト"」


 そう、魔法の呪文を唱えた。それは魔法の中でも基礎中の基礎である魔法"ライト"。光の玉を出現させて、周囲を照らすという魔法だった。何のために――そんなことは考えるまでもない。中にいるルミナ達の姿を確認するためだ。


「――ルミナ殿下」


 そして新人の口から漏れだしたその言葉で、俺は確信に至る。ルミナの顔を確認したこともそうだが、彼女を見てルミナだとその名を口にした時点で、この新人が王家に関わりのある人物であることは確定した。


 本当にいた。公爵家の回し者が。


 興奮か緊張か。額に汗が滲み、心臓の鼓動が大きく脈打ち始める。


 新人はルミナの名前を告げた後は何も言わず、魔法を止めて再び椅子に座り直した。


「……まだ、起きてないですよね?」

「ぐがー」


 そしてまたもや中年男の意識の有無を確認した新人は、次に懐から小さな紙とペン、小さなインク壺を取り出し、何やら書き始めた。何を書いているまでは見えない。これ以上近づけば気配を気取られる可能性がある。しかし直感的にそれこそがこの人物が裏切りの公爵家の者だという動かぬ物証であると察した。


 程なくして何事かを書き終えた男は、小さな紙に書かれた内容を数回確認するとふいに立ち上がる。あろうことか今度はルミナのいる牢ではなく、むしろその逆である地上に上がるための階段の方へと歩き出した。寝ている団員を起こさないように、足音も立てず、気配も極限まで殺して。がさつな盗賊団の一員とは思えない程、洗練された静寂を纏わせた所作。


 突然地下室から出ようとするその行動に一瞬呆けてしまったけれど、俺はすぐに"宵"で後を追った。ハイセとしての経験が、新入りの盗賊団であるはずの男に警鐘を鳴らしている。明らかに只者ではない気配があった。


 そして俺は"宵"に後をつけさせながら、自分も動き出す。有事の際には取り押さえなければならない。この機会は絶対に逃してはダメなのだ。酒気を感じる空気を静かに吸い込み、吐き出した。


 その男が向かったのはアジトの外だった。"宵"に先行させつつ、尾行にしては相当な距離をあけてすぐに俺も外へと出た。男はしばらく森の茂みの中をまっすぐと突き進み、ほんの僅かに開けた場所で立ち止まった。


「この辺りなら大丈夫か……」


 "宵"に預けていた聴覚が、そんな男の独り言を拾う。次の瞬間、男は指笛を吹いた。ピーッという鋭い高温が森を突き抜けて空に響く。すると間もなくして上空から翼のはためく音が聴こえてくる。そして男の肩腕に、一匹の立派な猛禽類らしき鳥がその足をついた。――それが伝書鳥であることはすぐに気が付いた。


 先ほど地下室で書いた紙を運ばせる気だろう。あの紙に書かれている内容は、きっと公爵家の裏切りを証明する。俺の置かれた絶望的なこの状況をひっくり返すことだってできるはずだ。今ここで見逃すわけにはいかない――俺は咄嗟に動き出していた。


「おいっ! お前、何をしている!!」


 俺は男に近づきそう声をあげた。驚愕に目を見開いた男の顔が勢いよくこちらを向いた。


「ハイ――」


 言いかけたのはハイセの名前だろう。しかし男がそれを最後まで口にすることはなかった。本体の俺が気を引いた隙に背後に移動させていた"宵"が男を殴打して気絶させたからだ。


「……上手く、いったか」


 男の腕につかまっていた鳥は男が倒れた時に飛んでどこかにいってしまった。倒れた男は動く気配はない。ちゃんと気絶している。とりあえず今すぐに目を覚める心配はない。


 俺は男の容態を確認するのをほどほどに切り上げて、辺りを見渡した。鳥はどこかへ飛んで行ってしまったけれど、まだ()()()()()前だったからこの辺りに落ちているだず――


 ここでもハイセの夜目は活躍し、すぐに俺はそれを見つけた。小さな革製の筒。中には先程男が何かを書いていた紙が丸めて入れられていた。俺は慎重にその紙を取り出して、その内容に目を通した。書かれているのは文字ではなく、点字のような暗号になっており内容は分からない。


「これが証拠になるのか……?」


 考えても答えは分からない。それでも見る者が見れば、何かしらの証拠にはなるはずだ。たとえ決定的なものにはならないとしても。


 とはいえ問題はこれだけでルミナに取り入ることができるのか否か――


 念のために倒れた男の身ぐるみを剥いでみたけれど、これといって証拠となるようなものは出てこなかった。いっそのこと叩き起こして尋問してみようか……いや、どれくらいの手合いか分からなかったこともあって、かなり強く殴打してしまった。朝までに目覚めるかどうかもわからない。それでは遅い。


「明日のこと考え直す必要があるな……くそ」


 やはりそう都合よくはいかない。俺はとりあえず男を人目のつかない場所まで運んで拘束し、明日の移送任務には出られないようにした。


 そしてアジトに戻る途中、俺は戦利品である小さな筒を握りしめて溜息をついた。あまりにも頼りない物証だ。明日、こんな小さな筒と紙きれに自分の命運ものせないといけないと思うと、もはや色々と通り過ぎてしまったのか呆れて乾いた笑い声まで出てしまう始末。


 それはきっとまだ俺が今この状況を実感できていないせいでもあるかもしれない。ハイセに転生してたった一日。まだ俺はハイセとしてではなく、それを外側から見ているプレイヤー視点の気でいるのかもしれない。


 それでも、明日は絶対に生き残ってみせる。なんとしてでも――たとえ、運命(ストーリー)を捻じ曲げてでも。



§§2日目§§


「――移送ルートを二つに分ける、だァ? オイオイ旦那、そりゃ一体どういうことだよ。向こうからの指示を無視すンのか」


 早朝、下っ端の団員達がルミナの移送準備に取り掛かる中、部屋で準備が終わるまでふんぞり返っているルドムに、俺は"移送ルートを2つに分けて行う"ことを提案した。


「……移送対象が王女だからな。こちらとしても何かしらの手を打っておくべきだと判断した」


 俺はもっともらしい言葉をルドムに返す。確かにこいつの言う通り、移送ルートについては依頼主から予め指定がされていた。ルドムの俺を見る目に警戒の色が宿っている。依頼の意向を無視した提案を突然したものだから怪しんでいるのだろう。


「どういうことだ?」


 懐疑的な表情のまま、ルドムは品定めをするような視線を俺に向ける。表情こそ崩れなかったものの、背中に冷汗の嫌な感触があった。


「今思い返すと、この依頼には色々ときな臭い部分があった。何より俺達が攫ったのは、そこいらの弱小貴族じゃない。この国の王族だぞ?」


「王族サマだから何だってンだよ」


「……攫ってからここまで上手くいき過ぎている。王族ならもっと厳重に守られていてもいいはずだ。それなのに俺達の誘拐は何の問題もなく成功した。依頼主がどのような立場の人間かは知らんが……何か思惑が働いているような気がする。たとえば、王国側があえて俺達を泳がせ、この誘拐の黒幕をおびき出させようとしている……とか」


「そりゃァつまり……あの王女サマは囮だってワケかァ? ハハッ 王サマは自分の娘にそんなことまでさせンのかよ! なんて外道だッ 傑作だなオイ!」


 外道代表みたいなヤツがよく言うよ……


「あくまで可能性の話だがな。だがもしそうだとしたら、俺達はただの餌。言われた通りだけではまんまと破滅させられるだけだ。だからこそ、俺達は俺達で手を打つ必要がある」


「それがルートを二つに分ける、と……一つは囮っつーことか?」


「ただの囮じゃない。依頼で指定されたルートにはあの二人を使う」


「はァッ!? オイ、あのガキの連れ二人は外の国に売っぱらうんじゃなかったのかよ! 昨日とは話が違ェじゃねェか旦那!」


 ルドムの眉間には不服な皴が寄り、角ばったこめかみには血管が浮かび上がっている。そりゃ気に入らないだろう。昨日は半ば無理やりに我慢を強いておきながら、今更それを無駄にするような提案なのだから。


 しかし俺とて退けない――


「あくまでも優先すべきは俺達が安全に仕事を遂行することだ。その上でまだ俺達の手にあるなら捌けばいい。王族が絡んでいるんだ。慎重に、リスクは避けて成功の確率を少しでも上げる……分かるだろう」


 俺は冷静に理由を口にした。ルドムとてこんなハメられたような仕事でしょっぴかれたくはないはず。頭の中も筋肉で出来ているようなダルマだでもそれは理解できるだろう。


 もちろん俺は初めからルミナの移送を成功させるつもりは毛頭ない。この提案はあくまでも俺が正規の移送ルートから外れ、主人公と鉢合わせないようにするためだ。


「俺は旦那みてェにひよっちゃいねェ」


「……なら、この提案を断るのか?」


「フン……まァ、このまま言いなりってのは確かに気にくわねェな」


 一瞬、安堵した気持ちが表情に出かかったけれど、刺すようなルドムの視線に慌てて顔を引き締めた。言いなりが気にくわないというのは、どうやら俺のこともらしい。


 ルドムという男は仮にも盗賊団を率いるリーダーで、そして俺は今回限りの協力者で外部の人間。しかも見た目は小柄なハーフエルフの少年なのだ。ハイセの実年齢はともかく、見た目だけは若造の俺に方針を好き勝手に決められては、ルドムとしては面目丸潰れといった感じだろう。


「こんなところで言い争う気はない。拒否するなら俺はこの件を降りるぞ。リスクがはっきりとしているようなこの状況で王家が絡んだこの案件を続けるなんて御免だからな」


 俺は強く睨み返しながら言った。さっさと逃げてしまうというのもまた一つの手だ。ルミナは結局主人公に助けられるだろうし、その後指名手配されたとしても、今から逃走すればひとまず身の安全は確保できる。


 俺とルドムの視線が交差する。前世の俺だったら、凶悪面のルドムに睨まれるなんて、速攻失禁していただろうな……


 ハイセはこんな小柄な身体なのにとても肝が据わっている。そうでなければ生きていけないような人生だった。そして前世の俺という魂が入ったこの状態でもその精神は引き継がれているらしく、俺はルドムを前にしてもひるむことなく強い視線をぶつけることができた。


「……っチ。わァーった、わァーった! 旦那の話に乗ってやるよ。俺も捕まりたくはねェからな……ただし、あのガキの方の御者は俺がやる」


「……わかった。それでいこう」


 商品(ルミナ)の主導権を完全に俺に渡さないようにするための条件か。有無を言わさぬ圧の言葉に、俺はその条件を呑まざるを得なかった。少し予想外だったけれど、仕方がない。


 とはいえ、これで俺の考える"破滅フラグをへし折ろう大作戦"の条件は整った――


 ルドムとの話し合いの結果、急遽作戦の変更に準備していた団員達は少し困惑しながらも俺達の指示に従った。はっきりとした作戦内容までは告げず、ただ2ルートに分けることだけを命令し、ルドムは宣言通りルミナを運ぶ馬車の御者を、俺はその中で数名の団員と共に警護と見張りをすることとなった。


 ルミナのお付きである二人は依頼で頼まれたルートで受け渡し地点に向かい、ルミナのいる馬車は少数の護衛だけをつけて正規ルートを迂回、街道ではなく森を抜けて受け渡し地点を目指す。団員達の中には正規ルートの方が囮であることに感付いた者もいたけれど、ルドムが一喝したこともあって大人しく従ってくれた。


 馬車にルミナ達を入れる時は一波乱を予感したけれど、三人は思いのほか大人しく行動した。まぁ、屈強な男だらけの盗賊団を前に必要以上に反抗的になればどうなるかくらいは分かっているのだろう。


「おーしッ! てめェら、こっからが本番だ。このヤマは思った以上にでけェみたいだ! 油断すんじゃねェーぞッ 気ィ引き締めていけ!」


 最後に俺が馬車に乗り込むと、ルドムが拳を大きく突き上げて声をあげた。それに応える団員達の声が轟音となって馬車を揺らし――王女移送作戦が開始した。


 ルミナは現在馬車の中で移送用の檻に入れ、布をかけている状況だ。荷台には俺の他に二人の団員が乗っている。ルドムの荒々しい御者具合には辟易としたものだけれど、道中は幸いにも順調で特に問題はなく、馬車は森の中へと突入した。


 俺は頃合いを見計らい、持ち込んできた革製の水筒を開ける。


「……っち、なんだこれ」


「どうかしたんですかい? ハイセさん」


 水筒の口に花を近づけてしかめ面を浮かべる俺に、団員の一人が声をかけてきた。


「この水筒、酒が入ってやがる。水を入れていたはずなんだが……誰かのと取り違えたか」


「そんな不届き者がいたんですか。こんな重要な任務の時に、酒を隠し持ってくるなんてさぁ」


 そんな言葉とは裏腹に、その団員は物欲しそうなにやけ面を浮かべている。


「くそ……おい、お前水は持ってるか?」

「そりゃぁもちろん、持っていますよ。ただ……」


「……任務中だ。支障がでるほど飲むなよ」


 酒入水筒をじっと見つめる団員の、水をもらう条件を察した俺はため息交じりで忠告しながらその団員に酒入水筒を渡した。


「へへ、大丈夫でさぁ。これくらいじゃ酔わないですよ」

「お、オイッ、俺にも少しくれよ!」


「あぁん? 仕方がねぇーな。少しだけだぞ?」


 ここでもう一人の団員も酒に食いつき、俺は自身の作戦が成功したことを確信する。そう、この酒は団員の誰かが持ち込んだものではなく、俺が用意したものだ。昨日の内にこっそりと僅かな酒を回収し、同じく昨日作っておいた手製の睡眠薬を混ぜ込んである。


 これからルミナと話をつけるためには、この二人は邪魔だ。睡眠薬を確実に飲ませるために、水筒の中身は酒にして、わざわざ一芝居までうった。荒んだ盗賊にとって、酒は心の浄化剤。思った通り、酒の匂いを嗅ぐや否や二人は表情に喜色を浮かべながらそれを口にした。


 睡眠薬も急ごしらえで作ったもので、速攻眠りにつくというものではなかったけれど、酒のほろ酔いも合わさってか、しばらくした後に団員二人は眠った。御者をしているルドムはまだ中の状況には気付かついてはいない。ここからは時間との勝負になる。


「――それでは始めましょうか、殿下」


 俺は檻に被さった布を取り払いながら言った。中にいたルミナは困惑の表情をこちらに向けている。俺は懐から檻と手錠の鍵束を取り出す。金属としての光沢のない漆黒のそれはルドムが持っているであろう本物の鍵ではなく、ハイセの魔法で物質化させた鍵束の影である。影魔法"宵"の応用である"(うつつ)"だ。


 自分以外の物の影を実体化させてしまえる魔法。昨日のうちにルドムの目を盗んで鍵の影を抜き取っておいたのだ。"現"の条件として影を抜き取った対象に影が現れなくなるというものがあるけれど、鍵の影なんてルドムは気にしていないようだった。


 まぁ、"現"の存在はハイセの中ではかなりシークレットな魔法である。ルドムの認識としても、分身を出せるくらいにしか思っていない。まさか自分以外の影も実体化できるとは想像もしていないだろう。


「昨日は殿下の御前での大変なるご無礼、申し訳ございません」


 俺は檻とルミナを拘束している手錠を解錠し、頭を垂れる。ハイセは貧民街で過ごしてきた故に貴族相手に対する振る舞いなどは知識として持っていない。前世の俺としての知識をを稼働させてそれっぽく振る舞っているだけだ。


 ルミナは顔を上げた俺の顔を目を瞬かせて見ている。未だ状況を呑み込めていないのか、それとも俺の振る舞いがあまりにも相応しくなかったのか――とにかくあまり時間はない。俺は一つ咳払いをして、気持ちと思考を整える。


「これは一体……あなたは何なの?」


「お――私は、王国のとある御方に仕えており、此度の件では訳あって敵方の組織に潜入しておりました。昨日は団員の手前でした故、致し方がなく……」


「それは……まぁいいわ。そんなことよりも、一体何がどうなっているのかしら。あなたが本当に私の味方であるなら、説明してくれるかしら」


 ルミナもだんだんと状況を呑み込み、冷静さを取り戻したようだ。その態度はゲームでずっと見て聞いてきたルミナそのものになっている。


「これよりこの場を脱出しますのであまり時間はありません。とはいえ、私を信用していただくために必要であるなら、最低限の説明はさせていただきます」


「分かったわ。それでいい」


 ルミナも今が急を要する事態であることは理解しているようで、俺の言葉にすんなりと首肯を返してくれた。俺は口の中の渇きに耐えつつ、一拍間を置いて再び口を開いた――これから話すことは彼女にとっては信じられない未来とただの嘘であり、俺はそれをルミナに悟られてはならない。


「此度の王女殿下の誘拐の件には、スペンデルド公爵家が関わっていると思われます」


 俺が公爵家の名前を出すと、ルミナはあからさまに怪訝そうな表情を浮かべた。確かに王族であるルミナからしてみれば、表向きはとても忠義的なスペンデルド公爵家の名前をこのような場で出すなんて失笑レベルのものだ。


 ルミナの視線がどんどんと冷たくなっているのが分かった。きっと俺が気でも狂った者か、無知な愚者とでも判断したのだろう。それでも形だけ聞く耳を持ってくれているのは、今の状況で彼女が脱出するには俺を利用する他にないからだ。


 王女とはいえ、子供ながらにして常軌を逸した肝の据わり方である。まぁ、それこそルミナではあるけれど。


「……関わっている、というのはどのように?」


「はい。まさにこの誘拐事件の裏側で糸を引いている人物こそが、スペンデルド公爵家なのです」


 俺は冷ややかなルミナの視線は無視しながらそう言った。今重要なのはスペンデルド公爵家の裏切りを完全に証明することではなく、その可能性を僅かにでも感じさせて、今のハイセの行動を信じてもらうことこそ肝心だ。


「そんなっ! ……あっ」


 スペンデルド公爵家の裏切りを断定した途端、一瞬だけルミナの声が跳ね上がった。慌ててすぐにルミナは口を噤んでくれたものの、俺はその一瞬でどばっと冷汗が噴出した。すぐに眠っている二人の方を確認する。二人に変わった様子はない。馬車の速度も特に変わりなく、御者のルドムが気が付いている様子もない。


 よかった。おそらくまだこの状況には気付かれていない。


 俺はほっと安堵の溜息を吐いた。


「……お前、自分が何を言っているのか分かっているのっ? スペンデルド公爵家が盗賊風情と手を組んでいるなんてあるわけないじゃない。そもそも、あなたの使える御方っていうのは誰よ!」


 今度は周囲に気付かれないように声を潜めているものの語気は相変わらず強いままだ。やはり王家として忠義を尽くしている公爵家への信頼は厚いということか。盗賊風情の言葉などにそう簡単に靡いてはくれない。


「申し訳ありませんが、我が主の名を明かすことはできません。主はそれを望んでおられませんので」


「なによそれ……そんなので、私にあなたを信じろと?」


「……私の目的は、殿下を救い出すことと、スペンデルド公爵家の裏切りの証拠を回収すること。これが、その証拠となります」


 昨晩手に入れた暗号文の書かれた紙が証拠として認められるかどうかは五分五分。 ただ、もしもこれまでも突っ張り返されたら、俺はルミナを気絶させて運ぶつもりだ。確実に取り入るためにも会話する機会を設けたけれど、もちろん優先事項はここからの脱出だ。


「これは……確かに、似たような暗号を見たことはあるわ。けれどこれだけでは……」


「今はそれで十分でございます。この暗号文は私と同じように盗賊団に紛れていた者が昨晩、殿下の様子を確認した後に書いたものでございます。私には暗号を解読することができませんが、しかるべき者に確認させれば、スペンデルド公爵家の裏切りも明白になるはずです……これは殿下がお持ちになってください。ひとまずはここから脱出することを考えましょう」


「……分かったわ」


 ルミナは逡巡の後、重い首をようやく縦に振った。俺は今すぐに緊張で力んだものを脱力したい気分になる。とりあえず今はこれでいい。むしろ最良の結果ともいえる。


 今回、ルミナとお付きの二人を別々にしたのには、囮という口実で主人公と遭遇しないためという理由の他に、ルミナをより説得しやすくするためでもあった。王族で、こんな状況であっても努めて冷静であるルミナであっても、彼女はまだ幼い。


 隣に大人がいればきっと流れに身を任せることなく、その意見に耳を傾けるだろう。そうなっては無駄に時間を浪費してしまうことになる。


「でも、一つだけ確認しておかなければならないことがあるわ。私と一緒に捕まってしまった二人……あの二人は無事なの?」


 ちょうどルミナと一緒に捕まった二人のことを考えていると、ルミナがきつく睨みつけながら二人の無事を訊ねてきた。むしろ自分の身よりもお付きの二人の方が心配しているようだ。流石はエルストのメインヒロインを張っているだけのことはある。


「はい、二人は無事です。今は別の馬車で街道を通っておりますが、そちらには時機に強力な戦士が向かっておりますので」


「強力な、戦士……? 騎士ではないの?」


「はい。とても勇気ある戦士でございます」


 しかも将来この世界を救い、あなたと結ばれることにもなるであろう人物だ。


 ルミナは釈然としない表情だったけれど、今はそれでいい。


「――とにかくあの二人も無事救出されます。ですので、私達も早いところ脱出して合流しましょう」


「……本当にここから逃げることなんてできるの? もう随分と森の中を進んでいるようだけれど」


「大丈夫です。しかしこの馬車を出る際に、出来るだけ相手を混乱させたいと考えております。殿下は"フラッシュ"も魔法をお使いになることはできるでしょうか?」


 "フラッシュ"は光属性の魔法の一つで、ゲームではスタン効果のある目くらましの技だった。そして序盤のルミナにとっては相手を足止めするための唯一の魔法であり、ゲームでは大変お世話になった魔法でもある。


「使うことは……できるわ。でも、私は魔法は苦手なのよ」


 ルミナは聖女として覚醒すると一気に強くなる典型的な大器晩成型のキャラクターだ。序盤から中盤の方では彼女自身、ゲーム内でも自身の力のなさにコンプレックスを抱いているシーンが描かれている。


「いえ、それでも十分です。では私の合図で前方に"フラッシュ"を使っていただけますか?」


「わ、分かったわ……」


 ルミナは胸の前で小さな拳を作り、その表情を強張らせている。大丈夫だろうか――なんて心配している余裕は俺にはなかった。目的はこの場から逃げるだけとはいえ、無論ルドム達が大人しく逃がしてくれるとも思えない。


 逃げている間も身を隠せるようにルートは出来るだけ深い森の中を指定したものの、ルミナを抱えて森の中を走り、主人公たちがいるであろう地点まで送り届けるのはかなり困難だ。最悪ルドム達との戦闘になるかもしれない。正規ルートと人数が分散しているとはいえ、それでも多勢に無勢には変わりない。極力それだけは避けたい。


「それでは、いきます!」


 俺は木の扉で閉ざされた荷台の後ろの搬入口を勢いよく蹴り飛ばした。前方には追従してきていた二台の馬車。その御者役の団員のぎょっとした表情が鮮明に見えた。


「――今!」


「"フラッシュ"!!」


 俺の合図と同時に、隣にいたルミナが光魔法"フラッシュ"を発動した。ルミナの手のひらから放たれる光の球体が拡散し、辺りを強烈な白い光が周囲一帯を埋め尽くした。正面にいた団員の短い叫び声が聞こえ、俺はすかさず"宵"を出現させて、ルミナを抱き上げた。同時に魔力を足に集中させて筋力を一時的に増加させる。


「きゃっ!」

「失礼します!」


 突然のことでルミナは僅かに抵抗を見せるものの、俺は構わず馬車から跳び上がり、後続の荷台の上、そして木に飛び移る。その際、投擲用のナイフをルドムが手綱を握る馬の側に投擲する。


「ごめんっ」


 ナイフは馬の頬を掠め、後続のフラッシュによる混乱も合わさって、先頭の馬も激しく暴れ始めた。これですぐには追跡に転じることはできないはずだ。


 馬車から離れていく際、先頭の馬車に乗るルドムの怒号が聞こえてくる。何を言っているかまでは聞き取れなかったけれど、相当お怒りのようだ。俺は振り返ることなく全力で馬車から離れていく。


 あらかじめどのようなルートを取るかは決めていたものの、ずっと窓もない馬車の中にいたせいか、この深い森の中では自分達の現在地が把握できない。それでも俺はなんとなく森の抜けるために向かう方角が分かった。ハーフとはいえ、森の種族であるエルフの血が混ざっているせいだろうか。


 とにかく俺はそのエルフとしての勘を頼りに走り続けた。とにかく少しでもルドム達との距離をあけるために。


 しかし魔法を扱え、魔力で身体強化もできるハイセとはいえ、ずっと走り続けることなど無理な話で、スタミナは有限。俺はルドム達の気配がすっかり感じられなくなったタイミングで足を止めた。


「少しだけ、ここで休憩しましょう……」


 俺は"宵"が抱えたルミナを下ろし、周辺の警戒に向かわせる。休憩、とはいっいても魔法を解くわけにはいかない。主人公のところに届けるまでに魔力が持つだろうか……


「……あなた大丈夫なの?」


 腰を下ろし、肩を上下させて忙しく呼吸をしている俺にルミナが、少しだけ心配しているような気持ちを表情に浮かべて訊ねてくる。幸いにも息が上がっているだけで、今はまだ魔力もスタミナにも余裕がある。筋肉も疲労はしていない。息が整えばすぐに走り出せるレベルだ。


「全然、問題ありません……殿下の方こそ、姿勢など辛くないですか?」

「もう体のあちこちが痛いわよ。早くこの森を抜けてしまいたいわ」


 遠慮なく自身の気持ちを吐露してみせるルミナにはきっと、今の俺が強がっている風に見えているのであろう。その目線が俺のことを頼りない男だと告げているようだった。


「……また、すぐに移動を開始します。相手はきっと私達のことを追いかけてきていると思いますので」

「本当に、逃げられるのかしら」


 俯いたルミナの口から不安が零れ落ちた。そんなに頼りなく見えるのだろうか……こんなことなら、元のハイセのように顔を布で隠しておけばよかったか。そもそもハイセが黒い布で顔を覆い隠していたのは、エルフの血のせいで童顔な自分を晒したくなかったからでもあった。


 それでもルミナの不安は仕方がないものだ。向こうは馬を持っていて、こちらにはない。森の中で身を隠すには適しているとはいえ、彼女にとってこの森の中を抜け出せる未来は想像し難いものだろう。


 馬、か……


「――さて、そろそろ移動開始しましょう。また、失礼します」


 俺は一瞬思考に埋まりそうになったところではたと我に返り、立ち上がった。あまり長く休憩をとってもいられない。息は整ったから、またしばらく動くことができる。


「私、一人で移動くらいできるわ。ちゃんと日頃から運動してしているもの」


 それはぜいぜいと荒い呼吸をしていた俺を見ての提案だ。確かにゲームでもルミナは聖女というクラスでありながらレイピアなどの近接武器も扱えるファイターでもあった。潜在的な運動能力に疑いはない。しかし今はまだハイセのペースについてこれるほどのレベルではない。


「平地での走行と森での走行はまるで違います。慣れていなければ体力の消耗はとても激しく、それではペースが落ちてしまいます。申し訳ございませんが、引き続き殿下は私の魔法でお連れさせていただきます」


「……そう」


 ルミナは少し不服そうだったけれど、状況が状況なだけに我儘は言わず、俺の言葉を素直に聞いてくれた。


 それから俺とルミナは移動と休憩を繰り返す。馬無しで森を抜けるには相当な時間がかかるだろう。流石に日が落ちるまではかからないとは思うけれど。


「――ねぇ、昨日の……あの魚のスープは、もしかしてあなたが作ったの?」


 何度目かの休憩時、ふいにルミナがそんなことを訊ねてきた。


「えっと、はい。あの盗賊たちときたら残飯を放り投げようとしていたらしく、流石に殿下にそのようなものを口にさせるわけにはいかないと思い、僭越ながら私がその場で調達してきたもので作りました……あの、何故今そのようなことを?」


「別に、少し気になっただけよ」


「……もしかしてお口に合いませんでしたか?」


 今更なことだけれど思わず聞いてしまった。


 昨日作ったあのスープは本当にあの場にあった物でつくったあり合わせもあり合わせなものだ。自分でも食べてみたけれど、前世の料理と比べれば、正直かなり貧相な味わいだった。もかしたら王女であるルミナにとっては残飯と何も変わらなったのかもしれない。だとしたら俺の先程の言葉はかえってルミナの不興を買ってしまうものになりかねない。


 こんなところで嫌われてしまっては、回りくどくやっているこの逃走劇の意味もなくなってしまう。


「そういうことじゃないわ……その、おいしかったわよ。ただ、そのお礼をしていなかったなと思って。あ、ありがとう……」


 俺はフリーズした。僅かに頬を赤らめて感謝を口にするルミナの破壊力に。来ている服は平民風とはいえ、人形のように白い肌、服装なんかじゃ隠しきれない高貴で美しい金の髪。そして大きな瞳とふわりとした睫毛が特徴の愛らしい顔立ちからなる"デレ"は、全ての男性エルストプレイヤーを骨抜きにした魅惑の秘宝。


「えっと、そういえば私、あなたの名前も知らないわ」


 ルミナのデレた瞬間など、最速でルミナの好感度イベントをこなしても中盤以降だ。メインヒロインでありながら、ルミナは全ヒロインの中で最も攻略が難しい。


 それをまさかこんな序盤のイベントの、しかも盗賊側のハイセに見せるとは――ここはエルストの世界ではあってもゲームなんかじゃないと理解させられる。


 それにしても本物という言い方はおかしいけれど、実物のルミナのデレの破壊力はあまりにも凄まじく――


「ちょっと、聞いているの?」

「……はっ! 申し訳ございません。少し、我を忘れておりました」


「大丈夫なの……」


「問題はありません。それで、何でしょう?」

「あなたの名前よ。見たところ、エルフのようだけれど」


 感動のトリップから戻ってくると、既にルミナの表情は平常運転になっていた。もしかしたら一瞬だけ夢を見ていたんじゃないかと思うくらい元通りだ。そのことを少しだけ残念に思いつつ、俺は聞かれたことを答えるために現実へと思考を切り替える。


「私の名はハイセといいます。この見た目は確かにエルフのものですが、半分は人間の血が流れております」


 人間からしてみればエルフとハーフエルフの見分けなんてつかない。だから別にわざわざ明言する必要もないのだけれど、ハイセは自分がハーフエルフであることに一種の誇りのようなものを持っていた。ハーフエルフはこの世界では半端者として扱われる。エルフからは受け入れられず、人間からは好奇な目で見られる。


「ハーフエルフ……そう、大変ね」


 気まずい空気が流れる。ルミナも混血であるハーフエルフがどのような扱いを受けているのかは知っているのだろう。しかしもし今の言葉、ハイセ本人が聞いたらきっと怒るだろう。ハーフエルフとして生きてきたハイセにとって、同類以外の同情はただの侮辱にしか感じない。


「いえ……私などはまだマシな方ですよ。この魔法のおかげで、今こうしてまともに生きることができているのですから」


 主人格は前世の俺のはずなのに、どうしてか皮肉めいた言葉を吐いてしまった。きっとなくなったわけではなく、表に出てこなくなっただけのハイセの琴線に触れたのか。ルミナは一瞬複雑な表情を浮かべた。


「確かに、この魔法はとても有用だわ。闇属性の一種なのかしら……」

「はい。これは影魔法といって――」


 気まずかったのかルミナは俺の影魔法の話に触れた。そう、ハイセの影魔法はすごいのだ。俺はこの自分の素晴らしい影魔法について評価してくれたルミナにもっと詳しく話そうと前のめりになったところで、地面から微かな振動を感じた。俺はすぐさま地面に耳を当てる。


「ハイセ、急にどうしたの?」

「どうやら相手が近くまで来ているようです。すぐに移動しましょう」


 近く、と表現したものの実際まだ距離はかなりある。地面の揺れはエルフとしての本能が察知してくれたもので、並の人間ではまず気が付かない微かなレベルだ。俺は音を聞きながらさらに深く分析する。近くにいるのはおそらく一人。馬の足音が一つしか聞こえなかったからだ。それほど近くない距離とはいえ、馬で走ってくるなら今すぐにでも移動を始めなければならない。


 "宵"がルミナを抱き上げ、早々に移動を開始する。


 相手はおそらく一人。ルドム達は森の中を手分けして探しているということだろうか。だとしたら見つかるのも時間の問題だ。結局向こうには馬の脚がある以上、距離的には縮む一方なわけで、さらには広範囲をしらみつぶしにとなると、逃走経路も絞らされてしまう。


 しかし相手が一人ということは、裏を返せば馬を手に入れるチャンスでもあるかもしれない。


 俺は走りながら考える。ここで馬を奪うことができれば、まず間違いなく逃げ切れる。ただしリスクはかなり大きい。やるならば速攻――足止めの時間を極力なくさなければならない。


「――殿下、このまま走って逃げたところでジリ貧なので、少し賭けにでます。今こちらに向かっている盗賊を待ち伏せします」


「だ、大丈夫なのっ!?」


 足を止めた俺はすぐに茂みの中に移動する。


「ここで馬を奪うことができれば森の中を、盗賊に追いつかれることなく森を抜けることも容易になります。殿下はここで私の影と静かにしていてください」


「一人で……?」


 ルミナが"宵"と俺の顔を交互に見ながら不安げに零す。確かに影と()()で戦うことこそハイセの魔法の強みではあるけれど、今の状況でルミナから影を離すわけにはいかない。


「問題ありません。奇襲であれば私一人でもなんとかなるでしょう」


 俺はハイセ愛用の短剣を取り出し逆手に持つ。ルミナの不安に溺れそうな表情に変わりはないものの、残念ながらそれを払拭させている時間はない。俺はほんの少し後ろ髪をひかれるような思いをしつつも、ルミナを隠し、一人馬の足音のする方へと向かった。


 待ち伏せするするのは、追手の通るであろう場所付近の木の上。葉の中に身を潜め、気配を殺す。もうすぐ来る――そう思った次の瞬間、走る馬の姿とその上に跨る団員の姿を肉眼で捉えた。こちらにまっすぐ向かってきている。


 ――いける。


 そんな直感と共に、俺は馬が木の下を通るタイミングで俺は馬の上に跨っている団員に襲い掛かった。瞬間、奇襲に驚いた団員と視線がぶつかった。突然木の上から降ってきた俺に驚いている。一見そうとしか思えない状況なのに、どこか違和感を感じる……


 とはいえそんなことを考えている間など当然なく、俺は勢いに身を任せたまま逆手に握っていた短剣を団員の右肩当たりに突き刺した。肉を裂き、押し返してくる流血の感覚と、後に刃先が固い何かにぶつかった振動が手を伝って鮮明に脳裏に刻み込まれる。


 意識が呑み込まれそうになった俺は空中で体勢を崩れそうになったすんでのところで何とか立て直し、着地する。人を刃物で突き刺した感触――それはハイセにとって覚えのある感覚でも、前世での俺にしてみれば経験したことのないものだ。急に夢から引っ張り出されたような気分だった。つい先ほどまで、刃物を突き立てるその直前まで俺は確かにハイセだったのに……


 短剣を握る手が震えている。立っている足は今にも崩れそうで、さっきから自分の心臓の鼓動と呼吸がうるさくて仕方がない。今、短剣の使を握る手に入る力が、自分の意志なのかハイセのものなのかすら分からなくなっている。


 俺が短剣についた敵の血見つめながら呆然としていたのはほんの少しの間。しかしその僅かな隙を見逃さない者がいた。草むらの陰から放たれた殺気に、俺は気が付くのが一瞬遅れてしまった。


 俺は咄嗟に顔を逸らしたものの、頬に一筋の切り傷を作り、血が伝う。隣を見ると、柄尻に鎖の付いた斧が深々と木の幹に刺さっている。その武器に、俺は見覚えがあった。


「八ッ! まったく、俺の勘は本当に鋭いぜェ……なァ、そう思わねェかい? ハイセの旦那よォ」

「ルドム……どうしてお前が」


 殺気を感じるその先にいたのは、盗賊団の首領である大男――ルドムだった。鎖付き斧は、ルドム愛用の武器。アジトでも見かけたことがあるし、ゲームにだって登場する。いや、今はそんなことはどうでもいい。どうしてこのタイミングでルドムが現れるというのだ。


「どうして、だァ? そりゃァ、馬に乗って追いかけてきたからさ! もちろんハイセの旦那の力はよーっく知ってっから……二人一組で、な」


「……ッチ そういうことか」


 俺はとんでもない大ボケをやらかしてしまったようだ。少し考えれば分かることだった。聞こえてくる足音が馬一匹だからといって、乗っている人間が一人だとは限らない。今回盗賊団が使っている馬は依頼主から支給されたもの。貴族持ちの軍馬のように屈強な馬ばかりで、人二人くらい乗せる程度では最高速度をほとんど落とすことなく走ることができるだろう。


 目の前の餌に釣られて慎重な思考に及ばなかった俺の過失。しかし、それでも解せない点はある。どうしてよりにもよって一番厄介なコイツに見つかってしまったのか。周りに他の団員もいないことから、バラバラになって追いかけてきたのは事実。つまり、俺の逃走経路を正確に分かっていたわけではない。


 それなのに俺はたまたまルドムの捜索範囲に掛かってしまった。偶然にしては出来すぎている。


「まさか、本当に勘だけで俺を見つけた、と?」


 何らかの手段があったのではないかと探りを入れたつもりが、俺の言葉を聞いたルドムは大声で笑い、


「おうよッ! 旦那は知らねェだろうが、俺はここぞという時の勘がすげェのさ。まるで神サマにそうしろと言われてるみてェによ……今回もその冴えに冴えた俺の勘が教えてくれたのさ。ここで旦那が来るってよォ。だから後は馬を囮にして先制までするつもりだったが、まァそれで終わっちゃァ、つまらねェ。コケにされた分はきっちり返してもらわねェとな」


 ルドムの言葉と表情に嘘偽りの気配は微塵も感じない。本当に偶然だったようだ。いや、ルドムの勘、か。ゲームではそんな設定を感じさせる描写はなかったはずだけれど。


 もはやそういう運命(さだめ)の下に生まれたとしか――いや、そうか。ゲームのエルストではルドムは序盤の敵キャラとして主人公に負けることが運命づけられている。裏を返せば、そこから外れるようなことがあれば、軌道修正されてしまうのではないだろうか。運命の強制力というやつである。


 ハイセとして転生し、ルドムという人物を近くで見ていてずっと気になっていたことがあった。この男は己の欲望に忠実で、本能のままに動こうとする。盗賊らしいといえばそうだけれど、組織立った盗賊団を牽引する人物としては迂闊な部分が目立つ。


 しかし今日というこの日に主人公に打ち負ける盗賊団の首領ルドムになるために、あらゆる都合が味方するのであれば、ルドムという男でも貴族から依頼を受けるような大きな盗賊団を組織できたことや、勘という形で都合の良い未来を引き当てている今この状況にすら納得できる。


 どうやら運命様は、よっぽどここでルドムの手からルミナを引き離されてほしくないらしい。


 敵は目の前にいるルドムではあるけれど、その本質はゲームシナリオという名のこの世界における運命そのものだ。もしも許容してしまえば、それはなし崩し的にハイセに破滅をもたらす。つまりここがハイセの――俺にとっての分岐点。俺はここで抗い、来る未来を変えなければならない。


 短剣を構える。覚悟を決めろ。震えている場合なんかじゃない。


「……やってやるよ!」


 俺は怯える心を踏み砕くように地面を蹴った。始まる戦闘への昂ぶりが押し隠しきれずに笑みとして表情に出るルドムのゴツゴツとした顔がどんどん近づいてくる。


「おらァッ!!」


 ルドムは投げた斧と繋がっている鎖を持った手を思いきり引いた。背後から突き刺さった斧を引き戻すと同時にその直線状にいる俺への攻撃だった。俺は後ろから迫りくる斧を身を旋回することによって回避し、その勢いに力をのせてそのまま短剣の刃先をルドムへと向かわせる。


 しかしその動きはルドムに読まれていたようで、俺の短剣の間合いから身を離しつつ、引き戻した斧をつかみ取る。――まだこちらの手番は終わっていない。俺はまだ反攻を行うには不十分な姿勢のルドムに追撃を加えていく。筋肉達磨であるルドムにはパワーでは大きく劣っていても、手数とスピードはこちらが圧倒している。


 反撃の一撃をもらえば、おそらくそれだけで劣勢になるだろう。だから俺は手を緩めることなく猛攻(ラッシュ)する。このまま押し切ってしまうことが、一番スマートにこの戦闘を終わらせる方法だった。


 しかし俺の攻撃は一つとしてルドムに届かなかった。――何かがおかしい。


 ルドムの動きは、まるで俺の動きを先読みしているみたいだ。


「オイオイ! そりゃァ、甘いぜッ――おらよォ!!」

「グッ……! かはっ……」


 わずかに脳裏を掠めた曇った思考が、それまでの死角を作り、差し込むような巧妙な攻勢に小さな歪みを生じさせてしまった。ルドムはその機を逃すことなく、すかさず反攻に移り、俺の腹部めがけて筋力にものを言わせた蹴りを放った。


 すんでのところで腕でその蹴りを受け止めるものの、小柄なハイセの身体がルドムのパワーを押し止めることなんてできるはずもなく、木の幹に身体を叩きつけられ、肺の中から苦しみが吐き出る。


「やべェ……おい、今日の俺はすげェぜ旦那! こんな感覚は初めてだ……旦那の動きが全部見える……ハハハッ! 負ける気がしねェよオイ!」


 興奮して瞳孔の開いたルドムが上機嫌に笑いながらそう言った。俺の動きが全て見えている……おそらく例の勘ってやつだろう。それが今、このタイミングで覚醒した――もちろん偶然なんかじゃないだろう。ゲームストーリーへと軌道修正しようとする運命の仕業。あまりにも露骨な大盤振る舞いだ。


 いよいよ世界にすら見捨てられていることを自覚した。こんなの、無理ゲーだ。


「旦那ァ……んだよ、その目はよ。まさか、今更許しを乞うなんてつまらねェことはしねェよな!? ……まァ、どうしてもってンなら、その無様な姿も見てやらねェこともねェがな!」


 俺の絶望が瞳を介してどうやら伝わってしまったようだ。


「くそ……が」

「あァン!?」


 ルドムが手に持った斧を力を乗せて振り下ろす。俺はその攻撃を短剣で直撃だけしないように受け流すことで精いっぱいだった。


「オラオラオラァッ!! どうしたよォ、オイ!」


 姿勢が崩れて力に流されそうになっているところに、今度はルドムの猛攻が始まる。どうやらルドムにすぐさま決着をつける気はなさそうで、受け流すことに精いっぱいで苦しむ俺をいたぶって愉しんでいるようだった。よほど俺に一杯食わされたことが腹立たしかったみたいだ。


 鈍く重々しい金属同士の衝突音が続く。しかし斧の質量とルドムの筋力が合わさった一撃を受け流す形とはいえそう何度も止めることができるはずもなく、数度刃を交わらせたところで俺の手に持っていたハイセ愛用の担当が刃の真ん中から先が折れて飛ばされてしまった。ルドムの口角が一段大きく吊り上がり、すかさず俺の顔面に蹴りが入れられた。


「そういえば、あの小賢しい魔法は使わねェのか? ……いや、そうか。あのガキのお守で使えねェんだな? しかしよォ、このままだと死ぬだけだぜ旦那ァ」


 チカチカと意識が明滅とする中、ルドムのそんな言葉が聞こえてくる。確かに影魔法を使えば、もうすこしマシに立ち回れるかもしれないけれど、そんな口車に乗るわけにはいかない。相手はルドム一人じゃない。周囲に他の団員がいるかもしれない。ルミナを一人にするわけには、いかない。


 とはいえ、このまま意識がなくなれば魔法も消える。俺はここで踏ん張らなければならない。


「……はっ、それもお得意の勘、か? お前みたいな、単細胞が……そんなこと考えつくわけも、ないからな」


 強がって煽るその口から出た言葉は、きっとハイセのものだ。もはや今の俺は自分の中に埋もれてしまったハイセに縋ることでしか、意識を保ってはいられなかった。


「クク…おーし、決めたぞ。てめェはただじゃ殺さねェ……嬲って嬲ってじっくり殺してやるよ 」


 ルドムの拳が俺の顔面に振り下ろされる。感覚がぼやけているせいか痛みというより重さを感じた。息が上手くできない。喘ぐような掠れた呼吸音が耳の中を満たしている。


 あぁ、これはもう駄目かもしれない。


 いやむしろここまでよくやったくらいだ。今、目の前で優越感に浸っている男も、ぼろ雑巾のようになっている俺も、今日というこの日に主人公に打ち負かされ破滅する運命だ。そんな運命に抗った結果、俺の方が一足先に終焉を迎えそうで、全くただの徒労になってしまいそうだけれど、それも仕方がないだろう。なにせ相手は運命なんて理不尽の塊みたいなものなのだから。


 運命を変えるなんて、言葉でいうほど簡単なことじゃないこと始めから分かっていたことじゃないか。俺は主人公じゃない。ただのモブで、序盤に退場する噛ませ役。世界をひっくり返すなんて大役は荷が重すぎる。


 俺の転生生活もこれまで、か。


 無茶をして死期を最初の頃よりむしろ早めてしまうなんて、居眠り運転で死んだ間抜けな俺らしいといえばらしい。まぁ、でも現実なんてそんなもんだろ。世界には主人公よりもモブキャラの方がずっと多いのだから。


 それでも一つだけ転生してよかったことは、推しのルミナ姫に出会うことができたことだ。原作よりもずっと可愛いじゃねーか。ファン冥利に尽きるね、全く。願わくば、もう一度。今度はエルスト最終エピソードで主人公に見せた、幸せが零れだしてくるような笑顔を――


「――ハイセ!」


 最初は幻聴かと思った。だってここにいるはずがない。いてはならない少女の声。


「なん……で」


 かすれた声が出る。首を動かし、視線を声のする方に向けると、ルミナの姿が見えた。"宵"はルドムとの戦闘が始まって以降、自動警戒モードにしていたから気が付くことができなかった。まさか"宵"を振り切ってここまで来たなんて。


 でも、どうして? 訳が分からず、頭の中は混乱するばかりだ。


「まさか探す手間をわざわざ省いてくれるたァ……ははッ! こりゃァ、いい。あのガキに、てめェが無様に嬲り殺されるところを見せてやろうか!」


「わ、私はルクス王国第三王女、ルミナ・レイテス・オーラ・エルデ・ルクスよ! その者から今すぐ離れなさい!」


 怯えている身体で、震えている声で、ルミナは精いっぱい声を上げて、王女としての権威を振りかざした。場所が場所であれば、きっと誰もがひれ伏しただろう。でも今この状況で、そんなものが通用するわけがないのは明白だ。


「これはこれは、王女サマでごぜェますか。まさかこんな場所でお会いできるたァ、驚きで思わず足元にある頭を蹴り上げてしまいそうでさァ」


「ぐふッ……!」


 驚きなんて微塵も感じられない抑揚のない態度で、ルドムは俺の顔を蹴り上げた。鉄臭い血の味が口内に広がる。視界が激しく揺れて、今にも内臓を口からぶちまけてしまいそうだ。


「止めなさいよ! 私の命令が聞けないの!?」


「聞くわけねェだろうがバァーカ!! 全く、この国の王族はお姫様にどんな教育してんだァ?」

「うぅっ……」


 ルドムの怒号に完全に気圧されてしまったのか、ルミナの足は棒のようになって小刻みに震えている。しかしこの時ばかりは俺もルドムの言葉と同じ気持ちだった。今この場に姿を出すのは無謀どころかあまりにも愚かな判断だ。


 俺の知っているエルストでのルミナはそんなキャラじゃなかった。


 いや……今のルミナは【王女誘拐】クエストで心に傷を負う前のルミナだ。あるいは向こう見ずな面があったとか。もしかすると、ルミナと一緒にいた付き人二人が、そんな彼女のブレーキ役なのかもしれない。あの二人とルミナを別れさせたのは失敗だったか……!


「へへ……こりゃァ、少し俺がキョウイクってやつをしてやらねェとなァ。そういや別に雇い主には生きた状態での引き渡しとしか言われてなかったからなァ……少しくらいは、なァ? 問題ないよな? ハイセの旦那よォ」


「お、まえ……何をする、つもりだ」


「なァに、ちっとばっかし過激なキョウイクさァ」


 ルドムが下卑た笑みを浮かべる。これから何をしようとしているかなんて、わざわざ聞く必要なんてない。でも、今の俺にはそれを口にして少しでも時間を稼ぐことくらいしかできなかった。


「や、やめろ……」


「あァ!? それが人に物を頼む言い方なのかよォ! ハイセ! もっと無様に這いつくばってみせろ。そしたら、もしかすっと気分が変わるかもしれねェよ?」


「……やめてくれ」


 俺は地面に頭をこすりつけながら懇願した。散々殴られたせいでまともに動くこともできなかった俺は、芋虫のように身をよじりながらただルドムの気分が変わる億が一の馬鹿げた可能性に縋ることしかできなかった。


 俺は、なんて馬鹿なんだろう。


 エルストの世界に転生して、未来が分かることをいいことに自惚れて、未来を変えてやろうなんて思ってしまったのがそもそもの間違いだった。確かに俺は未来を変えてきた。転生者として、前世で得たこの世界の知識なんてチートを使って。


 でも俺はとんだ思い上がりをしていた。


 この世界は転生者(おれ)のための世界じゃない。


 そんな当然なことを、俺はこうしてどん底の状況にまで叩き落されてようやく気が付くことができた。


 こんなことになるなら、一人で逃げ出しておけばよかった。そうだ……未来ではどうせルミナは助かった。なのに俺は欲張ってしまった。この世界の主人公でもないのに、チートがあるからきっと成せるだなんて、あまりにも傲慢だった。


 あまりにも遅すぎた後悔に、俺は血が出るほどに唇を噛んだ。


「た……立ってよ!あなたは、私を救い出すために、ここにいるんじゃないの!?」


 ルミナの悲痛な叫び声が聞こえる。その通りだ。俺はあまりにも無責任な言葉を彼女にかけてしまった。助けたい。その気持ちは強まっていくというのに、俺の身体にはその意思が響かない。まるでもう自分の身体じゃないみたいだ。そう、先ほどまで感じていた激痛も朧げになって遠のいていくほど――


 痛みが……ない?


「おい、そりゃァ……なんだ?」


 それに先ほどからずっと聞こえていたルドムの、ケタケタ狂った不協和音のような笑い声も聞こえてこないことに気が付いた。ルドムの意識は今、ルミナに向けられている。


 俺は身をよじり、ルミナを見た。淡い白の光に包まれたヒロインの姿を。


 ルミナの瞳にはいつの間にか力強さが宿っていた。


 何が起こっている――いや、俺にはわかる。前世で何週もエルストをプレイした俺には。


 覚醒。


 ピンチになった主人公を助けるために、ルミナはその身に眠っていた聖女としての強大な力を発現させる。そのシーンが今、目の前で起こっていた。


 それまでルミナは火力も耐久力もないステータスで弱いキャラだったけれど、覚醒後は打って変わってパーティーの中核になるほどの強キャラになる。ステータスの伸びが跳ね上がり、単純にフィジカル的に強くなることもそうだけれど、覚醒後のルミナの一番の強みはそこじゃない。覚醒すると、ルミナはパーティーメンバー全員に常時バフがかかる強力な聖女専用のアクティブスキルを獲得するのだ。


 そしてそのバフが今、俺の身体にかかっている。


 聖女ルミナのバフスキルの強いところは、固定された一つの効果ではなく、ステータスや戦闘状況によって効果が変わるところにある。例えばHPが残り少ない状態で発動すると、一時的なマナ増幅と体力回復効果がある。


 身体の痛みが薄らいだのはその効果が発揮されたからだろう。今なら、再び立ち上がって戦うことができる――


「ちと、やばそうな感じがするなァ」


 ルドムは突如白いオーラを発したルミナに警戒してか、回復効果を受けている俺には気が付いていないようだ。今なら、不意を突くことができる。


 俺はルドムがルミナと相対して武器を構えたその瞬間を見計らって立ち上がり、拳をその顎めがけて振り抜いた。


「なッ……がァっ」


 完全に不意を突かれたか、俺の拳は狙いを正確に射抜いた。ルドムが大きく姿勢を崩す。しかしハイセとルドムは対格差があまりに大きく、小柄なハイセの拳では致命傷とはなりえない。俺はすぐに追撃の姿勢に入る。武器を拾っている時間はない。今ここで、次の一撃でルドムを倒すには――


 ふと、頭の中にイメージが思い浮かぶ。俺は考えるよりも先にそのイメージに従って身体を動かし、魔力を練った。


「――影魔法"(まとい)"」


 俺は発動した影魔法"宵"を自分の身体に纏わせ、影と一つになった。武器がなく、拳でしか戦えない状況でルドムを倒しきるには、足りない力を補う必要がある。だから、影魔法の"宵"と一体となることで力を上乗せする。


 エルストのハイセには設定されていなかった魔法だ。


「くっ、おおおおおおッ!」


 全身に激痛が走る。影で身体能力の限界を無理やりに突破する魔法はどうやら大きな負荷がかかるようだ。しかしこの勢いを止めるわけにはいかない。俺は途切れそうになる意識を必死につなぎ止め、その拳を振り抜いた。


 地の底にまで響くような衝撃音の後、静寂が周囲を包んだ。


 痛む身体を起こした俺の目の前には、完全に意識を失い倒れこむルドムの姿があった。


「――ハイセ!」


 ルドムのダウンを確認した瞬間に力が抜けて崩れ落ちた俺に、ルミナが声を上げて駆け寄ってくる。もうその身に覚醒の光はない。おそらく自分で何をしたかすら、わかっていないだろう。


 身体の痛みが酷い。まるで体の中身がぐちゃぐちゃになっているみたいで、呼吸も途切れ途切れで息苦しい。


 でもここで意識を失うわけにはいかない。俺はすぐに影魔法"宵"を発動し、走ってくるルミナを捕まえて抱え上げる。


「ちょ、ちょっと! 何するのよ!」


「……も、りの外……助け、くる。いけ」


 ルミナは俺が何をしようとしているのか察したのか、暴れて"宵"の拘束から逃れようとした。


「あなたはどうするのよ、そんな体で!」


 俺はもう言葉を発するのが辛くて、叫ぶルミナにとりあえず笑って見せた。


 心配するな。こちとらスラムから図太く生きてんだからこのくらいの状況、一人ならどうとでもなる、という気持ちを込めて。伝わるわけも、ないけれど。


 戦闘で遠くに離れていた馬は、流石は調教された軍馬なことだけはあって、走行は可能な状態だった。俺は"宵"を操作してルミナを乗せ、発進させる。"宵"の操作範囲はとてつもなく広いが有限。とはいえ、森の出口付近まではいけるはずだ。


 ルドムを倒したとはいえ、まだ他に盗賊団は近くにいる。追手が来る前にルミナを森の外へ出さなければ。森の外の街道にさえ出れば、きっと主人公が見つけてくれるはずだ。


 ――あとは頼んだぜ。見知らぬ主人公さんよ。



§§数か月後§§

 ハイセとして人生最大の破滅フラグであった【王女誘拐】の事件から数か月が経った。


 エルストの最序盤の噛ませ役、ハイセに転生した俺は今もまだ無事生きている。流石にそろそろ【王女誘拐】での破滅フラグは回避したと確信してもいいだろう。あれから俺は穏やかな日常というには少々刺激的な生活を送ってはいるものの、王国から王女を誘拐した犯罪者として指名手配されたりなどはしていない。


 ルドム率いる盗賊団もすぐにとある青年達によって壊滅されたらしく、今は晴れて何の憂いもない生活を過ごすことができているというわけだ。


 ちなみにルミナもしっかり無事だ。俺が聞いた話ではあの後しっかりと主人公に救助されたという。であれば、今頃はもう主人公パーティの一員として旅に出ているところだろうか。


 そしてもう一つ、最近城下ではとある噂がもっぱら話のタネになっている。その噂とは、第三王女の誘拐事件とその背後にいる黒幕について。


 ルミナが誘拐されたあの事件はあくまでも公表はされていないものの、如何せんルドム盗賊団を壊滅させた青年達というのが目立ってしまったせいで、民衆に隠し通すことはできなかった。そしてその背後にいる黒幕について……これは具体的な名前は噂になっていないものの、とある貴族による手引きらしい、というところまでは広まっていた。


 そして現在王宮内はその貴族も含め、王宮内の不穏分子を一斉に洗い出そうと動いているらしい。そのために王宮内は少々荒れている状態、だとか。


 またこの騒動に合わせて、噂の中には正体を隠す正義の貴族様というものもあった。様々な貴族の不正を暴き、見返りを求めず誅を下す正義の味方、らしい。


 その噂の真相を知るのは、おそらく俺だけだろうな。なにせ俺自身が吐いた真っ赤なウソなのだから。


 まさかルミナを納得させるために咄嗟に吐いた嘘までもが噂になるとは正直思っていなかったけれど、どうもこの噂には王家の意思も絡んでいるようだ。


 王家は今回のとある貴族の裏切りについて、大々的には認めていない。いや認めるわけにはいかないといったところか。王女を誘拐しようとしたなんてことを忠臣であるはずの貴族が手引きして行ったと認めてしまえば、国威の低下にも繋がる。


 しかし王宮内に不穏な動きをする者は確実にいる。そこで役に立ったのが、謎の正義の貴族という存在だ。誰もまるで気が付かなかった王女の誘拐なんて計画の情報を事前に手に入れるだけではなく、首謀者に繋がる証拠までもつかんで見せた存在――隠し事のある不穏分子達はさぞ怖い思いをしているだろう。


 王家はこの噂を一種の脅しとして、ボロを出した不穏分子を内々に粛清しているらしい。


 なんというか……転んでもただじゃ起きない図太い精神を感じる。


 まぁ、この分なら王家の目も他の貴族連中の目も俺個人にではなく、そのいもしない謎の貴族のほうに向けられることだろう。盗賊団として追われる心配もなければ、変に王家の目に留まることもない。ハイセという個人は完全に雲隠れできたといってもいい。


「ふふふ……全く完璧な落としどころだな」


「――ん、何か言ったか?」


「あぁ、いや何でもない。ただの独り言だ」


 俺はしばし宙に浮いていた思考を引っ張り下げて現実に戻り、仕事の依頼人である奴隷商に意識を向けた。今の俺はこれまでのハイセと同じく、非合法な手段で手に入れたり、契約違反をされている奴隷を回収するための、いわば正義の人攫いに従事している。


「それにしても、最近は依頼が多いな」

「ん、あぁ……ここ最近はいろいろと荒れているからな。これを機に非合法なやつらが活発になってきているんだ。全く……」


 奴隷商は辟易とした様子で項垂れながら言った。俺もここ数か月、いろいろな奴隷や奴隷商と関わってきたけれど、つくづく奴隷業界というのはロクでもないやつが多い。まぁ、イメージ通りといえばそうなのだけれど。


 とはいえ、王国では奴隷の存在は認められており、法整備もしっかりされている。つまり合法的に奴隷を売買して商売することができるのだ。目の前の奴隷商も規則を守り、正しく商売している側の人間であるけれど、奴隷業界では少数派。非合法な手で奴隷を売買する奴らのせいで苦労の絶えない人である。


 非合法な奴らが増えれば増えるほど、正しく商売をしている奴隷商が肩身の狭い思いをする。それだけならまだしも、時にはいわれのない罪を被ることさえある。だからこそ必死に取り締まらなければならない。しかし正面から非合法なやつらを咎め、違法奴隷を回収・解放をしてしまうと、それこそ盗難の罪に問われてしまう。


 そこでハイセのような人攫いに依頼して、表面的には人攫いの仕業として処理してしまおうという話だ。全く世知辛い……


「しかし、今回はいつもの依頼じゃない」

「ん? どういうことだ?」


 店の奥まで連れてこられたところで、奴隷商はふとそう言った。その目前には個室に続く扉。


 人攫いの依頼じゃないなら、一体俺に何をさせるつもりなのだろう。眉間にしわをよせる俺に、奴隷商は続けて、


「内容は知らされていない……知る気もない。依頼するのは私じゃなく、この部屋にいる御仁だ」


「……御仁?」


「とにかく、私はこれ以上は踏み込まない……すまないな」


 奴隷商の様子が明らかにおかしい。しかしその表情は心の底から俺に申し訳なく思っている風で、俺の胸中には嫌な予感が押し寄せてくる。


「――ようやく見つけたわ! ハイセ!」


 奴隷商が扉を開けた途端、前世では何十回と聞いていた少女の声が飛び込んでくる。以前のように平民風の服ではなく、貴族学校の制服に身を包んだルミナであった。あれはエルストでも着ていた初期衣装だ。


「な、なんで……」


 生制服への感動も一瞬で引っ込み、俺は目の前にルミナがいるという状況に困惑する。


「もちろん、ずっとあなたを探していたからよ。光栄に思いなさい。あなたは今から、私の部下になるのよ!」


「……はぁ?」


 彼女が何を言っているのかまるで理解できなかった。いや、言葉の意味は分かるけれど……俺をずっと探していた? 部下にする、だって?


 じょ、冗談じゃない。いや、推しのキャラにまたこうして再会できたこと事態はとてもうれしいことだけれど、それとこれは別問題である。


 そもそもハイセというキャラは序盤に早々に退場する噛ませ役。そんなキャラに転生し、やっとの思いで破滅フラグを回避したのだ。これからは自分なりの日常の中でそこそこに過ごすつもりだった。


 前世でエルストをプレイした俺からすれば、原作ストーリーは破滅フラグの乱立地帯。原作ファンとはいえ、流石にそこに足を踏み入れる気はなかった。いのちだいじに、だ。


 だというのに、まさか原作のほうからこちらに歩み寄ってくるなんて。


 破滅フラグの予感しかしない……


「さぁ、私に忠誠を誓いなさい、ハイセ!」


 ルミナは……まるで断られるとは思っていないようで、キラキラと瞳を輝かせている。もちろん俺としては断りたいものの、これではあまりにも言い辛い。


 さて、これからどうなってしまうのだろう。


 それは原作プレイヤーの俺にも全く予想がつかない。ここから先に待つのは誰も知らない未知の未来なのだから――


 ……ひとまずは、ルミナの話を聞くとしようか。


 そこから、始めよう。


END

 


 

 

 

本当は2万字程度の短編を予定していたのに、気が付けばその倍くらいは書いてしまいました…

ここまで読んでくださりありがとうございます。衝動的に書いた作品ですが、何か反応をいただけると嬉しいです。


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