30
タクシーは使わずに、歩いて家まで戻った。日はもう沈んでおり、涼しい帰り道だった。
五千円札は絶対に両親にバレないように数学のノートの間に挟んでおいた。彼らに私がお金を持っていることを知られる恐怖は少しあったが、そんなことよりもお金を手に入れた嬉しさの方が嬉しかった。
これから週一で三万円だ。……この家を出ていけるかもしれない。
私はそんな儚い希望を抱きながら、家の中へと入る。
「な、なんで……」
玄関先に置かれた男性用の黒い革靴を見て背筋がゾッとした。
どうしてこの靴がこの時間にあるの……。過去のトラウマが頭の中に一気に流れて来る。拒絶する私の叫び声と誰も助けてくれないと悟ったあの絶望感。
良いことが少しでもあったら、すぐに地獄に落とされる。
未遂で終わったけれど強姦されそうになったあの日以外にも予兆は何度かあった。……思い出してくなくて、無理やり記憶から消したけど。
二度とあんな目には遭いたくない。全ての人生を棒に振っても、あの時の恐怖から逃げ出したかった。
「誰か帰って来たのか?」
リビングの方から父の低い声が聞こえた。足がすくむ、とは今の状況のようなことを言うのだろう。今すぐ逃げ出したいのに、思うように足が動かない。
暑くないのに、どっと汗が滲んでくる。
今ここで逃げたら、私は今日の夕飯を作ることが出来ない。そしたら、母に何をされるか分からない。
兄は「俺を頼れ」って言ってくれたけれど、私はこれ以上彼に迷惑を掛けたくない。
私には逃げ場なんてないのだ。
…………私、これから先、この負のループから抜け出すことが出来ないの?
そんな疑問がふと頭によぎった。
もうすでに今まで通りだった日常に亀裂が入り始めている。この亀裂を塞ぐことなんて、私の力ではできない。けど……、広げることはできる。
こんな吐き気がする日常、崩壊させてやる。
私は勢いよく家を飛び出した。
必死に足を動かし、あの家から遠ざかるように全力で走る。
服は今着ている制服しかないし、お金もたったの五千円札だけ。それでも私はかつてないほどの解放感に包まれていた。
私がいなくなって困るのは彼らの方だ。兄はきっと私のことを心配して、探し始めるだろう。それだけが気がかりだ。
でも、今はそんなことよりも自由の身になったことを喜ぼう。私だけしか私のことを祝福してあげれないのだから。
気付けば、私は海の近くまで来ていた。潮の匂いが鼻をかすめる。あの家から、かなり離れた場所までやって来た。
走るのを止めて、スゥッと深く深呼吸する。荒い呼吸を整えた。こんなに我を忘れて走ったのは初めてだ。
一気に走ったせいか、横腹がキュッと絞られているように痛い。
私は横腹を右手で押さえながら、海の方へと足をゆっくりと進めた。




