19 兄と家
家の前に着くと、私は足を止めた。鍵貸して、と兄は私の方に手を差し出すが私は動けない。
早く帰るときっと、父がいる。どうしてもそう思ってしまう。
私はトラウマなんて抱えるタイプじゃないと思っていたけど、想像以上にあの出来事を引きずっていたようだ。
私の動きを不審に思ったのか、兄は「なんかあったのか?」と私の顔を覗く。
全て悟られそうで兄と目を合わせられない。
……知られたくない。兄だけには隠し通したい。……けど、どこかで父のことを言いたい自分もいる。
さっきも帰り道で言おうと思ったが、声が出なかった。
臆病だな、私。
「カンフー習いたいよね」
カンフー? と兄は首を傾げる。
護身術を身につけておけば、襲われてもすぐ対応できるから。成人男性にも多少は抵抗出来るから。
勿論、そんな理由は兄には伝えない。
「かっこいいじゃん、カンフー。ジャッキーチェンに出会えるかもしれないし」
「紗英ってジャッキーチェン好きだっけ?」
「うん、顔可愛いじゃん」
私の言葉を理解出来ないという表情を浮かべる兄を無視して、私は扉の鍵穴に鍵を差し込んだ。
誰もいない家に向かって、ただいま、と呟く。
少しだけ前に早退した時の恐怖が襲い掛かるが、兄がいるから何とか冷静でいられる。
私が朝入れ替えた花が綺麗に咲き誇っている。その花に小さな自信を貰う。
この花達は私がいなかったら、枯れていたかもしれない。そう思うと、なんだか自分が必要とされている気持ちになるのだ。
「誰もいないね」
私の言葉に兄は鋭く反応した。
「誰かいたことあった?」
父が忘れ物取りに帰ったことはあったかな、と言いたいのに上手く言葉が出ない。どうしてこんな時に限って私は嘘をつくのが下手なのだろう。
何も言わない私に兄は「殴られた?」と低い声で聞いた。
両親に殴られたことはある。だから、否定はできない。両親は決して人から見られるところに殴ったり蹴ったりしない。
卑怯だけど、そりゃそうかと納得されながら虐待され続けていた。
「そんなに頻繁じゃないけどね。……両親がストレスとか溜まった時とか人間サンドバッグになったりしてる」
私は笑いながら話す。そんなに真剣に受け止めて欲しくない。
可哀想な子だって思われたくない。兄から同情の目を向けられたくない。別に不幸自慢したいわけでもない。ただ、知って欲しかっただけ。
兄の反応は私が想像していたものとは違うものだった。
彼の瞳に抑えきれない怒りの情が見えた。この憎悪の矛先は両親だろう。
私はその瞳に背筋が凍る。無意識に鳥肌が立っていた。