16
「あの家で何かあったのか?」
鋭い兄は私を見透かすように見る。
なにも、と小さく自身のない声で答える。きっと、何か勘づいているはずだが、彼はこれ以上何も言ってこなかった。
ボンッと兄は保健室のベッドに腰を下ろした。保健室は冷房は効いていて心地いいはずが、さっき濡れたせいで少し肌寒い。
窓から日差しが強く入ってき、私は少し目を細める。
いつの間に晴れたんだろ……。天気は気ままなものだ。私もあれぐらい自由になれたらいいのに。
「悪魔に魂を売っても良いから、この生活から抜け出したい」
そんな馬鹿げた叶いもしない願いを呟く。
神様なんてこの世にいないことは小さい頃から知っている。あれほど助けを求めたのに、神様は何もしてくれなかった。
私のぼんやりとした独り言に兄は反応する。
「俺がその悪魔になってやるよ」
兄のその不吉な笑顔に私の心が揺さぶられる。
お兄ちゃんが悪魔? なんて笑って誤魔化したいが、出来ない。どこかでその言葉を信じて頼りにしている。
「……悪魔に魂を売ったらどうなっちゃうの?」
「う〜〜ん、……一生俺のものになる」
「またこき使わされる?」
私の質問に兄は軽快に笑う。それだけで、そんなわけないだろ、って言っているような気がした。
「甘やかして、鬱陶しいぐらいに愛してやる」
私の知っている兄はそんなこと言わない。今まで爽やかな兄を演じてきただけなのだと改めて実感する。
愛される、ってどんな感じなのだろう。今まで愛されたことなど一度もない。兄は確かに私を大切にしてくれたが、それは愛だったのだろうか。
もし本当に愛してくれているのなら、もっと両親から受けている私の対応に気付いても良かった。確かに両親は兄のいる時は私に優しい声で話すし、忙しい兄はそんなこと気付く機会がないのも分かっている。両親はずる賢く私を使っていた。
そんな中、兄に気付いて欲しいと思ってしまうのは求め過ぎだということはよく分かっている。
「両親と紗英を虐めた奴に復讐して」
「悪魔の割に優しんだね」
私は兄の言葉に被せるように声を発した。彼は一瞬固まった後、真剣な目を私に向けた。
「俺は紗英の為なら悪魔にだってなれる」
思わず私は黙ってしまう。兄はそこまで私のことを想ってくれていたのだと胸が熱くなる。
この世界に私の味方だと本気で思える人などいなかった。けど、一番身近に存在していたのだ。それも両親になんの不満もないと思っていた兄。
「私にとっての悪魔は母と父だけだから、それだとお兄ちゃんは天使になるね」
私は兄に微笑む。「それは最高だな」と兄も微笑み返す。
その笑顔に安心する。もし彼に裏切られたら私は二度と立ち直れなくなるだろう。
誰かを疑いなく信じるなんて怖くて出来ないと思っていたけど、兄に対してなら信じてみたいと思えた。