15
どうだろうな、とどこか頼りない声で兄が呟く。
ここからだと兄の表情が見えない。彼は一体どんな顔でそう言っているのだろう。
私はスカートを脱いで、夏用の赤い体操ズボンに着替える。歩いてもズボンが落ちてこないようにするためにしっかりと紐できつく締める。
ゆっくりと濡れた兄の白シャツを脱ぐ。私の制服より随分と大きい。
「紗英はあの状態でどうして恥ずかしがらなかったんだ?」
「あの状態?」と何のことか分からず聞き返す。
「透けてただろ」
「……あの時」
父に強姦されそうになったことを思い出していた、と言おうと思ったがやめておいた。
これ以上兄の気持ちを揺さぶりたくない。
「荒川君に話しかけられたことにびっくりしちゃって」
得意な嘘をつく。
私がそう言うと、兄は何も言わなくなった。
その間に半袖の体操服に着替える。思っていたっよりも随分とぶかぶかだ。体操服からは柑橘系の爽やかな匂いがする。
「あいつのこと好きなの?」
その言葉にカーテンを開けようとした手が止まる。
なんて答えるのが正解なのだろう。勿論荒川のことは嫌いじゃない。むしろ私に優しくしてくれたから好きな方だ。けど、そこに恋愛感情は一切ない。
「彼は私を助けてくれただけだよ」
「助ける?」
もう逃げられないな、と確信する。
「今日、靴箱に画鋲が入れられているの見られちゃっただけ。それで私のこと気に掛けてくれたんだと思う。ただのクラスメイト」
少しの沈黙が続いた後、兄は自責の念がこもった声を発する。
「……どうして俺に何も言わなかったんだ? そんなに頼りない兄だったか? 俺のせいでこうなったって俺に怒りをぶん殴ればいい。お前のせいでこんなに苦しんでるんだって怒鳴ればいい」
「そんなことできないよ」と即答する。だって、と付け足す。
「お兄ちゃんを失うわけにいかなかったから」
兄は黙り込む。暫くするうちにガラガラッと扉が開く音が部屋に響く。
「二人とも着替えれた?」
柔らかな声に「はい。助かりました」と答える兄の声が聞こえる。
小倉先生と話している兄の顔が簡単に想像出来た。ここは兄に任せておこう。
「妹さんは?」
「少し体調が優れないようなので、ベッドで寝ています」
「そう、大丈夫かしら」
「はい。このまま俺が家まで送ります」
家に帰りたくない。真っ先にそのことが頭をよぎる。
嫌な思い出ばかり詰まった家が苦手で、いつも夕飯の準備をするギリギリの時間までいつも学校にいる。
「大丈夫です。この時間だけ寝たら、授業に戻ります」
私は気付けば飛び出してそう答えていた。兄と目が合う。少し気まずくなって目を逸らしてしまう。
小倉先生は少し眉を八の字にさせて私を心配そうに見る。
「けど、顔色が良くないからもう早退した方が良いと思うけど」
「制服が乾くまでここにいてもいいですか?」
私は必死に小倉先生に懇願する。家に早く帰るということの恐怖で血の気が引いていくのが分かる。
……早く家に帰ると、父がいるかもしれない。
私の願いを小倉先生は快く承諾する。
「ええ、もちろんよ。ゆっくり休んでちょうだい。……田原君はどうするの?」
「じゃあ、俺も制服が乾くまでここで休みます」
「分かったわ。先生には私から伝えておくわね。また職員室に行かないと。大人しくしてるのよ」
小倉先生は私達に微笑んでまた保健室から去って行った。
彼女みたいな人が母親だったらな、なんて馬鹿げたことを考える。