10
兄の口からとんでもない質問が出てきた。私にとってはタブーの質問だ。
どういう意図で言われたものか分からないけど、嘘をついた方が良いと私の全細胞が言っている。
「すきだよ」
心がどうしてもこもらない。私の言葉が本物ではないことはきっと兄は分かったはずだ。そっか、と彼は静かに呟く。
お箸を拾い、軽くスカートで拭く。汚いかもしれないけど、幼い頃に泥のついたお箸で豆腐を食べさせられてから、ちょっとやそっとでお腹を壊さないようになった。
今では雑草でも水で洗うとそのまま食べることが出来る。両親のおかげで胃は強化された。
人間は環境に適応していく生き物だというのは本当だ。慣れというのは怖い。
私は生姜焼きの豚を口の中へと放り込む。絶対美味しいはずなのに、緊張で味わえることが出来ない。
気付けば兄はアンパンを食べ終えていた。微かに餡子の甘い匂いが漂う。それと同時に雨の匂いもした。空を見てみると、雲行きが怪しい。
今日は朝からずっと晴れていたのに……。
私はぼんやりと空を眺めながら、知らぬ間に兄に質問を聞き返していた。
「……お兄ちゃんは?」
「俺? 俺はね~、あんなクソババアは大嫌いだよ」
兄は一呼吸置いてから、満面の笑みでそう答えた。
脳みそがフリーズする。兄のいつもの笑顔が静止画のように固まる。
……聞き間違い?
優しくて自慢の兄から悪魔の言葉が放たれたような気がする。母へのストレスが溜まって、勝手に脳が悪口へと変換したのかもしれない。
「キライ?」
日本語を初めて習得した外国人のように反応してしまう。
そんな様子がおかしかったのか、兄は目尻に皺を寄せて笑う。
「俺が一番この世で大切だと思っている人物は誰だと思う?」
「加奈ちゃん?」
私の答えに兄は咳き込む。少しからかってやろうと思い「真紀子ちゃん? 里奈ちゃん? 京香ちゃん?」と歴代の彼女の名前を上げていく。
今は彼女はいないらしいけど、兄のことだからすぐに出来るだろう。
「ちょっと待て、なんで紗英が俺の元カノの名前知ってるんだよ」
「お兄ちゃんは人気者だから、彼女が出来たら噂になるに決まってるじゃん。嫌でも私の耳に届くよ」
まじか、と兄は自分のことがそんなに広まっていたのかとショックを受ける。
私はお箸をお弁当の上に置く。兄に「あとはあげる」という仕草をしてお弁当を返す。
「有名人は大変だね」
兄は残りのお弁当を口に詰め込みながら頷く。
「お母さんのこと、どれくらい嫌い?」
彼は一瞬私の質問に固まり、すぐにグッと白ご飯を飲みこんだ。そして、ゆっくりと口を開く。
「殺したいぐらい」
兄の確かな声。心臓がドクンッと跳ね上がる。ゴロゴロっと強い雷の音が鳴り響いた。
……目の前にいるこの人は誰? 今まで知っている私の兄じゃない。